宙の音が聞こえる

 雪が降っている。

 えんじゅの木に、雪がつもっていた。


 「かぞく」というものになってから、一週間がたとうとしている。

 のぞみと和希は相変わらず、仲がいい。

 仕事から帰ってきた和希をのぞみは少女のように、うれしそうに出迎える。

 和希を「おとうさん」と呼び、土曜日や日曜日には、のぞみも連れて公園で遊んでいた。

 勇魚やウタは学校に行く以外はほとんど家で過ごしている。


 ウタが絵を描いているところを、勇魚はベッドにすわって見つめていた。


 今日は土曜日で、ウタも勇魚も学校は休みだった。

 勇魚は部活に入っておらず、いわゆる帰宅部として毎日をウタと過ごした。

 ときどき、ウタは帰りが遅いときがある。

 それは課題が追い付かないからだと笑っていた。

 けれど、家では自主的に絵を描いていて、その課題とは別物のようだった。

 ふたつの絵を掛け持ちして描いているのだ。


「どっちかにすればいいのに」

「前はそうしてたんだけど……。課題の絵と描きたい絵が違ったから」

「ふうん」


 油絵具特有のにおいが、部屋をつつみこむ。

 けれど、部屋は汚れていなかった。イーゼルの下に新聞紙が敷かれている。


 昼になろうとするとき、ウタの部屋を誰かがノックした。


「はい」

「ウタくん? ちょっと開けてもいいかしら」

「あ、はい。どうぞ」


 なんとなく、ベッドからたちがる。入ってきたのぞみは、驚いたように「あら」と勇魚を見た。


「勇魚。いたの。ちょうどよかった。これからちょっと遠出するんだけど、あなたたちもいく?」

「いえ、僕は……。絵がもうすこしで完成するので留守番してます」

「そう。私もウタくんの絵、楽しみにしてるから無理にとは言わないわ。勇魚は?」

「俺もいい。寒いし」

「もう。子供は風の子でしょう? すこしは外に出たら?」


 ウタと自分のこの差は何なんだ、と思うが、口には出さない。

 それに残念なことに「子供は風の子」という年齢はすぎた。


「じゃあ、お金、おいておくから。夜ご飯、食べに行きなさい」

「おー」


 ウタの机の上に5千円札を置いて、のぞみはそのまま出ていった。

 ふたりで五千円とは、だいぶ奮発している。


「五千円かぁ……。寿司でも食べられるな。何食う?」

「きみの好きなものでいいよ」

「おまえ、やっぱり食事に欲、ないよなあ」


 食べるのは遅いが、好き嫌いはないという。

 なんでも食べる。

 魚もきれいに食べるし、蛍がいやがる野菜も好き嫌いなく食べる。


「じゃあ、せっかくヴェネツィアの絵描いてるんだから、イタリアンにするか? この近くに小さいけど、いい店あるんだ」

「うん。そうしよう」


 ウタは絵筆をおいて、そっと息をついた。

 すこし疲れた顔をしている。


「今日はこれくらいにしておいたら?」

「そう、だね……」


 ウタの細い体がふらりとゆれた。とっさに手を差し出して、床に倒れこむことを何とか避ける。


「おい、ウタ。すこし休んだらどうだ? おまえ、クマできてるぞ」

「……ごめん……。最近、すこし、眠れていなくて」


 ベッドの上にゆっくり座りこむウタのとなりに、おなじように座った。

 ぎし、とベッドがきしんだ。


「俺のせいか?」

「ちがうよ。課題と模写の両方描いてるから、ちょっとした寝不足」


 ウタは苦笑いをして、翡翠のような目を細めた。

 うそはついていない。

 けれど、勇魚はわずかな無力感に襲われた。


「ウタ」

「ん?」


 そっと、ウタのなまえを呼ぶ。いとしいものだけにする声色で。


「……あんまり、無理するなよ」

「うん。ありがとう。勇魚」


 ちいさくほほえむウタのほおに、手をふれる。

 部屋は最初からあたたかいのに、ほおは冷たかった。


「やっぱりおまえの体温、つめたい。暖房、ついてるのに」

「そう、かな? でも、勇魚の手はあたたかいよ。すごく安心する」

「……っ」


 勇魚の手に、するり、とほおをすりよせる。

 背筋がしびれるような、その行為。


 手をおもわず放す。

 わずかに目を見開いたウタは、ベッドの上に押し倒されていた。

 まっすぐに、勇魚を見上げるその眼。


「どう、したの……? 勇魚」

「べつに」

「勇魚……」


 なまえを呼ばれる。大切なものにするかのような声で。

 勇魚は肘をベッドに沈ませて、ウタにキスをした。


「ん」


 鼻にかかったような声。

 ぞく、と背筋がわななく。


 このまま、めちゃくちゃにしたい。

 触れられるところすべてに触れたい。


 凶悪なその思いを、必死に飲み込む。


 無垢だ。ウタは。

 汚れなどしらないのではないかというほどに。

 それでも汚すのは、自分だ。

 勇魚だけだ――。


「クリスマスイヴ」

「?」

「母さんたち、でかけるって。高級レストランに行くってはりきってた」

「そうなんだ」

「俺は行かない」

「え?」

「だから、おまえも行くな」

「……ぁっ」


 ちいさな声。

 ウタの首筋を甘噛みする。

 跡がつかないように。


「その意味、分かるか」

「勇魚は強引だね」

「悪いな、生まれつきだ」


 出会って、まだ一か月。

 もう、ひと月が過ぎようとしている。

 

 絡められた手。

 勇魚の手をウタがきつく握りしめた。勇魚は驚いたように目を見開く。


「僕にだって、欲は、あるよ」


 恥ずかしそうに顔をそらした。

 抱きしめても、キスをしてもたりない。

 そう、ウタは言う。


 おもわず、喉をならす。

 凶暴な欲を押し込めるように、ふたたびウタにくちづけた。

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