此処でなく、何処かの

一二三

誰そ彼時の記憶

 昼と夜のあわい。青かった空が徐々に橙に変化する夕暮れに、誰かと並んで歩いた記憶があるのです。

 隣を歩く誰かの顔は覚えていません。どんな声で、どんな人だったのか。問われたところで答える術などありません。

 あれは幻だったのだと言われてしまえばそれまでですが、確かに誰かと並んで歩いたことがあるのです。

 その誰かは、影法師のように真っ黒でした。髪の色や瞳の色がそうであったとかではなくて、ただただ真っ黒だったのです。それから、繋いでいた手が驚くほど冷たかったことも覚えています。全てが真っ黒であるなか、繋いだその手だけは真っ白でした。

 けれど、それを恐ろしいと思った記憶はありません。私の手を握る誰かの手は、とても優しかったから。


 記憶の中の誰かと私は、橙から赤に変わった世界の中を並んで歩きます。誰かに手を握ってもらいながら、私はずっと喋っていました。

 今日あった、楽しいことや悲しいこと。何を見つけて、何をなくしたのか。どんな本を読んだのか、どこで遊んだのか、なにを学んだのか。

 私が話す全てのことを、あの人は相づちを打ちながら聞いていてくれました。

 一度「退屈ではないの」と訊ねたことがあります。あの人は静かに首を振り、その顔に綺麗な笑みを浮かべて「楽しいよ」と答えてくれました。

 ああ、そうです。あの人はいつも笑っていました。穏やかで柔らかな笑み。あの人の浮かべる笑みが、私は好きでした。


 あの人と私は、赤から藍に変わる世界の中を歩き続けました。まるで迫る夜から逃げるように。

 いえ、逃げていたのは私だけなのかもしれません。彼はいつも楽しげでしたから。

 彼は闇夜のよく似合う人でした。真っ黒なコートを羽織り、滑るように歩く人でしたが、たまにわざと音をたてて歩くことがありました。彼がたまにたてる、規則正しい足音に合わせて歩くのは、ちょっとした楽しみでした。

 あの時の私は、幸せだったのです。


 彼との別れはいつも四ツ辻でした。

 もう、誰なのか見分けのつかない薄闇の中、私は手を振り、彼は軽く頭を下げる。それが別れの挨拶でした。

 言葉はありません。それだけで良かったのです。彼と私には、それで充分だったのです。

 彼は私で、私は彼でしたから。


 今、黄昏時を私は歩きます。

 あの日、誰かと並んで歩いた記憶を抱いて。顔を忘れた誰かの代わりに、影法師を連れて歩くのです。




***

和風創作企画『絢』(@ukaku_Ay)様主催のワンライより。

第三回 和風即興創作 お題:誰そ彼時

をお借りしました。

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