ある夏の、夜に
視界の殆どが黒に塗り潰された世界に、足音が響く。規則正しく繰り返されるそれは、ゆっくりと、しかし確実に歩を進める私の足から発せられていた。
いつの間にか周囲は黒の世界から、月の無い空に抱かれた草原へと変わっている。
別段それを不思議がることもなく、またそれを当然のこととして受け入れて、私はさらに進んでいく。これといった目的もないまま、何かに突き動かされるようにして。
どこからかやってきた無数の蛍光色が、私をからかうようにふわりふわりと近付いてきては離れていく。ちらりと照らされた足元には白い花。人の手のひらをすぼめたような形のそれは、ささやきすら交わすことなく静かにその場に存在していた。
さくり、と草を踏む音が止む。
誰かの気配を感じて顔を上げた私の前で、影をまとった痩躯が闇に溶け込むようにして佇んでいた。
「今晩は」
「おや、迷子かな」
「ええ。迷子でしょう」
きっと。
付け加えた言葉に、その人はゆるく微笑む。小さく動いた唇は「可笑しな人だ」と紡いで、再び弧を描いた。
向き合う私たちの間を、緑を含む風が通り過ぎていく。
「貴方はここで、何をしているのですか」
無音を避けるように。いや、避けたくて、私は問いをぶつける。訊いたところで何か変わるとも思えない、無意味な問いを。
「捕まえているのさ」
「何を」
「これを」
ゆらり、と。中空に差し出された手のひらは、足元の花と同じ色、同じ形。白磁を思わせるその器の中に、周囲を彷徨っていた小さな光が誘われて包まれる。
「蛍、ですか」
「蛍に見えるかい?」
逃がさぬよう軽く丸められた手のひらが差し出され、その中の淡く輝く光をよく見るようにと指示される。言われた通りに目を凝らすと、蛍光というにはぼんやりとしていて、どこか儚さの感じられるそこに、虫の姿はなかった。
「こうして捕らえて、連れていく」
どこへ、と訊くことはなかった。
ただ、頭の隅で外れていた何かが、カチリと噛み合った音が聞こえて、私の問いは無駄ではなかったのだという妙な安心感が生まれていた。
「この時期はね、多いんだ。まだ少し早いというのに、こうして紛れて出てきてしまう」
待ち焦がれて。逢いたくて。
どうしようもなく気が急いてしまう気持ちは理解できないこともないけれどね。
困ったように頭を軽く振った人は、目元を覆うように伸びた前髪の向こうから私を覗く。奥の奥まで見透かす視線に居心地の悪さを感じて後退った私を、彼は言葉で縫い留めた。
「君は何故出てきてしまったのだろうね」
「何故でしょうね」
微笑みを作った私とは逆に、彼の顔は険しい。彫像のようなそこに浮かぶのは、葛藤だとか、悲しみだとか、苛立ちだとか。
あらゆる感情がない交ぜになったそれは、息を呑んで見惚れてしまうほど美しく見えた。
「出てこなければ、連れていかずに済んだのに」
ふと紡がれたのは苦しみ。喉の底から絞り出すような音に、どうしようもなく悲しくなって、私は、私と彼を救うために口を開いた。
「もう、疲れてしまったのです」
「疲れた?」
彼は私の言葉を訝しんで、首を傾げる。その仕草が誰かに似ているような気がして、今度は自然に笑みが浮かんだ。
「記憶だけでなく、姿をも無くして。ただ彷徨うだけの亡霊として在ることに、疲れてしまったのですよ」
言葉にして初めて、私は自分がここにいる理由を理解した。理解して、納得した。
「何かを、誰かを求めていたような記憶はあるのです。けれど、長い年月を彷徨う間に、私はそれを忘れてしまった」
私は何を求めていたのか。それも今となっては霧の彼方。得られたのか、得られなかったのか。はたまた端から得られることの無いものだったのか。
ハラハラと崩れていく記憶をそのままに彷徨い続けた挙げ句、全てを失った私に、それを判ずることは出来ない。
「だから、向こうに逝こうと思って」
ごめんなさいね。
誰に謝った言葉なのか。それすら分からぬまま、目の前の彼に向けて手を差し出す。
もう、この世に何の未練も無いのだと。そういうような顔をして。
「連れていってもらえますか」
「君がそれを望むなら」
ひんやりとした手が、差し出した私の手に重ねられる。本当に磁器のようだと感心する私の手を引いて歩き出した人の前に、どこからか蛍がやって来て小さな道を作る。
二人が二人、黙々と。淡く輝く道を辿るように進んでいくにつれて、辺りを覆う闇が再び色を増していく。
どこを歩いているのか。誰と歩いているのか。そもそも本当に歩いているのか。
前に進んでいるのかどうかすらも分からなくなった世界で足を止めた私の瞼を、優しい声がそっと塞いだ。
「おやすみ。私の可愛い人」
生まれ変わって、またおいで。
懐かしい人の。大好きだった人の顔が、姿が浮かんで弾けて消えていった。
***
2017.7.7 独りワンライ
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