1―5 月下の華
世界から、音が消えた。
虫も鳥も風も息を潜め、シン、と無音の空間が生まれる。月さえ雲に隠れた詰所の庭は、眼を凝らさなければ己の手足さえ見失いそうなほどに暗い。
だというのに。
俺は、彼女から眼を逸らすことが出来なかった。
カノン、だと思う。
例の、
それでも俺が確信が持てなかったのは、その両手のせいだ。
彼女は、両の手に1本ずつ木剣を握り締めていたのだ――訓練中に折られたものではない、新しい完全なものを。
――何してるんだ、あれ。
1本でさえもて余していたというのに、二刀流なんて無理に決まっている。
数回素振りをすれば、剣を取り落とすだろう。理性が叫ぶ常識的な考えが、どうしてか信じられない。
何かが、起こる。俺の心が、五月蝿いほどに叫んでいる。
カノンは眼を閉じ、剣をだらりと下げたままで直立していた。
身体のバランスは崩れず揺らがず、身動きひとつせずにじっと立ち尽くす。呼吸に合わせて静かに上下する胸を見なければ、生きているとは信じられない程の直立不動だった。
やがて。
流れる雲の隙間に月が顔を出して、カノンを照らし出した。
月の
やがて、始まった。
踏み込みと同時、右の剣が空を薙ぐ。
中空に弧を描く右腕を止めずに、そのまま上半身を捻る。それを追うように下半身を捻り、左足で回し蹴りを放った。
残された右足が大地を蹴り、空へ。
回る全身の勢いを殺さずに空中で回転、右の踵で見えない相手の頭を刈る。
一回転する辺りで着地。そのまま膝を曲げてしゃがみこむと、地面を擦るように左の剣が振るわれる。
背中を向けるまで振り抜き、流れるように膝を伸ばす。身体が伸び上がるのに合わせて右腕を振るい、刈り取る。
右足を引いて、動きを止める。
広く足を開くことで身体が沈み、左を前に右腕を後ろに、前後に大きく剣を広げた様は、まるで龍の大口だ。
先程までの独楽のような回転が幻だっかのような、完全な静止。
しかしそれも一瞬で、カノンは再び身体を回しながら何度も飛び跳ね始める。
時に剣と足、時に剣と剣。両手両足が虚空を薙ぎ、変幻自在のコンビネーションを見せ付ける。
一連の動作は、本当に相手がいるように思えるほど鋭く、淀み無い。そして何より驚くのは、その足下だ。
大地を打ち鳴らし、風を切り裂き続けるカノンは、その場から一歩も動いていなかったのだ。
舞うように斬り、斬るように舞う。
どれだけ時間が経ったのか。結局俺は、カノンがダンスを止めるまで、ただ呆然と彼女を眺めていた――。
「………っ!?」
躍り終えたカノンは、ようやく俺に気付いたらしい――俺が何を見たのかも。
手櫛で髪を整えながら佇むカノンに、俺は静かに近付いた。観念したように苦笑しながら、カノンは俺の到来を待った。
まるで、断罪を待つ罪人だ。
己の行為に後ろめたさを持つ者の眼で卑屈に見詰める少女を、俺は睨み返した。
意識して、呼吸を落ち着かせる。
大きく夜の静けさを吸い込み、体内の熱を吐き出していく。でないと――怒りを吐き出してしまいそうだ。
「………お前、今の………」
言い掛けて何を言うべきか解らず、俺は口を閉ざす。
ある意味幸いと言えた。具体的な単語が見付からなかった分、衝動のまま喚き散らす事だけは避けられたのだから。
けれどそれは、カノンにとっては不幸だっただろう。
俺の態度は、明らかに説明を求めていた。もしかしたら、釈明も。何しろこれは――『裏切り』だ。
少女の所作の冴え、あれは、剣の握りも解らない奴のそれではない。
隠していたのだ――実力を隠し、俺との訓練を適当に流していたのだ。断じて許されるべきではない。
………それでも俺が何も言わなかったのは、言えなかったのは、カノンの眼を見たからだ。
夜色の水面に俺の姿を映しながら、カノンは泣き出しそうだったからだ。
「お前、剣術出来るのか?」
「………ここのは、出来ません」
俺の質問に、カノンはどこかホッとしたように首を振った。
「私は、故郷のカドでは多少剣の扱いは習いました。けれどそれは、大陸で教わるものとは似ても似つかないものです」
「………だから、使わないのか?」
「………」
巡視隊では、もちろん剣術は学ぶ。
教える側の都合だろうが、その内容はこの大陸で広く知られているクレイン流に限られるのだ。
「カド島では、武器からして違います。身体の使い方も、握り方も、ここで教わるものとはまるで違います。えっと………その、だから………訓練で、手を抜いていた訳ではないのです………」
「………」
「………すみません」
俺は静かにため息を吐いた。
少なくとも、あの覚えの悪さは本物だったわけだ。それだけで、多少溜飲は下がった。
しかし。
「………それで。これから、どうするつもりだよ。その剣術で、試験に挑むのか?」
「………いいえ」
今度の問い掛けは、首を振るのに、かなりの覚悟が必要だったように思えた。
自分でも解っているのだろう――自分の言っている事が、どういうことなのか。カノンは唇を強く噛み締め、怯えながら俯いた。
沈黙で先を促すと、カノンは恐る恐る、言葉を選ぶように口を開いた。
「………さっきのは、剣舞と言います。祭り等で奉納される躍りですが、その大本は、剣術の型です。実戦を想定しているんです」
通りで、見えない相手が見えたような気になるわけだ。頷く俺に頷き返して、カノンは尋ねる。
「ジンさんは、カド島についてどのくらい知っていますか?」
「火山がある、小さい島だろ? 海の遥か彼方だ」
一般的な解答だ。
かつてよりは安全になったとはいえ、船旅は未だ未だ危険だ。一月以上も掛かる辺境の島国への旅行に興じる者は、けして多くはない。
神秘の島からの来訪者は、形の良い唇を僅かに歪めた。
「そうですね、狭い………本当に狭い国です。だから、それを奪い合っている。ずっとずっと、もう何百年も、彼等は隣人と殺しあっているのです。………カド島で成人は何歳からかご存知ですか? 十歳です。十歳で人は大人になり、剣を握って戦に出ます。人を殺したり、殺されたりするんですよ」
「………それは………」
「誰も嫌とは言いません。おかしいとも言いません。敵を殺せば勿論誉れですし、例え死んでも、戦場で死ねばそれもまた誉れとなる。寧ろ――その逆も成り立つ」
それは、どのような世界だろうか。
日常の中に戦争がある生活を、俺は知らない。俺の親も、知らないだろう。親の親くらいでようやく、微かな記憶があるくらいの筈だ。
勿論、かつてはこの大陸でも戦争があった。魔術師と獣人と、騎士たちの戦いが。当たり前だ、争いの無い歴史なんて、主役がヒトで有る限りあり得ない。
戦争の爪痕は今ではもう薄れ、ちょっとした名所にさえなっている。戦争が終わったという何よりの証だし、時間は感情を薄めるという良い例とも言える。
逆に言えば、そうするためには時間が必要だということになる。
それが、無い世界。
戦った昨日の延長に、戦う未来がある世界。
それは――地獄だ。
「生も死も、息が掛かるほど隣り合っている。………さっきの舞だってそうです。誰もが笑うべき祭りだというのに、躍り手が敵を想定している。日々の営みの中から、けして殺し合いが居なくならない。そんな社会は、異常です」
祭りで舞われる躍り――剣舞。
殺すための躍り。
「私は、変わりたい。平和の中で育った剣で、平和の守り手と成りたい。私は――あんな力を見せたくない!」
血を吐くように、カノンは叫んだ。
世界への怒り、変化への執着。そして――己への嫌悪。
様々な思いの入り雑じった黒瞳から、一筋、透明な滴がこぼれた。
「………明日は、足手まといにならないよう、努力します。………出来る限り」
おやすみなさい、と歩み去るカノン。
その背に掛ける言葉は、結局、俺の中には見当たらなかった。
そして、夜が明ける。
訓練最後の夜が明け、試験開始の朝が来る。誰のもとにも、情け容赦なく平等に。
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