第3話【風呂敷の信用性【幻】】

 五十人程が座る抗議室のホワイトボードとノートを交互に睨みながら、わたしは篠田教授と呼ばれる初老で痩せた長身の男の野太い声に耳を傾けている。モニュメントに触れて歪んだ世界が私の現実にリンクする。


 いや、わたしの意識に浸透して実体をなす。そこに実在する私になる。


「生物の進化とは、人間の想像を遥かに越えています。それぞれの環境に適応した奇異な姿をしている。生物全体で考えるなら、人間のような哺乳類が占める割合は、僅か数パーセントに過ぎない。そして、多くの割合を占めるのは昆虫だ。知っての通り。昆虫は両生類が地上に進出を果たした頃には、既に存在していた可能性がある。だが、可能性は可能性であり、物証は無い。そこで今回の調査だ」


 篠田教授が、一気に言って講義に集まった学生達を見渡し深く息を吸い込む。


 そして、暫く学生を見詰める。静寂を確認してから教授は続けた。


「進化の過程を紐解きたいなら。今、本当に目を向けるべきは恐竜や哺乳類。又は、両生類や魚類でも無い。調べるべきは、昆虫だ。現在、もしも劇的に地球環境が変化したなら、それを乗り越え繁栄出来るのは昆虫しか有り得ない。その進化の過程を解き明かせば、人類の未来も救えるかも知れない。とにかく、気になるなら今回の発掘調査に参加してくれ」


 教授は言い終えると、ひとりごちるように何度も頷いて更に話し続ける。私は、それを見詰めながらステージ脇に設けられた助手用のパイプ椅子に並び座る男性に囁く。


「篠田教授、全員に呼び掛けるなんて本気?」


「まぁ……焦ってるんだろ? 大学側も打ち切りを考えてるらしいから……」


 男性は囁き返したが、視線は教授の立つ壇上からブレる事は無い。男性の首から掛けられたIDには金田憲一と名前が書き込まれている。



 誰だ。


 でも、その思いも直ぐに弾けて消える。


 完全な「私」に、わたしが侵されていく。




「研究の?」


 私は、更に落とした声で訊いた。


「これまでの、実績は無いに等しいし。恐竜や深海の生きた生物に比べて、昆虫なんてパッとしないしな」


 憲一が小さな身振りを加えて答える。その後、私に視線を向けてから続けた。


「それに、化石なんかじゃ無くて新種を探した方が良いと思うけどな……」


 憲一が言う通り昆虫の化石を探す事は、その体の構造故に微生物に依る分解が早い為、通常の化石としての発見は至極困難だ。更に、身体全ての発掘と成ると琥珀と呼ばれる樹脂が化石化した物を探す以外に無い。


 それでも、その膨大な労力に比べての評価は剰りに低い。そもそも、現在の概念では昆虫は誕生した時点からの進化が他の生物に比べて乏しい。つまり、誕生した時点から完璧に程無く近い姿だった。だが、そんな筈は無い。


 進化を経て、淘汰を経て、種は、より良い姿に辿り着く筈だ。教授の言う通り、未知数である昆虫の進化を辿れれば、見えなかった多くの謎を解き明かせる可能性が高い。


 だが、世間が騒ぐのは恐竜や生きた化石達だ。

昆虫も生きた化石と呼べなくは無いが、ゴキブリのように三億年間も殆んど姿を変えずに生き抜いて来た生物でも、普段見馴れた害虫にに世間の興味は薄い。





 わたしは、自分でも知らない知識と思考に戸惑いながらも次々に溢れる思考を止める事が出来ない。





「最近、噂の蟹? とか? 見付けた方が話題になる」


 ノートに蟹の絵を書きながら憲一が言う。


「あれは、甲殻類でしょ? それに、繭から蟹が産まれるなんて、正しく眉唾ものじゃない?」


 私は憲一の絵の隣に一度楕円を描いて、その楕円形をバツ印で消した。


「上手いこと言うな……」


 言いながら憲一が、更に楕円形を丸で囲む。


「それより、今晩。飲みに行かない?」


「飲むだけならね」


 私は憲一の問いに微笑み答えた。



 そして、ノイズと白濁とした砂嵐のような粗く不快な光が私を埋め尽くす。


 なにかがフワリと移動する。


 それが、何なのかは明確には分からない。


 分からないが光は時間で空間だ。




*****


 いつもの時間に目覚めて、いつもの道を自転車で駆けた。違うのは目覚めた時にベッドの隣に憲一が居た事だけだ。


「まずかったかな……」


 憲一への置き手紙の内容を思い出し、私はため息を吐いた。


 朝靄の中をジョギングする人達とすれ違う。小気味良い走りを眺め、海沿いの橋から川を見下ろした。


 海からの海水と、山から流れ着いた真水がぶつかり合う流れの中で淡水魚の鯉と、海水魚の鰡が一列になり游いでいた。進化論が正しいなら、全ての生命の起源は海の筈だ。


 だとすれば、海から遡上し淡水での生活を手に入れた魚は、海だけで生きる道を選んだ魚より一歩進んだ変化を遂げた事に成る。同様に、海から川。更に、陸に生活環境を移した生物は、それ以上に進んだ変化をしたと言う事だ。


 しかし、その変化が正しかったのか間違いだったのかは誰にも分からない。個々に、異なる環境への適応を目指して変化を続けて来たに違いないからだ。


 ただ、一つだけ言える事は変化に依って得た能力を元の次元に戻す事は叶わないと言う事。当たり前だが、淡水魚の鯉が海水と戯れれば窒息する以外に道は無い。


「昆虫の化石か……無理だろうな……」


 私は流れに逆らい游ぎ続ける魚達を眺めながら呟いた。


「……えっ?」


 漫然と眺めていた筈の川の流れに異変を見付けて呟く。


「えっ? 何?」


 視線の先で、黒い無数の影が蠢く。


 蠍を連想させるシルエットが異様な程の数で行進している。均等に横一列で並んだ影が、流れに逆らい遡上している。


 「蟹だ! サソリだ!」と、ざわつく声に辺りを見渡すと人垣が出来ていた。身を乗り出し影を凝視する。


「違う……カニなんかじゃ無い……」


 私の呟きと同時に、橋の反対側から同じように川を見下ろしていた女性が悲鳴をあげた。


 悲鳴は、瞬時に絶叫に変わり、絶叫はひび割れた呻き声になった。 振り返り、女性に駆け寄る。


「大丈夫ですか? 大丈夫ですか?」


 先に、駆け寄っていた男性が女性に声を掛けた。


「だ…だすけで……」


 女性が、天を掴む様にもがき苦しみながら倒れた。


「大丈夫ですか? しっかりして下さい」


 倒れた女性の肩を揺らすと腹部から血が沸き出し内臓が溢れ出すのが見えて、人垣から呻きに似た悲鳴が響く。辺りが、悲鳴と呻きで歪んでいた。


 足下が女性の血液と腸で滑っていた。


 絶叫が更なる絶叫に変わる。


 人垣が崩れる様に唸り捩れる。


 込み上げる嘔吐感に堪えながら、女性の隣に座り込み溢れ出す腸を白い肌に出来た裂け目に必死に押し戻し、呻き続ける男性の肩を掴み強く揺すった。


「駄目! 死んでます!」


 叫びながら更に男性を揺する。


「あぁ……ぁ……」


 男性が声に成らない呻きで答える。だが、突然の出来事に我を忘れているのか男性が腸を押し込む動作を止める事は無い。


「止めてって言ってるでしょ! 聞こえないの?」


 悲鳴に似た問いを繰り返し男性の肩を再度揺すった。


「ガッ!……」


 突然、男性が呻いて踞る。先程の女性と同じように絶叫して宙を掴む仕草を繰り返し腹這いになる。


「何? 何? 大丈夫ですか?」


 言って、私は男性の隣に腰を降ろした。


 男性は、もがき苦しみながら同じ動作を繰り返している。血を流し内臓を垂れ流した女性は、もはや動く気配は無い。辺りが悲鳴で埋め尽くされる。


 耳を裂く悲鳴達に発狂しそうな恐怖に囚われた。それでも声を掛け続ける。


「大丈夫ですか? 大丈夫ですか?」


 不意に、騒然となる橋の中で何かを感じて男性から飛び退いた。


 上手く言葉には出来ない。


 何か。


 ゾワゾワと背を駆け上がる不快な感覚。


 今まで生きて来た中で使った事の無い感覚が働いていた。私は本能に従い、よろけながら後退る。男性から数歩離れた時に、男性のジョギングウェアが弾けた。


 いや、実際には腹這いに成った男性の背中が弾けた。


 信じられない程の血液が噴水のように上がり、男性が動きを止める。


 生きる事を止める。


 悲鳴が弾けた。


 腰砕けに座り込み這いずるように男性からの距離を取る。人垣が、ざわめきながら男性を中心に先程より小さく濃密に成る。


「近付いては駄目!」


 叫んだのと同時に人垣の中心で絶叫が聞こえて、血吹雪が舞った。





****


「これは、気まずいな……」


 憲一は、私が残した書き置きを眺めながら呟いた。




 なぜ?



 私以外の映像が意識に流れ込む。


 拒むことさえ出来ずに私にそれが浸透する。


『「バイトに行くね。皆には黙ってるから安心して。鍵はポストにお願いします」』


 私の短い文面を繰り返し読む憲一。仲間に秘密にするという事は私は知っているのだ。 憲一が他の女とも付き合っている事を。


「まずいな……」


 再度呟いてテーブルの上に投げられていテレビリモコンを取り、スイッチを入れる憲一。馴染みの街並みが映し出されていた。


「天神?」


 繁華街の名を呟いて音量を上げる。画面の中で、レポーターが血相を変えて叫んでいる。


「街中が、凄惨な状態です。見えるでしょうか皆さん。あちらこちらに、死体が散乱しています。警察や消防が総動員されて事態の収拾に努めているとの情報ですが……現時点では、誰も私の目の前に広がる地獄絵を救いには来ません。これはテロだとの情報もあります。死体は、どれも凄惨を極めた状態です。内臓が身体から抉り取られています。目撃者の話では仔犬程の生き物に襲われたとの証言も有りますが定かではありません。地獄です。正に、ここは地獄です。繰り返します。行政からの警告は出ていませんが、皆さん。決して家から出ないで下さい。御自宅で戸締まりを……」


 興奮してレポートを続ける声を打ち消すように映像がスタジオに戻る。


「現場は更に混乱している様子ですね……」


 キャスターがテーブルに次々に差し出される情報を読み上げる。


 異常事態。


 同時多発的犯行。


 大量無差別殺人。


 テロ。


 毒ガス。


 新型殺人兵器。


 他国の侵略。


 狂信者の暴走。


 ありとあらゆる可能性と現在の被害を叫び続ける。


「何だよ……これ……」


 憲一はテレビ画面を呆然と眺めながら立ち尽くした。


「情報です。今、入った情報です。」


 キャスターが怒鳴る。


「世界中です。世界中で同時多発的に同じ被害が出ている模様です。これはテロだ! 世界中の人間に対する大々的なテロです! 我々は……」


 憲一は弾けるようにベッド脇に投げていた携帯を握り締めた。


 私の番号を呼び出し発信ボタンを押す。混雑の為か通話出来ない状態に成っている。再度、押す。同じ返答が帰ってくる。


 友人に片っ端から連絡を取る。全てが同じメッセージに辿り着く。


 私の部屋の固定電話を握る。私に電話を掛ける。


 呼び出しの音声が聴こえた。呼び出しが続く。私が電話に出る気配は無い。それでも、電話を切る事は出来ない。


 掛け直して繋がる保証は無い。


 いや、繋がる筈が無い。


 憲一の焦れた精神が無意識に声に成る。


「クソッ! クソッ!」


 受話器を叩き付けたい衝動に駆られた時に、私が電話に出る。


「憲一?」




****


 見慣れた筈の街並みは、信じられない程の静寂に包まれていた。


 憲一が乗るスクーターバイクの軽薄な廃棄音が人通りの消えた街に吸い込まれる。時折、遠くで緊急車両のサイレンが聴こえるが、その存在は確認出来ない。


 既に、ニュースで流れていた死体が無造作に転がる凄惨な現場は何処にも無い。総動員されている筈の警察や自衛隊、消防の活躍で回収されたのか。それにしては、普段と違う違和感に満たされた街並みに納得出来ない。


「美憂……どこだよ……」


 誰にともなく呟くと、憲一はスクーターを止めた。電話で聞いた場所が、この橋の上だった事は間違いない。


「美憂! 美憂! どこだ!」


 叫び声は、遠くまで響き渡っていたが返事は無い。


 憲一は、スクーターを降りようとして一瞬立ち止まった。足下の異変に気付いたからだ。


 茶色く変色したそれは一見して何かは解らなかったが、良く見てみれば血液に違いない。不安が、五感を研ぎ澄ます。見えていなかったものが見える。聴こえていなかったものが見える。滲みは橋の上に無数に存在していて、その全ては何かを引き摺り川へと向かって行ったように見える。


「誰か居ませんか!」


 叫びながら滲みが向かった方向に歩み寄った。


「ウッ……」


 憲一は、濃厚な異臭に顔をしかめた。


「誰か! 誰か、居ませんか!」


 再度叫んで屈んで橋の下を覗き込んだ。 呼吸が止まり、激しい嘔吐感に胃液が喉を駆け上がった。それを、抑え付けて橋の下に駆け降りる。


「なんだよこれ……」


 呟いて絶句した。


 橋の下に無数の紅く染まった塊が張り付いている。絹の様な繊維で包まれたそれは、色さえ除けば実験室で見た蜘蛛の卵を連想させた。


「卵……」


 異様な光景に驚愕したまま、声に成らない声で呟く。橋下の壁に背を預けて込み上げたものを嘔吐する。吐瀉物の音が橋下に響き渡たる。


 同時に、それとは明らかに違う、硬い何かが這い廻る音が弾けたように重なり合った。本能が危険を訴える。頭の中で生命の危機を知らせる警報が鳴り響く。


「チクショウ! チクショウ! チクショウ!」


 憲一は、叫びながら這うように橋の上を目指した。




******



「学者だろ? 専門家ならハッキリ答えろ!」


 全速力で街中を走り抜ける装甲車の後部座席で、ぎっしり並んだ計器類を殴り付けながら屈強な男が叫んだ。


「解らんものを説明出来る訳が無いだろ。ハッキリした事は何も無い。憶測しか私らには出来ん。それにアンタ等は自衛隊だろ? 国の、いや世界の一大事にこんな事をしてる暇があるのか?」


 備え付けの小さなテーブルに両手をついて、教授が男を睨み返す。男が手元に置いて書き込んでいる書類のサインには河越優樹と名が書かれている。


「すいません教授。コイツは、まだ若いので礼儀を知らない。謝れ、優樹。私は橋口です」


 白いものが目立ち始めた短い髪を掻きながら初老の男が河越に目配せした。


 昨夜からの異常事態に軍としても対応の方向性が明確にはなっていなかった。一月前頃からの一連の騒動を専門チームが検証している。


 それでも、原因や解決策等は全く出来上がっていない。当座凌ぎとして知識人達の確保と安全な場所への輸送が軍に出来る唯一の攻撃となる。


 後は各地で頻発する異常事態にその場凌ぎ的な応戦を仕掛けることしか出来ない。そして何より軍の動きを遅くしている原因は、異常な殺害を繰り返している生物の確保に世界中のどの機関も成功していない事だ。未知の生物。未知の攻撃に対応するには時間が足りな過ぎる。


「すいませんでした」


 河越が俯き呟く。


「しかし、教授。時間が無いのは確かです。我々も事態を早急に収拾したいのです。しかし、奴等が何なのかさえ解らない。まだ、一匹も捕獲されていないが、あれが生き物なのは間違いない。突然、人間に牙を剥いた新種なのは間違いない。我々には対応策が無いんですよ教授。憶測でも何でも良い。我々には道しるべが必要なんです。解りますよね」


 橋口の言葉に頷く教授。憤慨に燃えていた目に冷静な色が戻る。


「これは完全な憶測だ。それでも良いかね?」


 教授の問いに橋口と河越が頷く。


「アイツ等は、昆虫だよ……昆虫だからこそ…」


「でも! でもですよ? 目撃者の殆んどが蟹のような甲殻類だと言っているらいしいんですが……」


 教授の言葉を遮った河越を橋口が睨む。


「すいません……続けて下さい」


 再度、俯いて河越が呟く。教授が頷いて続ける。


「甲殻類の動きでは無いよ……と言うか、無理なんだよ……まぁ、分かっているとは思うが海老や蟹の身体は、陸上での歩行には向かない」


「しかし、サソリ等は結構俊敏だと思うのですが? サソリに似た生物だとの目撃者もありますし」


 橋口は、鞄から数枚の写真を取り出しテーブルに広げた。


 ピンボケの写真には、サソリのような影が人に襲い掛かる瞬間が写っている。


「サソリは甲殻類では無いよ。それに、例えサソリのような種だとしても。跳躍から、人間の身体に穴を開けて入り込める程の瞬発力や腕力が有る筈が無い。やはり、考えられるのは昆虫のような身体で無ければ成らない筈だ」


 教授は写真の影を指さしながら言った。




****


 憲一は、身構えた瞬間に突き出していた右腕に激痛を感じて呻いた。


「ガァッ!」


 腰砕けに倒れ込んだまま、顔をしかめて激痛が走った場所を確認する。


鋭い刀剣で斬られたように掌が裂けていた。血液が沸き出す掌を再度眺めて我に返り、狂ったように手足を前後させ這いながら橋の上を目指す。


 何が、自分を攻撃しているのかは解らない。解らないが立ち止まる事は死に直結していると本能が叫ぶ。生き残る為には不様に手足を前後させるしかない。痛みは恐怖が押し潰しているのか全く感じなくなっていた。


 その代わり、想像出来ない焦燥感に発狂してしまいそうで憲一は怒鳴り声をあげた。


「チクショウ!」


 直ぐ後ろで金属を擦り合わせたような耳障りな音が響く。


「クソッ! クソッ! クソッタレ!」


 叫びながら這う。叫びながら前進する。生きる事に執着する。全くの理解不可能な現実からの離脱だけを目指す。


 不意に、這い進む憲一の視線の先に深い黒緑に染まった塊が見えた。


「何だよ………その身体は……」


 憲一は、恐怖が押し潰した声で呻く様に呟いた。



*****



「昆虫ですか?」


 橋口は写真の影を睨み付けた。


「昆虫? でも、これって、昆虫のサイズですか?」


 橋口の後ろから写真を覗き込み、惚けている河越の言葉を受けて教授が続ける。


「アンタ等も新種の生物だと言っていただろ? 私だって、そんな生物を見たことは無いよ。ただ、進化するためには必ず足掛かりが必要だ。例えば、魚が突然陸上での生活を手に入れる事は不可能だろ? それに、何処で奴等が発生したのかは解らんが、全世界で同時に活動を開始したなら、奴等は海を渡り空を飛んで世界に散らばったと考えられる。そんな柔軟な進化が可能な生物も、昆虫しか考えられない。更に、一瞬で人間を切り裂く程の筋力を持ち得る生物も昆虫しか考えられない」


「人間を切り裂くだけなら……熊や虎等の動物でも可能なんじゃ?」


 河越が写真を見ながら訊く。


「サイズだ!」


 叫んだ橋口に、教授が頷いて写真の影を指さした。


「そう、サイズだ。熊や虎なら可能だが、写真に写っているサイズでは無理だ。この大きさで驚異的な瞬発力や腕力を手に入れる事が出来るのは、やはり昆虫以外に有り得ないのだよ。だとすれば凄い事に成る」


 教授は、ひとりごちるように何度も頷いた。




*****


「何だよ、その身体は……」


 目の前に現れた異様な生物を睨み付ける。


 憲一を、威嚇するように唸ったそれは、レポーターが叫んでいた甲殻類とは完全に似て非なるものだった。


 鋼のように薄光するゴキブリのような身体に鋭く尖った頭部が一体となっている。それから異様に長く伸びる無数の脚は確かに蟹や海老のそれに近い。動く度に金属音のような音がするのは脚が擦れ合っているに違いない。


 憲一は、その生物を睨み付けた。無意識に威嚇しようとしたのかも知れない。すると、小さな金属音がして、目の前の生物が素早く真横に動いた。


「グウアア」


 恐怖に染まった絶叫。憲一は必死に手足を動かし這う様に逃げた。


「死ぬ! ウガァ! グォっ!」


 最早、憲一の叫びは意味を成さない。恐怖に呑み込まれた脳内は意味不明の言葉の羅列で埋め尽くされている。


「クソッ! クソッ! クソッ!」


 叫びながら転がり落ちるように橋下の土手を逃げ回った。


 憲一の後を追う不気味な鳴き声。


 数十メートル程、駆けた後、不意に自分以外の気配が消えて憲一は振り返った。


 刹那、憲一の声帯が震えるよりも素早く、後頭部に鋭い痛みが走った。気が付かない内に憲一に襲い掛かった生物が背中に張り付いていたのだ。


「ブブゥゥ…」


 口から泡を吹きがら、声に成らない悲鳴をあげると同時に憲一は激しい痺れに全身の自由を一瞬で無くし、プツリと糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。




*****


「アンタ、名前は?」


 全速力で街中を駆ける少年と私。


 手を引く金髪の少年が叫んだ。


「みゆう」

 

 叫び返したつもりだったが声に成ったか自信が無かった。


「なに?」


 再度、少年が叫ぶ。


 その背中を睨み付け、もう一度自分の名前を叫んだ。


「み! ゆ! う!」


「ミュウ?」


「そう! アナタは?」


「俺はシンイチ! 真っ直ぐに一番さ」


 華奢な体躯からは想像出来ない怒鳴り声で真一が答える。私は焼け付く様な胸の苦しみを無視して真一の名を小さな声で数回呟いた。


 真一は驚く程、冷静だった。


 甲殻類に似た生物が目の前の人々を次々に食い殺すのを呆然と眺めていた私の目の前に割り込むと当然のように手を引き呟いた。


「ここに居たら、死ぬぞ」


 走り出した真一は襲い掛かる生物を警棒のような物で平然と叩き落とした。通りに並ぶ自販機で飲料水を買うように極自然に、そうしたのだ。


 私は、その自然な動作に一瞬の躊躇いも感じ取る事が出来なかった。寧ろ、少年には恐怖の概念が無いようにさえ思えた。だから、逆らわず少年に従ったのかも知れない。私は生き延びる為に少年が必要だと本能で感じたのだ。


「どこに行くの?」


 見馴れた街並みを横目に叫んだ。脚は縺れ、息は切れ切れで込み上げる嘔吐感と目眩のような苦しみは変わり無かったが不思議と不安は無くなっていた。


*****


「それで、何か対応策があるですか?」


 分厚い鉄板で被われた装甲車は、全く外の景色を窺い知ることは出来ないが、悪路の為か激しく揺れる車内で、橋口は向に座る教授を睨みながら訊いた。


「対応策?」


 教授が橋口の視線を無視するかのように惚けた声をあげる。


「そうです! 我々が奴等に勝つ方法です」


 橋口の後ろに立っていた河越が、更に教授をキツく睨み付けながら怒鳴った。


「さ―ね。見当もつかんよ」


 教授は全く意に介さない様子で二人の問いをかわす。


「そんな筈が無い」


 橋口が更に迫り、それを河越が受けて語気強く問い詰める。


「そうですよ! 奴等が虫なら強力な殺虫剤とか!」


「効くとは思えんよ」


 河越の言葉を教授が笑い飛ばす。


「銃器類は?」  


 鬼気迫る顔で橋口が覗き込んだ。何かを見つけ出したい。強い信念が、その表情に宿る。だが、半ば諦めた口調で篠田は答えた。


「奴等が昆虫なら巨大化した過程で強靭な鎧を纏っていると考えられる。無駄だよ」


「では、何が?」


「そもそも、進化とは何の為に行われる?」


「環境への適応?」


「それは、何の為の適応だ?」


「生き抜く為?」


「つまり、生きるとは何だ?」


 橋口と教授の、やり取りに弾けるように河越が割り込んだ。


「食べる為に!」


 教授が、河越を静かに見詰める。


「そうだ、殆んど場合。それぞれの環境で最善の補食効率を目指す。更に、それが昆虫となると補食の為だけの進化と言って過言では無い。もしも、奴等が私の考えるように我々を補食する為に進化したのなら我々に勝ち目は無いのかも知れんよ」


 教授の言葉に河越は肩を落として呟いた。


「そんな……」


 沈黙が続いた。装甲車が悪路を押し進む振動と低いエンジン音だけが鈍く響く。


「……我々は諦めませんよ。国、いや、世界中が突然に起こった事態を収拾しようと大勢の専門家に協力をお願いしているのです。仮に教授の仮説が正しくても何か生き延びる術を見付ける筈です」


 橋口が絞り出すように言って教授を更に睨み付ける。絶対に揺るがない信念が消えかけた何かに抗うように再度燃え上がる。


「お願いとは、この拉致監禁の事か?」


 教授は橋口の熱い眼差しを嘲笑う様に言って両手をあげた。


「アンタって人は! アンタが協力を拒んだから仕方無く我々は強硬な手段に出るしか無かったんだ」


 教授の襟首を掴み、河越が身を乗り出す。それを、橋口が諭すように押し戻した。


「当たり前だ。アレと対決など出来るか。私は死にたくは無いよ」


 教授はヨレたシャツを直しがら呟いた。その目には怒りに近い焦燥感が滲んでいた。


「教授……アナタ……」


 橋口が教授の変化に気付き先程の河越より更に顔を近付け篠田に迫る。


「何かね?」


 慌てて教授は視線を反らした。


「アナタは何かを知っていますね?」


 橋口が静かに。だが、有無を言わさぬ口調で訊いた。


 車内は相変わらず激しく揺れていて、振動が簡易式のテーブルに乗せられていたファイルを奇妙なリズムで踊らせていた。



******



 市街地を走り抜けた私と真一の二人は、古い工場が建ち並ぶ工業団地に辿り着いていた。


 真一の後を追う私は恐怖と疲労感から思考が鈍く成っている事を自覚していた。


 なぜ、ここに来たと問われれば解らないと答える以外に無い。


「ここに奴等は来ないよ。安心して良いよ」


 随分昔に、閉鎖された病院の錆び着いた鋼鉄製の開き戸を強引に開きながら真一が言ったが、私はそれには答えず真一の背を見詰めて、離られぬように後を追った。


「ミュウは何歳?」


 二階から三階へと繋がる階段を昇りながら真一が訊いた。


「二十歳」


 私は真一の問いに大きく深呼吸してから答えた。閉鎖されているわりには空気の淀みを感じない。恐らく人の出入りが頻繁にあるのだろう。だが、廃墟に出入りする人間など何か疚しい事が有るに違いない。


「へ―オバサンじゃん。もっと若いかと思った」


 真一が無邪気に笑う。私は、なぜか先程の惨劇が現実ではない絵空事のように思えて、フワフワと宙に浮くよう感覚のままで答えた。


「二十歳は若いよ」


「オバサンだよ」


「アナタは幾つ?」


「俺? 俺は秘密」


 言って真一は人差し指を唇の前で左右に振り、片目を閉じてウインクした。


「何よ、それ?って言うか、さっきのどうやったの?」


「何が?」


 覗き込んだ私の顔を避ける様に仰け反り真一が聞き返した。


「ほら、カニの怪物を叩き落とした」


 警棒を振る仕草をする私に、真一は面倒臭そえに答える。


「あぁ……」


「あぁって、アナタあの怪物の事、何か知ってるの?」


「知ってるのはジイサンさ」


 真一が室内奥のドアを見詰めて呟く。


「お爺さん? アナタのお爺さん?」


「違うよ……でも、違わないか?」


「教えて……」


 私は、真っ直ぐに真一を見詰めて訊いた。


「何を?」


 真一が、それを受け止める


「アナタが知っている事全てよ」


「ミュウって、何? 珍しいね。普通信じないよ、奴らの事を話したってさ」


「良いから話して」


「本当、ミュウって変な奴だな……」


 真一は、再度面倒臭そうに頷いてから膝に両手を添えて老人のような掛け声で立ち上がった。



****


「ガギブブ……ブッハッ…」


 憲一は奇妙な呻き声と共に立ち上がった。先程の激痛が嘘の様に消えている。寧ろ、全身の感覚が消え落ちている様な気さえした。


「なんま゛、どぼなっでる」


 上手く言葉に成らない。後頭部を確認しようと伸ばした手も、検討違いの場所を触れていた。


全身のコントロールが上手く出来ない。視線すら思うようには動かせないまま、憲一は呻くように再度叫んだ。


「ま゛う゛ヴヴヴ………歴史の中に見える進化の姿を………ヴヴヴま゛ガギブブ…地球………の、ングググ……」


 憲一は自らの口を塞ぎ、驚愕の表情で手のひらを眺めた。


 まだら色の斑点が無数浮き出した手のひら。


 左側面の川面。


 二つの映像が同時に脳内に飛び込み、憲一は驚愕の声をあげた。


 だが、言葉は意味を成さない。


「だんだ? どぶな゛ってぐ? 人間観と ピアノの繊細さで グビッ、ビッブブ」


 すると今度は意味不明な言葉と同時に、意識に反して行進のように体が前進を始めた。


「やねろ! だめろ! だめろ! 光の速度で……好きだって言ってるだろ!……友達には内緒だ……美憂……愛してるよ……離さないよ……愛してる愛してる愛してる、ア、ア、アアシテル……ヤメテぐれ」


 言葉は先程より更にコントロール出来なく成っていた。それどころか意識が白濁とした霧の中に追い詰められて行くような気さえする。


 憲一は焦燥感に、駆け出そうとして脚が縺れて前のめりに倒れ込んだ。


「いッデ―!」


 反射的に叫んだが、痛みは全く無かった。


 更に、突き出した掌の怪我の具合を見るつもりが、体は勝手に起き上がり先程の行進を続けようとしている。


 憲一は、恐怖に声にならない叫びで助けを求めた。



*****


「何を知ってるんだ!」


 河越は、教授を殴り付けそうな勢いで訊いた。


「私は、何も知らない」


 言い放ち、席を立とうとする教授の肩を橋口が押さえ付けるように制した。


「何を焦っているのですか教授」


 言って、橋口は河越に耳打ちして前方の運転席に姿を消した。取り残された教授を、河越が睨み付けて笑う。


「隊長が消えたのは……意味わかるだろ?」


「君達は私を脅す気なのか?」


 河越の言葉を受けて教授は椅子を倒しそうな勢いで立ち上がり言った。


「訊きたいだけですよ。我々は、知らなければ成らないんです。あなたの隠している真実が重要な意味を持つかも知れない」


 河越の眼差しに目を逸らす教授が観念したかのように話し出した。


「偶然だったんだ……それに捕獲しようとしていた矢先だった……テロだとか革命だとか破壊は私達の頭には無かった……それは信じてくれ」


 教授の突然の告白に、河越は握り締めていた掌を更にきつく握った。



******


 真一の案内で数ヵ所の扉を抜けると、外から眺めた時には感じる事の出来なかった広い空間が冗談のように拡がっていて、私は思わず呟いた。


「ここは……」


 それ以上、言葉に出来ない私の顔を眺めて今度は真一が微笑んだ。


「アインシュタインって知ってる?」


「突然……なに? それより、ここは?」


 真一の問いに意味を見出だせずに問い返した。だが、それも意に介さず続ける真一。


「相対性理論。知ってるよね」


「知ってるけど、それがなに? それよりここがなにかを教えてよ」


「知ってるなら、分かるでしょ? 時間と空間は相対的な関係にある。つまり、その関係をねじ曲げてしまえるなら場所の移動も時間の移動も、理屈では瞬間的に行える。それに必要なエネルギーさえあればね。そもそも、時間なんて人間が勝手に定めた尺度に過ぎない。長い時間なんて考えてる遠い昔の事が、実は一瞬で過ぎ去った数秒前かも知れない。空間も同じ。巨大な存在に見えているものは実は砂糖粒の結晶のような存在かも知れない」


 私を見詰めたまま後ろ歩きに室内の中心部に向けて歩く真一。


 淀み無い話し方から考えて、後ろ向きに歩いても自分の位置が分かるのかも知れない。


 私はここへ来た時と同様になぜか不思議に落ち着いた気持ちで真一の後に続く。


「何が言いたいのかは分からないけど、今から行く場所に関係があるってこと?」


「場所じゃないよ。人だよ。さっき言ってた「ジイサン」だよ」


「言ってることが、全く分からないよ」


 言ってため息を吐くと真一は腹を抱えて大声で笑い出した。


 そのまま、暫く歩いて広大な室内の中心部辺りに差し掛かったところで、真一は立ち止まり右手を静かに上げた。


 そのマジシャンのような気取った仕草があまりに自然で、私は数十分前まで感じていた全身の皮膚がピリピリと痺れるような恐怖もなくし、神秘的な儀式を眺めるように只々呆然とそれに見入った。


「理解しようとするんじゃない。ただ、素直に感じるんだ」


 言って、真一が上げた右手に握っていたと思われる青い球体を手のひらから落とす。


 いや、真正面からそれを見ていた私には真一が閉じ込められていた目には見えないゴワゴワとした空気のような何かを解き放ったようにすら感じて、その球体が落下し床で水滴のように弾ける様子から目を逸らせなかった。



******


「私達が、あの場所を見付けたのは偶然では無かった。つまり、研究の成果として私達はアレを見付けたのだ」


 教授は手元に残された写真の影を見詰めて呟いた。


「あの場所って、何処なんですか? そこにナニがあったと言うのですか?」


 身を乗り出して訊く河越を、呆然と眺めてから教授が続ける。


「あれは……」


「あれは?」


 教授を睨み付けながら聞き返す河越。焦燥感と言うより見えない事に対する怒りが滲み出したような視線。


 河越の理解を既に越えた現実に困惑して辿り着いた怒りが溢れ出ている。


「あれは、過去と未来。時間と空間が繋がる……いや、捩れている場所だ。私達はそれを見付けて何度も実験を重ねた」


「実験を?」


「何度でも、あの場所は私達を受け入れて、何度でも、私達は新しい創造を繰り返す事が出来た。初めは小型の昆虫や動物を現代に連れ戻す事から始めた。だか、直ぐにそれは不可能だと云うことに気が付いた。当たり前の事だが、時間の経過は捩れを利用して到着した場所から連れ出した時点で捩れを失う。つまり、生物にしても物質にしても元の場所からの時間の経過の影響を受ける。生物でも物質でも何でも、風化して跡形も無く消えてしまう」


 河越には教授が何を言わんとしているのかも理解できない。だが、そこで何か大切な切っ掛けが生まれたことは分かる。急かすように続きを促す


「なにを言っているのか全く理解できません。分かるように説明して下さい」


「分からんのかね? 私……いや、私と相良……相良真一は……所謂、タイムリープ出来る場所を見付けたのだよ」


「そんな荒唐無稽な事を言って、我々を煙にまくつもりですか?」


 河越がテーブルを叩いて威嚇する。人間は理解できないものに対して恐怖を抱く。そして、恐怖を解消する方法として安易に怒りを使う。川越は丸で理解できない話に怒りで対応しようとしていた。


「信じる信じないなんて事では無いんだ。感じるか感じないかの問題だ」


 河越の剥き出しにした怒りを完全に無視して呟く教授に河越は暫く腕組をしながら考えてから両腕を小さく上げて降参だと言う仕草をした。


「全く……貴方が何を話しているのか混乱してしまいますよ。でも、とにかく知っていることを続けて教えて下さい」


 机の上に紙とペンを差し出し、理解できるように示せと視線で懇願する。教授は黙ってそれを受け取り丸と線を組み合わせたフローチャートを簡単に描きながら続ける。


「私達はタイムリープ出来る場所を見付けたのだ。切っ掛けは数年前に見付けた名もない学者の製作途中で断念された論文だった。湊貞と名乗ったその学者は日本中の奇異な現象や事件を調査していた。そして、特定の場所と時間が特異な現象に関係している事を突き止めていた。だが、彼がその場所を公表。もしくは実際に訪れていたりはしていない。恐らくは怖じ気着いた。目の前の世界を変えてしまうかも知れない現象に」


 焦点の合わない目で遠くを遠くを見詰める教授は何かを懐かしんでいるようにも見える。それは世界中を恐怖のドン底に突き落とした原因を作り出したかも知れない男には見えない。


 河越は混乱する頭を整理するつもりで、もう一度問い直す。一番確かめなければならない事を繰り返す。


「まだ、良く分からないのですが……つまり、貴方が……あの怪物を生み出した? という事ですか?」


「違う! 私ではない……アレは……必然的な進化だ!」


 怒気に満ちた声で反論する教授は真っ直ぐに河越を睨み付けていた。



******



「ブッブブズ……」


  憲一は、コントロール下を離れた自分の身体が勝手に地面を這う姿を不思議に落ち着いた気持ちで眺めていた。


 異常な角度に折れ曲がった腕は既に数ヵ所の骨折した場所がある事が視覚から理解出来るが、それに伴う痛みは全く感じることがない。


 常識を逸脱した奇妙な動きで自分の身体を卵が張り付いていた場所に導く手足。最早、恐怖の呻きを吐き出す事もできなくなった唇からは大量の唾液が垂れ流れていて。呼吸を繰り返す為だけに僅かに開いている。


 昆虫。 憲一は実験資料の中で見掛けたロイコクロリディウムという寄生虫を思い出していた。


 ロイコクロリディウムに身体の機能を奪われ本来隠れる筈の状況であえて危険な場所へ向かい目立った行動をしてしまうカタツムリ。結局は補食動物に我が身を捧げてしまうのだが、それこそがカタツムリに寄生したロイコクロリディウムの目的で、空を飛び遠くまで自分の種を運ばせる。


 ロイコクロリディウムは、カタツムリの補食者の腹の中で生きているのだ。そう、それは不気味な格好で橋の下に向かう自分に重なる。全てコントロールを失った身体が巨大な補食者の餌食になる為に自ら身を捧げてしまうカタツムリに重なる。


 自分は、橋の下に張り付いていた卵同様に成り得体の知れない化け物にジワリジワリと啄まれるのだ。


 憲一は、もう一度絶叫しようと足掻いたが、やはり眼球を動かすことすら出来なかった。


 やがて光がネジ曲がり全てを飲み込む。

 

 地響きのような唸り声が、どこからか聞こえる。透明で汚濁された液体が弾ける。

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