『エジプト神話集成』

すぎいさむ 屋形やかた禎亮ていすけ

『エジプト神話集成』ちくま文芸文庫 2016年9月10日第一刷発行


「何だ、その分厚い文庫は」

 会社の昼休み、厚さ2.8 cmの文庫本を開いていた私に、先輩が声をかけてきた。

「京極堂に比べれば薄いですよ」

「そりゃそうだが……で、何の本だ」

「『エジプト神話集成』です」

 書店の紙カバーを外し、表紙を見せる。

「ハトホルとかバステトとか、エジプト神話の神様って名前だけは何となく知ってるけど神話知らないなー、と思ってたときに、書店の平台に出てたんですよ」

 先輩が、本を引っくり返して裏表紙を見る。

「……1900円+税!?」

「文庫で2000円越えは私も初めてですが、ここで買わなきゃ二度と出会えないかも! と買っちゃいました。出張先で」

「お前は何しに出張に行ったんだ」

「本との出会いは一期一会なんですよ?」

 先輩は釈然としないようだが、続ける。

「ところでこの本、全く初心者向けじゃないです。本文と訳注と解説、三ヵ所に栞挟んで見比べながら読みましたが、サラリと〝アメンエムハト一世の時代〟と言われても、そもそも解説されてる内容がわかりません。通常は、読む前に古代エジプト史の知識が必要だと思います。

 私は、わからないものを読みながら『うん、わからん。何もわからん、アッハッハ』と笑い飛ばし、〝いかにわからないか〟それ自体を楽しむという趣味があるので構いませんが」

「何だそのマゾ読書」

「ド素人としては、できれば年表つけてほしかったですね。

 そして、半分ほど読んで気づきました。どうやらコレ、神話の本じゃない」

「え? タイトル『エジプト神話集成』だろ?」

 驚く先輩。

「神様の面白エピソードを期待して買ったのに、神様が直接登場するの『ホルスとセトの戦い』とかの限られた章だけで、他は人間ばっかりなんですよ。例えば『二人兄弟の物語』だと、兄嫁が夫の弟を誘惑したけど袖にされた腹いせで、夫に『弟に誘惑された』と嘘吹きこんだり」

「神様関係ねーな」

「で、最初の凡例の頁に戻ったら、〈本書は筑摩書房刊『筑摩世界文学大系1 古代オリエント集』(一九七八年四月三十日刊行)のうち「エジプト」の章を文庫化〉と書いてある。それ読んで、天啓のように理解しました。コレ、神話じゃなくて文学の本なんだ!」

「お、おう」

 エウレカと叫びそうなくらいの私の勢いに、先輩は引き気味だ。

「『古事記』買ったつもりだったけど、『竹取物語』『万葉集』『徒然草』とかまでセットにした全集だった、と思えば納得できます」

「……物語に詩歌に、随筆? そりゃ確かに〝神話の本〟じゃないな」

「後半に、神への讃歌もたくさん載っているんですが、解説曰く」


〈神話の内容は神官たちのよく知るところであるため、神話については簡単な言及や暗示だけで十分である。このため、讃歌の主要部分は神話の内容を暗示するような神の名前や形容辞の列挙が占めるのが通常である。こうして現在のわれわれにとっては、背景となる神話が不明であるため、讃歌の個々の部分の正確な意味内容を知ることができない場合にしばしば出会うことになる。〉


「だそうで。そこを解説してほしいのにー。

 ま、文学全集だと思って読めば、古代の人々の物の考え方が詳細に書かれていて、それはそれで面白いです。収録作で特に多いのは〝親父の説教〟ですね」

「――は?」

「古代エジプトには、〝教訓文学〟というジャンルがありまして。人物名を明記して、王や政府高官などの偉い人が、息子に対する教訓を語るんです。

 例えば、紀元前2400年頃に書かれた『宰相プタハヘテプの教訓』。老齢で職を退く宰相が息子に、王に仕える者としての心構えや、妻を選ぶ際の注意など、40頁に渡って言い聞かせます」

「長いな!」

「『ドゥアケティの教訓』では、勉強して書記になれ、と父が息子に説教し、書記以外の職業を貶しまくります。書記って高級官僚なんですね」

「世知辛いぞ」

「『アニの教訓』も楽しいですよ」


〈ビールを飲みすぎてはならぬ。その時には、汝の知らないうちに、意味の分からぬ言葉が口からでてくる。倒れ、体がばらばらになっても、誰も手を貸す者はいない。(飲み)友達は立ち(上がり)、「大酒飲みはあっちへ行け」といおう。話をしに、人びとがやってくると、汝が幼児のように地上に転がっているのをみつけるだろう。〉


〈家にいる人には無遠慮に近づいてはならぬ。取り次がれたときだけ入れ。(さもないと)口では「どうぞ」といいながら、態度では拒絶される(ことになるのだ)。〉


〈上司が怒りに燃えているときは答えるな。かれに譲れ。上司が苦いこと(ば)を(吐く)ならば甘いこと(ば)で(答え〉よ。〉


「……何つーか、紀元前から、人間って変わってないんだな……」

「あ、『宰相プタハヘテプの教訓』にも凄いのがありました」


〈汝、(まだ)子供である娘と臥所ふしどを共にするなかれ。〉


「後世に残る文書で、そんなこと息子に注意するなよ!」

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