眠り姫に、お疲れ様

「はるちゃーん。来たよ」

 いつものように仕事帰り、夕飯のおかずを手に恋人の部屋を訪ねるが、今日に限って何故か反応がない。電気はついているようだから、多分部屋にいるのだとは思うけれど……。

「はるちゃん?」

 すっかり定着した呼び名を口にするが、やはり反応はなかった。買い物にでも出かけてしまったのだろうか。

 試しにドアに手を掛けると、鍵はかかってなかったらしく、容易くガチャリと開いた。不用心だと思いつつも、足を踏み入れる。

「入るよー?」

 ドアの向こうに一応呼びかけてから、勝手知ったるアパートへと足を踏み入れる。やっぱり電気はついていて、部屋の中はとても明るかった。

 リビングに入ると、ふと小さな呼吸が聞こえた。中心近くに鎮座していた大きな深緑のソファーが目に入る。

 そこに、彼女の姿はあった。ソファーに全身を投げ出すようにして、ぐったりと横たわり、規則正しく寝息を立てている。帰ってきてすぐに眠ってしまったのか、その格好は薄手のブラウスとジーパンという姿のままだった。

 できるだけ足音を立てないようにしながら、寝ている彼女の方へと近づく。相当熟睡しているのか、単に鈍いだけなのか、その間少しの反応もなかった。

 彼女の前にそっと跪き、乱れた髪を梳くように撫でてやる。一瞬「んっ……」と気持ちよさそうに身じろぎしたのが、俺の目にはとても可愛らしく映った(贔屓目と言われればそれまでなのだが)。

 普通これくらいすれば、起きてしまってもおかしくないと思うのだが……きっと、それほどまでに疲れているのだろう。

 今年の春から、保育士として働き始めた彼女。残念ながら俺と同じ職場ではないけれど、それでも同じ職業の先輩として時折相談に乗ってあげたりすることはあるし、彼女から仕事の話もよく聞いている。

 正直、慣れるまではしんどいし大変な仕事だと思う。毎日のように子供たちと関わり世話をするだけじゃなくて、その保護者達や他の保育士たちとも、ある程度の関係を築いていかなくちゃいけない。

 俺だって今では慣れたけど、最初は本当に苦労した。体力的にも精神的にも辛いものがあるし、やめようとさえ思ったこともある。女の子なら、なおさらかもしれない。

『自分で選んだ仕事だしね。それにやっぱり、この仕事は楽しいよ』

 そう言って笑う彼女は、どんな時でも――恋人である俺の前でさえも、決して弱音を吐こうとしない。苦しいことも、辛いことも、たくさんあるだろうに……けれど別にそれを隠して我慢しているわけでもなくて、心からこの仕事を楽しんでいるように見える。

 そういうところが、強いなぁと思う。

 俺は新人時代、ずっと弱音とか愚痴ばっかり吐き続けてきたから……そんな彼女の姿が眩しく見えるし、同時に心配にもなってしまう。こんな毎日がずっと続いたら、いずれ彼女は壊れてしまうんじゃないか、って。

 だから……。

「せめて、そんな君の支えになれれば、って思うんだよ」

 聞かせるつもりはなかったし、聞いてすらいないんだろうけれど、それでも声に出して小さく呟く。

 もう一度髪を撫でてやると、安らかな寝顔が不意にふにゃりと幸せそうにとろけた。こんな表情を、知っているのはきっと俺だけなんだろうな……と思うと、ほんのちょっとだけ優越感を覚えてしまう。

 俺がいることで安心だと思わせてあげたいし、俺と一緒に過ごす時間に少しでも幸せを感じてほしい。他の場所で、君はもう十分すぎるくらい頑張っているから。

 だからさ。俺の前でくらい、こうやって気を抜いてくれて……ゆっくり休んでくれて、いいんだよ。俺が全部、受け止めてあげるから。

「さて、夕食の準備をしようかな」

 一言呟いてから、立ち上がろうとして……その前にふと思いついて、もう一度彼女の前に座り直す。

「できるまで少し時間かかると思うから、もう少しお休み。――晴菜」

 無防備な耳元で囁くように告げると、時折吐息が漏れるピンク色の唇に一つキスを落とした。

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