きみのはなしをきかせて。
二週間後、今度は勇魚たちがウタの家にきた。
のぞみは蛍の手をひいて、リビングに上がった。
「勇魚は二度めなんでしょう?」
「ああ、まあ」
「ウタくん、ありがとう。あの日、雨と雷がすごくて、勇魚のこと心配していたのよ。雨宿りさせてくれていたんでしょう?」
「いえ。お構いもできなくて」
ウタはどこか恐縮しているようだった。
「和希さん。こちら、よかったら召し上がって。焼き菓子なの」
「ありがとう。じゃあ、紅茶でもいれようか。ウタ、いれてくれるか?」
「うん」
椅子が5つもなかったので、ウタと勇魚はウタの部屋で焼き菓子を食べることになった。
「俺もなにか手伝うか?」
湯を沸かしているウタに問う。
のこりの3人は、椅子にすわって談笑していた。
「ありがとう。棚からカップとソーサーを用意してくれる?」
「りょーかい」
白い食器棚から、カップとソーサーを見つけるのは、それほど大変ではなかった。
あまりにも食器が少なかったからだ。
月宮の家よりも、はるかに。
カップとソーサーをキッチンに置く。
「なあ、ウタ」
「?」
「どうして、あのとき……」
「あのとき?」
突き飛ばさなかったんだ。
そのことばは、口から出ることはなかった。
怖かったのかもしれない。
「いや。何でもない」
「……そう」
カップに湯を注ぎ、温めている間、勇魚は無意識に冷蔵庫に背中をあずけた。
銀色のティーポットから、きれいな色の紅茶がカップにそそがれる。
それをトレーにのせて、3人がいる机にのせた。
「蛍くんはミルクティーにしておきました」
「あら、気を利かせてしまったわね。ありがとう、ウタくん」
「じゃあ、僕たちは部屋にいます」
「仲良くな」
「うん。行こう、勇魚」
ウタの部屋に入ると、イーゼルの上にリネンの布がかけられていた。
また何か描いているのだろう。
「もう何か描いているのか?」
「うん」
テーブルに、カップを置く。紅茶のふわりとした香りがただよった。
「まだ途中だけど、ヴェネツィアの風景画。練習だから、模写だけど」
「へえ。見てもいいか?」
「うん、いいよ」
布をそっと取り去る。
線画と色がほどこされている場所があった。
うつくしい、水の色。
水の上に浮かぶ、舟。アーチ型の橋。
「やっぱりきれいだな。おまえの絵」
「ありがとう。勇魚」
ベッドにすわったウタに、椅子に座るように促される。促されるがまま、椅子にすわると、木の軋む音が聞こえた。
「――あのさ」
「?」
先刻、言おうと思ったこと。
今なら、聞ける気がした。ここには母も蛍もいない。
恐怖感も、この絵がぬぐってくれた気がした。
「どうして、突き飛ばさなかったんだ?」
「突き飛ばす……?」
「あのな、忘れたのか?あの雨の日、俺、おまえを」
「ああ……。別に、いやじゃなかったから。きみは、嫌だったの?」
「いや、って……。俺からしたんだから、べつに、俺は」
恋じゃない、と。
そう繰り返してきた。
そうだ。これは恋じゃない。
では、何なのだろう。
抱きしめた意味は?
一時的なものだと思っていた。
けれど、二週間たっても心のなかの種火は消えてはいなかった。
「紅茶、飲もう。おちつくよ」
「……ああ」
机のうえに置かれたカップを持ち、そっと飲み込む。
もうすこし冷めてしまっていたが、心地のよい甘さが喉をとおる。
「すこし、冷めてしまったね」
「けど、おいしい」
「よかった」
「ウタ、おまえさ……。好きなやつとか、いる?」
「いないよ。ずっと絵ばかり描いていたから」
「そっか……」
紅茶をひとくち、飲む。
口のなかを湿らせてから、ベッドにすわっているウタを見つめた。
細いあご。
白い肌。
痩せた手の甲。絵具まみれの手のひら。
翡翠のような目。
「でも、すきなひとができたらいいよね。恋は、とてもすてきなことだと思う」
「けど、辛い」
「それだけじゃないでしょう?」
ウタは、どこまでもやさしい目をしていた。
小さなこどもを諭すような目で。
「……恋をしたことはないけどね。僕は」
「なんだよ、それ」
すこし、笑う。
けれど、彼がそう言ったことは正しかった。
辛いだけではなかった。
楽しかったし、うれしかった。
そういう思いは、最近なかったのだが。
でも、今は。
(迷っている。)
これは、恋なのか。それとも、ただ一時の恋に似たようなものなのか。
ウタを抱きしめて二週間、あのつめたいぬくもりを忘れたことはなかった。
この手が、ふるえるほどに。
「って、待てよ。初恋もまだってことか?」
「うん。だから、僕が言ったのは一般論」
「一般論、ねえ……」
ウタはベッドから立ち上がって、自ら描いた、ヴェネツィアの風景画を見下ろした。
これもきっと、出来上がったら捨ててしまうのだろう。
白いうなじが見える。それに誘われるように、勇魚も立ち上がった。
「ウタ。もう一度、おまえを抱きしめたら、どうする?」
「僕を抱きしめたいなら、抱きしめてもいいよ。きみがよければ」
「……なんだよ、それ」
きみがよければ。
それは、ずるい言い方だ。
けれど、怒りよりも疑問のほうが大きい。
「きもちわるくないのか?」
「どうして?」
「ど、どうしてって、男同士だろ? ふつう……」
「ふつうって、なに? みんなと同じってこと?」
急に、ウタの表情がくもる。
ふつう。
その言葉に反応したのだ。
「べつに、ふつうが一番いいってわけじゃないけど……」
「――うん」
ウタが一歩、足を踏み出す。体が近づいていく。
「僕はそのままのきみがいいと思うし、きみも僕はこのままでいいって思ってほしい」
「……ウタ」
「それがいちばんいいと思う」
「そう、だな」
ウタの額が勇魚の肩にふれる。
不思議と、心地がよかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます