蝶の軌跡

 変わらない、ということは難しい。

 いや、変わらないということは人間にとって、絶対に無理なものだ。

 変わる。

 どうしても変わってしまう。

 それでも、それを受け入れられれば、それは相手にとって幸福なのだろうか。

 ウタが言った、このままでいいと思ってほしい。ということ。

 それを受け入れる。

 どんなウタでも、ウタにしかならない。

 彼が願ったことは、そういうことなのだろう。


「勇魚」


 やわらかい声。

 まるで、このヴェネツィアに流れる川の絵のような、透明感のある声。


 二度目の抱擁。

 それでもウタは、嫌がらなかった。

 いや、いやだという言葉さえ知らないかのような、無垢さがあった。


「きみはあたたかいね」


 こころの底から安心しているような声色。

 勇魚を信じ切っている、頭の重み。

 そっと、髪の毛にゆびを差し入れる。さらさらとした感触が、ゆびを覆う。

 日に浴びていない、痛んでいない髪の毛だった。


「おまえの体温が低すぎるんだ」

「冷え性なんだ。冬、絵筆をとるとき、かじかんでうまく描けない」

「手袋でもしたらどうだ?」

「やってみたけど、まるで自分の手じゃないみたいに筆が運べないから、やめたんだ」


 抱きしめて、まったく甘さのかけらもない話をしていることが、すこしおかしかった。

 そっと身体をはなす。

 黒いけれど、すこし薄い色味の目が、すこしだけ細められた。

 ほほえんだのだ、と知った。


「あと三週間くらいで、一緒に住むんだな。俺たち」

「そうだね。蛍くんも、のぞみさんも、父もいっしょだね」

「おまえの部屋、もう用意してある。大きさはここと同じくらい。絵を描くこと母さんにいってあるから、汚してもいいって言ってた」

「ありがとう、勇魚。でも、僕は……」

「なに」

「きみと、きょうだいになれるのかな。蛍くんみたいに、きみを見られるのか分からなくなってきたんだ」

「べつに、……いいよ。なにも、すぐにきょうだいみたいになれるわけでもないし」

「……うん」


 きょうだい。

 勇魚は、それがすこし疎ましく感じるようになった。

 うなずいたウタは、勇魚を見ているようで、どこか遠く――月を見るような目をしていたからだ。


 「きょうだい」という枠。

 最初から、ウタを兄のように見られなかった。それは今もおなじだ。

 海辺で絵を描いていた、映像ゆめ

 あれは、預言だったのかもしれない。

 最初から――出会うべくして出会ったのかもしれない。

 運命というと、馬鹿らしくて、ちいさな子どものようだけれど。

 母は和希と恋に落ちた。

 そして、愛した。

 だから、出会った。

 それだけだ。

 そう分かっている。理解もしているし、それ以上でもそれ以下でもないことは知っている。


 運命などというロマンティックなことばは、勇魚とウタの間にはない。


 運命ということばで片づけられるようなものではなかった。

 ただの偶然が重なっただけだ。


 だから、勇魚がウタを抱きしめたことも、運命ではない。

 偶然が重なって、こうなっただけだ。


「この絵が完成するときには、きっともうきみの家にいるとおもう」

「そうだな」

「そのときは、きみに見ていてほしい。さいごの一筆を終えるまで」

「わかった。見届ける」


 ウタは、ほっとしたような表情をして、細い声で「ありがとう」と言った。


「最後は、おわり。終わったものは見たくない。終わったものに手を加えても、それは死んでいるものを無理やり生き返らせるということとおなじ。だから、このヴェネツィアの絵も、終わったら捨てる」

「どうして、終わったものは見たくないんだ?」

「ひとは、死んだらおわり。絵も、おなじ。描いているときは生きているみたいに色づいていく。だから、描き終えたらそれでおわりなんだ」

「でも、海と空の絵は今も俺の家で生きてる」

「……そうだね」

「おまえに意見できるほど俺はできてないけど、生きていた証だって思えば、その絵もずっとおまえの中で生き続けるんじゃないか」


 はっと、ウタの顔があがる。

 なにかに気づいたかのように。すこしだけ薄い色の目が、ゆらめいた。


「僕は今まで描いてきた絵を、どう思っていたんだろう……。終わるものだから、って、諦めながら描いていたのかもしれない……。でも、きみの言うとおりだ。描き終わったから終わりじゃない。死んでない……」


 ひとりごとを呟くように、ウタはくちびるを動かした。

 彼は、「死」というものにひどく敏感なようだった。

 ひとの死も、絵のおわりも、ウタにとっては同じものなのかもしれない。

 死んだらおわり。

 たしかにそのとおりだからだ。


「おまえの絵はきれいだ。でも、きれいなだけじゃないと思う。そこにちゃんと意味がある。……まあ、絵に詳しくない俺が言っても仕方ないんだけどさ」

「そんなことない。絵に詳しくないひとが僕の絵を見てそう言ってくれるなら、ほんとうに意味があるんだって思える」


 ウタはほんとうに嬉しそうだった。

 二十歳にしては、幼い笑み。


「きみにあげる」


 殆ど何も入っていない机の引き出しから、そっと差し出されたのはアンデスキャンディーズ社のミントチョコレートだった。強いミントグリーン色のパッケージ。

 なぜ、チョコレートをウタは差し出したのだろうか。


「チョコレート、きらいだった?」

「いや、そういうわけじゃない」

「これね、ミントのかおりが強くて、好きなんだ。この辺りでは売ってないから、通販で買っているんだけど。よかったら、食べて」

「ひとりじゃ食べきれねぇよ」

「そう? じゃあ、半分こしよう」


 パッケージから、ひとつひとつ銀紙に包まれたチョコレートを取り出して、机の上に置いた。

 個別包装ならば、持って帰っても食べられるだろう。

 そう思ったが、ふたりきりで食べたかった。


「紅茶、いれてくる」

「いいよ。それよりこれ、食べようぜ」


 立ち上がろうとしたウタの腕を引く。彼はすこしまたたきをした後、うん、と頷いた。

 ウタは、再び机のいちばん下の引き出しから、古びた本をとりだした。

 すこし欠けているが、きれいなガラスが留め具になっている変わった本。


「最初から持っていたのは、これだけ」

「最初から?」

「僕が養護施設に入るとき……全然覚えていないから、ほんとうにちいさいとき、これを持っていたって。先生が言ってた。だから、これは僕だけのもの。でも、きみにも見てもらいたい。イタリア語だから、内容はまったく分からないんだけどね」

「――いいのか?」

「うん」


 宝物を授けるように、その本を勇魚に渡した。

 ガラスの留め具をはずして、厚みのある紙をめくる。

 そこには、ヴェネツィアの景色があった。水にうかぶ船。アーチ型の橋。


「これ……」

「そう。これを模写したんだ。でも、うまく描けない。だから今、すこし筆がとまってる。模写なんて、今までも何回もやってきたのに」

「どうして、これを描こうと思ったんだ?」


 ウタはミントチョコレートをひとくち、かじった。

 そして、こう言った。


「きみと出会ったからだよ」

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