墨を前に想う
心を静めよ。
そう説かれている気がして、畳敷の部屋で一人、ひっそり笑う。
脳裏に響く言葉は、あのヒトの口癖のようなものだった。人一倍感覚が鋭く、見えなくても良いモノが見えてしまっていた私が怯える度に、柔らかな手で瞼を塞いであのヒトは言うのだった。
心を静めよ。平静を保つのだ。揺らぎ続けるから波が立つ。深く、深く、呼吸をしてみよ。――そう、上手い上手い。お前は良い子だな。
あのヒトの手のひらが、俯く私の頭を優しく撫でる。はっと目を見開けど、映るのは畳の緑、そればかり。
幻から返ったことを境に、笑みを含んだ声も尾を引きながら消えていく。
子ども扱いはやめてくれと何度言っても、あのヒトは笑うばかりで真面目に取り合ってはくれなかった。「まだまだ子どもだろう」と言って、膨らんだ私の頬をつつきながら笑声をあげるのだった。
「寂しいですねぇ」
呟かれた言葉が唇からこぼれて転がっていく。寂しいのだと、私が言うと黙って抱き締めてくれたヒトは、もういない。あのヒトがどのような顔で、姿だったのか既に忘れてしまった。
今はただ、唯一残るあのヒトの香りを忘れぬよう墨を磨ることしか、思い出の頼りはない。
「なかなか静まりませんよ」
今日は駄目ですね、と困ったように笑う青年を慰めるよう、慣れ親しんだ墨の香が立ち上った。
***
和風創作企画『絢』(@ukaku_Ay)様主催のワンライより。
第五回 和風即興創作 お題:墨の香
をお借りしました。
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