申し遅れました、シキガミです

 「ありがとうございました!」


  甘い幸せな匂い。

  カランコロンという音を立てて、私はそのお店の扉を閉めた。


  小さな箱。星のイラストと“レ・プチット・ゼトワール”の文字。ふんわりと漂ってくる甘い香り。


  大好きなケーキ屋さん。ここのケーキはどれもとろけそうなぐらい美味しい。

  買ったのは苺のタルトをふたつ。

  喜んでくれるかな。


『……この匂いは』


  ふと低い声がした。地響きのように低くて、お腹の辺りが小刻みに震える。


『やっと会えたか……シニガミ』


  首筋がヒヤッとする。冷たい風が吹いて、私の髪をさらっていく。


『ずっとおまえを探していたんだ……』

「……ふわ、誰?」


  背後に感じる気配。

  そこにいるのは誰?


『まさかこんな小娘の姿をしていたとはな……』


  ……逃げなきゃ。

  怖いものが後ろにいる。早く逃げなきゃ。早く……。

  ふわ、身体が動かない。なんで? どうしよう。助けて。誰か助けて!


  グッと腕を引かれた。温かい手。


「走れ!」


  私は誰かに力強く引っ張られた。




 ☆★☆★☆★☆★




  ふわあ!


  脚が動かない。そのままもつれて、派手に転んだ。

  とっさに持っていたケーキの箱をかばう。


「早く起きろ! 追いつかれる!」


  張りつめた声と共に乱暴に抱き起こされる。そのとき、彼の顔がはっきりと見えた。

  燃える炎のように揺れ動く瞳。赤い瞳。


「ほら早く!」


  彼が手を差し出した。

  私は震える手を伸ばす。

  ガシッ。


  阿隈……くん。


  走る。走る。走る。

  何度か後ろを振り返りながら、彼は私の腕を引く。

  十字路を曲がって、どこを走っているのかわからなくなるぐらい長い距離を。走って、走って、走って。

 

「もう……大丈夫……か」


  そうつぶやいて、やっと彼は立ち止まった。


「……ふわあ」


  膝がガクガクする。今日は走りすぎだ。やっぱり私ってどんくさいのかな……。


  はあ、とひとつ息をつき、彼は口元を拭うように袖をもっていった。


「……怪我、してない?」

「ふわ……ああ!」


  私は大きな声を上げる。


「………………」

「割れてる……!」


  涙目になりながら、制服のポケットに手を入れてラッピングされたマカロンを取り出す。


「割れて……?」

「ふわあ……さっき転んだときに割れちゃったんだ……」


  泣きそう。泣いちゃいそう。

  ふわー、楽しみにしてたのに……!


「……マカロン?」


  戸惑ったように赤い目を細める彼。

  私は大きくうなずく。


「うん!」

「………………」

「ふわ! でも、割れても味は変わらないよね!」


  目の前が一気に明るくなった。未来が開けた気がする。やっぱり発想転換って大事だ。


「これね、ケーキ買ったらおまけでもらったの。阿隈くんも食べる?」


  ニコニコしながら割れたマカロンのラッピングを解く。

  ふわー、割れても美味しそう!


  彼がはっと両目を押さえた。


「……俺は、違う。アクマじゃない」

「ふわ? 阿隈くんは阿隈くんだよ?」


  私は首を傾げる。彼は顔を手で覆い、低い声で言う。


「俺は……あんたなんか知らない」

「阿隈くん!」

「……あ?」


  私は彼の唇にマカロンの欠片を押し付けた。


「ほら、食べて」


  驚いたように、彼は顔を覆っていた手をどけた。


  私の指が触れる寸前で、彼は口を開けた。唇が果実みたいに赤く熟れていて、その奥からチラリとのぞいたものに目を奪われる。

 

  ふわ……牙?

  犬歯が鋭い。まるで獰猛な獣みたいに。


「くれるの、くれないの」


  彼の瞳が光った。

  私の指は彼の唇に触れそうで触れない位置で止まっていた。


「ふわ、わ!」


  慌てて手が滑った。指先が彼の唇に一瞬だけ触れた。

  私はふわわっと手を引っ込める。


「……ん」


  彼は口を閉じて、私が放り込んだマカロンを噛み砕いた。咀嚼するたび、彼の赤い唇が動く。


「……何」


  私はその様子をじっと見つめていた。それに気づいた彼がふっと視線を上げた。


「阿隈くんの唇……イチゴみたい」

「イチゴ……って」


  低い声で言って、彼は顔を下げた。

  ふわ……もしかして、怒ったかな? 私はちょっと不安になった。


「……ふ」


  ひくっと肩が震えた。口元に手を当てて、彼は小さく笑っていた。


「マカロンにイチゴに……あと手に持ってるのはケーキ?」

「うん」

「あんた、面白い」


  笑うと尖った牙が妖しく光る。


「ふわ……」

「………………」

「あのね。あんたじゃなくて……阿隈くんはいつも種村って苗字で呼ぶよ」

「種村……」


  つぶやくみたいに言って、彼は首を振った。明るい茶色の髪の毛が静かに流れる。


「違う。俺はあんたの思ってるような奴じゃない。もうこれ以上、俺に近づかないで」

「……ふわ? どうして?」

「危険だから」

「阿隈くんは危険じゃないよ?」

「危険なんだ。あんたは何もわかってない」

「わかってるよ。阿隈くんは阿隈くんだもん」

「俺が、アクマだったら……」


  ふっと彼の言葉が途切れた。


  瞬きをした。

  次に目を開けたときには

  彼の姿は消えていた。


「阿隈……くん?」




 ☆★☆★☆★☆★




「ただいまー」


  玄関に入ると、奥から足音も立てずにあの人が出てきた。


「おかえりなさいませ、佐和様」

 

  朝と同じ紺色のエプロンを着けて。歩くたびに長い髪がふわりと動く。

 

「ふわあ……あの」


  私は首を傾げてその人を見上げる。


「あなたは誰、ですか?」


  ピクリとその人の眉が動いた。そして静かに頭を下げる。


「申し遅れました、シキガミです」

「シキ……ガミ」


  脳裏にふっと何かが浮かんだ気がした。でもその何かは浮かんだときと同じようにまたふっと消えてしまった。


「……シキガミ、さん?」

「はい」

「ふわ!」


  ポンと手を打つ。手に持っているケーキの箱が揺れそうになって慌てる。


「式神さん! 式神さんっていうんだ。あ、それとケーキ買ってきたから食べてください!」


  シキガミさんなんて……変わった名前だなぁ。はじめは言ってる意味がよくわからなかった。だってシキガミって……?

  そう思いながらケーキの箱を差し出す。

  ふわ、誰かにお土産をあげるのってなんか嬉しいな。


「佐和様……僕のことを警戒なさらないのですか」


  すぐに受け取ってくれるものだと思っていたのに、式神さんは戸惑ったように手を出しかねている。

  ……ケーキ、嫌いなのかな?


「ケーキ、美味しいですよ。ママの好きなお店で買ってきたから」


  私はそうやって一生懸命にケーキを勧めたんだけど、式神さんはなかなか受け取ってくれない。


「その佐和様のお母様のことですが」

「ふわ? ママが何か……あ、そうだ、このケーキ、ママがいちばん好きなイチゴのタルトで」


  喜んでくれるかな。私はママがケーキを目にする光景を思い浮かべてにっこりする。ママは“レ・プチット・ゼトワール”のイチゴタルトが大好物で、子供みたいに無邪気に美味しそうに食べるんだ。


里桜りお様は大事な用事のため当分家を空けるそうです。その間、僕が佐和様のお世話をさせていただきます」

「……え」


  私は思わずケーキの箱を落としてしまった。


「ママが……私を置いて?」


  そん……な。

  どうして?


「シニガミを探しに行かれるそうです」


  シニガミ……。

  私は呆然と立ち尽くす。


「ところで佐和様」

「………………」

「料理はお口に合いましたか?」

「……はい!」


  思わず顔が輝いた。何度もうなずく。


「とってもとっても、美味しかったです!」


  そういえば、式神さんはやっぱり怪しい人じゃなかった。だってママの代わりに私の面倒をみるって。ママに頼まれたってことだよね?

  式神さんの表情が穏やかになる。しゃがんで、私が落とした箱を拾ってくれた。


「佐和様、これは」

「式神さんの作ってくれたお弁当がとっても美味しかったから、お礼にと思って!」

「いただいてもよろしいのですか?」

「ふわあ、もちろん! 本当はママにも食べてほしかったんだけど」


  私が言うと、式神さんは箱を両手で大切そうに抱えた。


「ありがとうございます。お優しいですね、佐和様は」


  ふわぁ……優しいって! 褒められちゃった。

  でも。私はうつむいて考える。


「ママ、帰って来ないんだよね……」

「当分の間はと聞いています」

「ケーキ、余っちゃう」

「そうですね……生物なまものですから、里桜様のお帰りまでは。佐和様がお召し上がりになられてはどうですか」

 

  ……ふわ。

  言われて初めて気づいた。

  私、ケーキふたつしか買ってない。式神さんの分とママの分。自分の分は忘れてた。

  おまけにマカロンをもらって浮かれてた……。


「そうですね! 式神さん、一緒に食べましょう!」


  私は希ちゃんによく怒られる。佐和は人を疑わなさすぎる、食べ物をもらったらすぐになついちゃうんだからって。

  式神さんのお弁当、すごく美味しかった。

  美味しい料理を作ってくれる式神さん。朝起きたら突然家にいたその不思議な人に、なぜか私は少しも不信を感じなかった。本当だったらとてつもなく怪しいはずなのに。こうしてお土産まで買ってきちゃって。


  私と式神さんはテーブルに着いて一緒にケーキを食べ、そのあと式神さんが作ってくれたロールキャベツを食べた。トマトソースで煮込んだ赤いロールキャベツ。私はコンソメ味のものしか食べたことがなかったから、その色に驚いた。でももちろん味はとろけるぐらい美味しくて。

  式神さんはケーキでお腹一杯だと言って食べなかった。少食なのかな。たしかに式神さんはスタイルがよくて腰回りが細い。


  私と式神さんの奇妙な共同生活はこうして平和に始まったのでした。

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