夜に喰われた人の話
「明日が来なけりゃ良いのにって思ったことはねぇかい」
暗闇の中から音もなく現れた誰かは、呆けたままの私の頬に優しく手を添えてそう言った。少々乱暴な言葉のわりに、その声音は驚くくらい柔らかだった。
「ずぅっとずぅっと。夢の中に入られりゃ良いのに。誰にも邪魔されないまま眠っていられりゃ良いのにって、そう思ったことはねぇのかい」
ゆぅるりと。ほんの少しだけ細められた眼は、疲れきって幽鬼のようになった私を映してなおも続けた。
それは私の心を読んだかのようだった。
「現実ってのは辛ぇもんな。思い通りにならねぇもんなぁ」
そうだと思った。
現実は何一つ思い通りにならない。どれだけ頑張っても報われない。何かやりたいことがあった筈なのに。夢があった筈なのに。気付いた時には何も分からなくなっていた。振り返った先には何も残っていなかった。
空っぽになった状態で。全てが上手くいかないのに。それなのに生きていなければいけないことが辛かった。何も出来ないまま、誰の役にも立てないまま。訳の分からない不安を抱えて生きるのは、とてもとても苦しかった。それでも足は止められなかった。
「ああ、辛かったなぁ」
もう堪える必要はないのだと、柔らかな言葉が心を解す。涙腺が緩んでいくのが分かったが、泣くことだけは許せなくて、歪みそうになる唇をきつく噛んだ時だった。
「泣く時は思い切り泣くのが良いんだよ」
誰も見てはいないから、と真っ白な腕が伸びてきて、拒絶する暇も与えず、その中に収めてしまう。
見知らぬ誰かの前で泣いてしまう恥ずかしさはあったけれど、伝わる温もりは離れ難くて。それに甘えてしまうことにした。
「――ほら、俺の手ぇ取りな」
私が泣いて、泣いて、ひとしきり泣いて。ようやく泣き止んだ頃に、今まで黙っていた誰かは言った。
「疲れただろう。向こうまで連れていってやるよ」
落ち着かせるようにゆっくりと背中を擦ってくれながら耳元で囁かれた言葉は、毒のように甘かった。けれど不快ではなかった。
どこかでそう言われることを望んでいたからなのかもしれない。どろりとしたそれは、静かに私の中に落ちていった。
「向こうでゆっくり眠ったら良いさ。気の済むまでな」
そう言って微笑んだ誰かの瞳は、まったく笑っていなかった。闇よりも深い黒が、じっと私を見つめているだけだった。
二度と戻れないのだろうと思った。ついていってしまったら。連れていかれてしまったら。二度と此方には帰ってこられないのだろうと感じた。
だけど、それでも良かった。それくらい朝が怖かった。続く日常が恐ろしかった。
だから私は――
【夜に喰われた人の話】
ごめんな、と。怪物は腕の中で眠る彼女にそう告げた。
幸せそうに微笑んでいる彼女が目覚めることは二度となかった。
***
2017.5.16
Twitterで呟いていたものを大幅に加筆。
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