コンテンツ論:コンテンツの自由度

 統計学で耳にすることが多いと思うのですが、自由度という言葉があります。細かい説明や厳密な定義はひとまず置いておくとして、「自由度」とは自分で自由にできる数という意味です。


 前回の記事でコンテンツの持つ次元の話をしました。これを自由度の観点で紐解いてみたいと思います。


 まずコンテンツで使用する次元を挙げてみます。

1.X 直線

2.Y 平面

3.Z 空間

4.t 時間

5.s 音(sound)

6.I 意思(intension)

もっとあるでしょうがとりあえず計6次元で考えてみます。


 ゲームは上記6次元をすべて含みます。画面には奥行きが存在し、BGMがある。プレイヤーの手でお話を巻き戻すこともできない(そういった機能があれば別ですが)。またプレイヤーが操作することで初めてコンテンツとして成立します。言うなればプレイヤーの意思さえもコンテンツを構成する要素として縛られているわけです。すなわち自由にできる次元は0です。

 音楽は音と時間性はあります。またメロディは一方向性を持ちます(逆再生してもコンテンツとして成立しない)ので直線性もあるでしょうか。しかしその音楽を聴いてどう思おう(intension)が自由ですし、空間性、平面性もありません。自由度は3といったところでしょうか。

 本題の小説の自由度はと言うと、私は直線性以外のすべて。つまりコンテンツとしては最大の5だと思っています。


 ここからは完全に根拠がなくなる妄想なのですが、筆者は「自由度が高いコンテンツほど消費しづらい」性質があるのではないかという仮説を持っています。これがゲームやマンガよりも小説の敷居が高い理由なのではないかと。

 自由度が高い、それは消費者に消費の仕方を委ねているということなのでは。料理に例えると分かりやすいかもしれません。食材だけをわたせばそれを美味しく食べられるかはその人の料理の腕次第です。しかし渡す食材が既に味付けされているものだったり、インスタント食品ならばどうでしょうか。消費者の料理の腕は「あまり」関係なく美味しく食べられるでしょう。ただしどの人が食べても同じ味になりますが。


 自由度が高いほど高尚なコンテンツだと言うつもりはありません。職業と同じようにコンテンツにも貴賎はない。ただ小説のように自由度が高いコンテンツは、その消費に、マンガやゲームよりも多く、消費の仕方を求められているのだと思います(それをリテラシーと呼ぶ)。

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