1―2
街を駆ける。
その背中を、俺は幾度眺めたか。
足音を立てず、体重の感じられない動き。
足が必要以上に持ち上がることもない。俺達が上下に揺れながら走る間、彼女の足は彼女をただ前へ前へと運んでいく。
自然、差は開いていく。
簡素なリボンで1本に束ねた黒髪が、馬の尾のように揺れる。故郷を出るときに乗った幌馬車の勤労な老馬のように、ゆらゆらと、ゆっくりと。
俺は舌打ちする。例え老いていても人は馬には追い付けない。彼女のように若い馬なら尚更だ。
独特な衣装が、更に遠ざかる。
スカートでもズボンでもない、腰の辺りから足首まで達する長く広い裾の服。上半身も、ゆったりとしたデザインの奇妙な衣服だ。
少女の故郷の服で、確か、キモノと言っていたか。ハカマと、ハオリとか。
少なくとも、俺の故郷の村には無いデザインだ。あんなヒラヒラとした服で畑に入ったら、一瞬で泥だらけだ。
運動に向いているとは思えない服だが、それでも彼女に追い付けない。だとしたら、それは中身の問題か。
「良し! 一番は、カノン!」
教官の野太い声を受けながら、少女、カノンは
――くそ。
俺は再び舌打ちして、そのあとに続いた。
「二番手は、ジンか。またお前たち、ワンツーフィニッシュだな」
教官の言葉に振り返ると、赤毛の少年がゼェゼェと荒い息を吐いている所だった。
紺の
それでも私を見る茶色い瞳には、強い意思が感じられた。鍛治が丹念に鍛えた刀のようではなく、出刃包丁のような、武骨で粗野な戦意だ。
私に追い付きたいのか、追い越したいのか。
故郷でも、似たような視線は感じたことがあった。何処の島に来ても、男性は皆、女が前を走ることを好まないようだ。
ジンと呼ばれた少年に声を掛けるべきかどうか、私は少し悩んで、結局止める。
女性に負けて心配されるというのは、人間関係を円滑に進める上では避けた方がいい出来事だろう。だいいち――今話しかけても、彼は答えられないだろう。
そこまで考えて、私はため息を吐いた。
この2日間、私は結局、彼とも誰とも仲良くはなれなかった。走る私に追い付ける男性も、追い抜ける男性も居なかったからだ。
教官の中年男性は、到着する生徒たちに次々呼び掛けながら、その場でへたり込む彼らに軽く言葉を投げ掛けている。
その立ち居振舞いには嫌みがなく、これまでの課題で常に先頭を駆ける私の事を見るときにも、感心こそすれ眉をひそめる事は1度も無かった。
恐らく、私を追い抜けるのは彼くらいなのだろう。だとすれば――私の目的を果たせるのも、彼くらいだ。
まだ半分くらいは、体力強化訓練のランニングからは戻ってきていない。私は意を決して、彼の下へと近付いていく。
「ラデリン教官!」
「ん? ………何だ、カノン」
何だ、と言いながらも、ラデリン教官の聡明な瞳には理解の色があった。それと、諦念の色も多分に。
恐らく良く居るのだろう、私のような身のほど知らずは。
だが、構わない。
私はその、身のほどとやらを知るために来たのだ。
「ラデリン教官は元々巡視隊に居て、こうして入隊試験前に希望者を鍛えていると聞きました。………私は、早く
私の言葉に、体力の限界を迎えつつあった生徒たちがハッと顔を上げた。ジンも息を呑み、成り行きを見守っている。
ラデリン教官の顔に浮かんでいるのは………やはり苦笑だ。
「………若いな」
「え?」
「いや、なんでもない。………成る程な。確かに、俺に勝てるなら巡視隊に入ってもやっていけるだろうな。実力の証明にはもってこいだ。だが………それでは意味がない」
ラデリン教官の言葉に、私は口を閉ざした。
その真意はともかく――その拒絶に物理的な手段が伴わなかった幸運を理解できないほど、私は幼くはなかったのだ。
私の理解に、教官は唇を綻ばせる。
「心配ない。どちらにしろ、4日後には俺と戦うことは出来る。実技試験でな」
そう言うと、教官は手にした手帳を閉じた。いつの間にか、志願者は皆戻ってきていたらしい。
「そのためにも、というわけでもないがな。………明日からは、いよいよ剣の訓練だ」
「ぃやったぜ!!」
ガッツポーズをするジンに、教官が微笑む。
周りの志願者たち――大半が男性だ、大人の――も多かれ少なかれ、似たような反応を示している。子供らしくはしゃぐ、近所の子供を見る時の反応だ。
「剣を握るには、基礎体力が大切だ。今日は筋トレの総仕上げを行うぞ。全員、準備しておくように」
「………お前、凄いな!」
詰所の方へと教官が消えてから、一人の男性がカノンに話し掛ける。未だ若そうだが、俺達ほどではない。
「あのラデリンに喧嘩売るなんて、並のやつじゃあねぇな!」
「別に喧嘩を売ったつもりは………」
しどろもどろに言い訳するカノンを見ながら、俺は舌打ちする。
「あれで売ってないつもりかよ。おめでたいな、お前」
カノンは、ムッとしたような視線を向けてくる。何か言い返してくるかと身構えたが、結局カノンは何も言わずに肩を落とす。
つくづく、ハッキリしない奴だ。
この2日間、志願者は皆で同じ建物で生活する。と言ってもだだっ広いだけの一室で
誰からも文句は出なかった。訓練で酷使された肉体に必要なのはただ横になる場所と毛布であり、豪華なベッドでも話し相手でもなかったのだ。
その間、少女と何かを会話した記憶は、俺には無かった。
もちろん馬鹿話をする余裕は無かったが………カノンの側にはあったかもしれないが、俺には多くはなかった。
しかし少なくとも、自己紹介の機会くらいはあった筈だ。
見掛けない服装や髪、瞳の色に、聴きたいことは多かったのに、少女はその機会を行使しようとはしなかった。
距離感が、掴めない。
何しろ本人の口から、名前さえ聞いていないのだ。何をどう話せと言うのか。
訓練の成績も、カノンはずば抜けていて、雑談しながら並んで話す訳にもいかなかった。何しろ、並べないのだから。
せめて、怒って見せてくれれば良い。
方向の違いこそあれ、感情を見せてさえくれれば、それは取っ掛かりになるのだ。
「ま、運動神経は凄いけどな。剣でものを言うのはそんなんじゃないぜ」
俺が挑発めいたことを言っても、カノンは憮然とした顔で押し黙るだけだ。
………ムカつくやつ。
言い返さないのは、その価値がないからか。だったら。
「見てろよ。剣の時間で、俺が思い知らせてやる!」
「………」
結局何も言わずに、カノンは歩き始める。
その後ろ姿を見ながら、最初に声を掛けてきた男は肩をすくめた。
「………お前、凄くないな」
「うるせぇっ!! ………見てろ、運動じゃあ敵わなくたって、実戦なら負けねぇぞ!」
あの生意気な女の子を、へこませる。
それまでの訓練内容を思えば、それは夢みたいな話だったが………しかし。
「………………は?」
………次の日。
俺は夢を現実にした。
カノンは、剣術が驚くほど下手くそだったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます