透明感のある青と、しずかに染まる赤

 リビングに移動すると、季節感のない部屋におどろく。

 勇魚の家は、季節ごとの花が飾られていているからだ。どちらかといえば、色鮮やかだといってもいいだろう。

 けれど、ウタの家のリビングはテーブル、椅子、食器棚、テレビ、雑誌をいれるためのラックくらいしかおいていない。


 恋。

 それこそ厄介なものはないだろう。それでも、それ・・はすとんと胸のなかに落ちてきた。

 受け入れることができた。

 それは、急すぎるできごとだった。


 それでも、「好き」だということをいうつもりはない。

 きっと消えていく。

 それでいい。だから、これは「恋」というわけではないのだろう。

 悪くも、母の血を引いている。


 ――そう思わなければ、自分の心を守れなかった。


「殺風景だな、このリビング」

「そうかな。父も僕も、ほとんど部屋にしかいないから……」


 荷物がすくない、と母は言っていた。それは本当だった。


「すわって。コーヒーがいい? 紅茶がいい?」

「紅茶がいい」

「わかった。すこし、待っていて」


 ソファがないため、木の椅子にすわる。

 視線の先に、窓があった。外から見えるのは、曇り空だけだ。

 5階となれば、そうそう木も見えないのだろう。

 今にも雨が降り出しそうな空。

 天気予報を見ていなかったから、傘を持ってこなかった。

 スマートフォンで天気予報を見ると、午後から雨、と書かれていた。


 リビングはすこし、肌寒い。


「はい」


 白磁のソーサーとカップが机に置かれた。

 紅茶独特の、いいかおりがする。上品に添えられているのは、ティースプーン。


「ミルクは?」

「ストレートでいい」

「わかった」


 ウタ自身もストレートでよかったのか、そのままソーサーを机の上に置いた。

 彼は勇魚の前にすわると、カップを持ち、口につける。

 合間に見える白い指には、やはり油絵具がこびりついていた。


「ゆび、気になる?」

「……まあ、それなりに」

「どうしても、一回集中するとそのままにしちゃうから」


 恥ずかしそうに手をこする。

 別に恥ずかしいものではないだろう。


 勇魚もウタに倣って紅茶を飲む。

 ひかえめな渋みと、ストレートなのに感じる、わずかな甘さ。

 今まで飲んできた紅茶のなかで、いちばんおいしかった。


「おいしい。これ、おまえが淹れたのか?」

「うん」

「絵だけじゃない。この紅茶、今まで飲んできたなかで一番うまいぞ。ふつうに特技じゃないか」

「え? そうかな?」


 分かっていないのか。

 本当に、絵のことしか考えていなかったらしい。

 だからこそ、食にもとくに関心がなくて、こんなに痩せているのだろう。


「俺は、こんなに上手に淹れられない」

「きみも、紅茶よく淹れるの?」

「よくってほどでもないけど。たまに」

「そう。でも、料理を手伝うんでしょう。僕は料理なんてしないから、そのほうがすごいと思うよ」

「それとこれとは違うもんだよ」


 ウタの年齢は、二十歳だと聞いている。

 そのわりにはやはり、とてもいとけない。

 まるで、まだ何も知らない子どものようだ。

 けど、それはちがう。

 子どもは、こんなに孤独な目をしない。


 この世界に、自分はひとりきりだと信じて疑わない目をする自惚れた人間はたくさんいる。

 でも、この男はちがう。

 うぬぼれることもない。

 ウタは、自分はひとりだと思っていない。

 ひとりなのだと、理解していない。


 ただ勇魚から見ると、ウタは決定的に孤独だった。

 世界から切り離されていた。

 それこそ、カンバスに切り取られたかのように。


「なあ、おまえのこと、なんて呼べばいい?」

「え?」

「蛍はおまえのこと、お兄ちゃんって言っているだろ」

「きみが呼びたいように呼べばいいよ。呼び捨てでもいいし」

「じゃ、ウタって呼ぶことにする。おまえも勇魚って呼んでるしな」

「うん」


 年下が、年上のことを呼び捨てにすることに抵抗がないのだろう。

 うれしそうにうなずいた。


 すきとおるほどに、きれいな笑みだった。

 胸が締めつけられるほどに。


 恋。

 そっと胸のうちでつぶやく。


 どろ沼のように埋まっていく、こころ。

 まずい、とおもう。

 これ以上はだめだ、とも。


 ごまかすために、目をそらす。それくらいで逃げられるとは思ってはいないが。


「勇魚?」

「なんでもない。紅茶、おいしかった」


 無意識のうちに飲み干していた紅茶は、紅茶の茶葉がすこしだけ残っていた。


「ありがとう」

「なにがだ?」


 ふいに感謝のことばを告げられて、すこしだけ戸惑った。


「おいしい、って言ってくれて。はじめてだよ。おいしいって言ってくれたのは」

「そうなのか? 和希さんは?」

「父は紅茶、飲まないから。コーヒーばかり」

「へえ」

「……あ」


 ウタが椅子から立ちあがる。その視線の先には窓があって、暗い空からは雨が降り注いでいた。


「雨だ……。結構、降ってるね。雷もなってる」

「げ、まじかよ」

「時間、だいじょうぶ? よかったら、雨宿りしていって」


 もう、外はとても暗い。

 こんなに時間がたっていたとは思わなかった。

 ただ、雨が降っていて暗く感じるだけなのかもしれないが。


「今、何時だ?」

「5時だよ」

「そっか。すこし、雨宿りさせてもらうかな。あと30分やまなかったら、傘借りてもいいか?」

「……うん」


 雨が降る空を、不安そうに見上げている。

 白い首。

 白いほお。

 黒く、つややかな髪の毛。

 それを見つめる。


 ウタはどこか、不安そうだった。


「ウタ」

「なに?」

「雨、きらいなのか?」

「そうかもしれないね。雨がふると、どこか不安になる。僕はひとりきりだって、そう思ってしまう」

「……じゃあ、ひとりじゃなければいいんだろ」

「え?」


 不思議そうに首をかたむけるウタのとなりに立つ。

 雷が、どこかに落ちた。

 びりびりとした衝撃が、足をふるわす。


「おまえがいいなら、雨がやむまでここにいる」

「――ありがとう。勇魚」


 ウタが近づいてくる。

 そっと、静かに、おそるおそる。


「ありがとう」


 まるで迷子の子どもが親を見つけたように、勇魚のシャツの端を指先でつかんだ。


 鼓動が高鳴る。

 

「僕をひとりにしないでくれて、ありがとう」


 ありがとう、と繰り返しつぶやく。

 それが合図だったかのように、勇魚はウタの腕を強く引き――抱きしめた。


 ひやり、とした体温。


「どうしたの……? 勇魚」


 恋。

 恋じゃない。

 

 これは、恋じゃない。

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