湖の底に眠る翡翠の夢

 勇魚はずっと、ウタのとなりにいた。

 そばにいることが当たり前だというかのように。


 他愛もないはなしをした。

 ウタは眠たそうにしていたが、勇魚のことばに耳をかたむけていた。


 夕方になると、勇魚は自分の部屋にもどってモスグリーンのコートを着て、外に出る準備をした。

 そういえば、とおもう。

 ふたりだけで出かけるのははじめてだ。

 そう思うと、どこか浮足立つような気がする。


「ウタ、準備できたか?」

「うん」


 ウタの部屋にはいると、黒いダッフルコートを着ていた。

 幼い顔がもっと幼く見えて、すこし笑ってしまう。


「なに?」

「いや、別に。……行くか」



 外は雪はやんだものの、ひどくさむい。

 冷たい風がほおをうがつ。

 思わず肩が上がってしまう。


「寒いね」

「そうだな。でも、すぐ近くだから。……あ」


 向こう側から歩いてくるのは、同じクラスの女子生徒だった。むこうもこちらに気づいたのか、すこし茶色かかった髪の毛をふわりとゆらす。


「月宮くん。こんばんは。……あれ、そちらのひとは?」

「ああ、俺の……兄になったひと」

「お兄さんになったひと? あ、もしかして、お母さん、再婚されたの?」

「……まあ」


 言葉をにごすとそれを察したのか、クラスメイトはウタを見上げて、頭をさげた。


「はじめまして。私、月宮くんのクラスメイトで、如月ゆかっていいます」

「月宮ウタです」


 ウタも、ちいさく頭を下げる。

 如月はすこしだけほほえんで、「じゃあ、またね」と通り過ぎていった。


「かわいいひとだね」

「まあ……一応、高校のミスコンで一位だったからな」

「へえ」

「なに、気になる?」

「高校でもミスコンなんてあるんだと思って」


 如月ゆかは、相当顔も性格もいい。気が利くし、友達も親友もたくさんいる。

 けれど、ウタは「かわいいひとだね」と笑っただけだ。


「興味ないのか? 如月、結構かわいいと思うんだけど」

「僕は……きみがいるから」


 すこしだけ、寂しそうに笑う。


「悪い……へんなこと言った」

「? そんなことないよ」

「……腹減ったな。寒いし行こうぜ」

「うん」


 時々ひとと行きかう。みな、寒そうに肩をあげて急ぎ足で歩いていた。

 ちいさな看板がわずかに光っている。

 イタリア料理店がある路地裏は、すこしほの暗い。


 店はそれほど広くはないが、そのぶんあたたかい気がする。

 小さな店だが、ピザを焼くための本格的な石窯があった。


「いらっしゃいませ」


 店員に案内された席に座り、とりあえずメニュー表をみおろした。

 いつも頼むのは、ボンゴレ・ロッソだ。


「俺、もう決まってるから」

「僕は……カルボナーラにしようかな」


 決まるのが早い。

 メニュー表をみると、一番おおきく載っていたものだった。

 ほんとうに、食には執着しないらしい。

 店員を呼んで、注文をする。


「おまえ、もうちょっと、食事に欲出した方がいいぜ」

「お腹にたまればそれでいいと思ってたけど……。そうかもしれないね。たくさん、おいしいものあるから」

「だろ? それにしても、腹にたまればそれでいいって、どんなだよ」

「うん」


 ウタはすこしだけおかしそうに笑う。

 いつも控えめに笑うな、とおもった。

 大きな声で笑うことも、腹を抱えて笑うこともしない。


「ワインとか、頼めば? これだけじゃ、5千円がもったいない」

「勇魚はまだ飲めないでしょう。お酒」

「そりゃまだ高校生だからな。じゃあ、ワインの料金分、ソフトドリンク頼む。それでいいだろ?」

「そういう意味じゃ」

「すみませーん!」


 下心、というろくでもないものがあったのは事実だ。

 ウタを酔わせたらどうなるのか、興味があった。

 パスタが運ばれてくる前に、赤ワインとウーロン茶が運ばれてくる。

 水晶のように磨かれた、ワイングラス。

 それに、おずおずと絵具でよごれた手でふれる。


「ねえ……。見て、なにあの手……」

「うわ、きたねぇ……」


 ウタの手を見て嫌そうな顔をしている男女が、隣の席にいた。

 勇魚は知らず知らず、眉をよせる。

 実際のウタは聞こえているだろうが、気にしていないようだった。ただ、困ったように笑っているだけだ。


「手、洗ってないのかしら」

「……おい」


 勇魚がテーブルに手をついて、隣の男女をにらむ。

 すると、すぐにその男女は目を逸らした。


 胸中で舌打ちをする。


「ごめんね」

「おまえが謝ることないだろ。じゃ、かんぱーい」

「え? あ、かんぱ、い?」


 ウーロン茶がガラスのコップのなかでゆれる。

 ワインも、グラスのなかでかすかにたゆたう。


 なにに乾杯だったのか分からなかったが、心のなかにあった汚いものを払しょくしたかったのかもしれない。


「おいしいね。このワイン」

「へえ。やっぱりワインってうまいんだ」

「二十歳になったら、一緒に飲もうね」

「……おう」


 どこかうれしそうに笑うウタの表情に、胸がやわらかくしめつけられた。

 そのことばが、とてもうれしかったからだ。

 17歳の勇魚が、あと3年たったら、ウタと一緒に飲むことができる。

 それまで、一緒にいられる。

 いや、そこからも。一緒に、きっと。


「お待たせいたしました」


 店員が、ぱりっとした白いテーブルクロスの上にパスタを置いた。

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