AFTER
想い出の香りと共に
昨年受けた試験に無事合格し、見事来年度から保育士として働くことが決まった……そんな、冬の終わりごろ。
休日である今日は、街中のショッピングモールで何やら催し物があるという話を聞いたので、せっかくだからといつもより遠出をすることにした。これまでずっと、平日とか休日とか関係なく勉強に追い込まれる毎日を過ごしていたから、こんなことは本当に久しぶりで……なんだか新鮮な気持ちになって、いつもより浮き足立ってしまう。
少し前までのわたしはとても慌ただしく、一人旅のようなことを続けていたというのに……そんな日々が、今ではひどく懐かしいとさえ感じる。あの日々とはもう違うんだと、実感を強めずにはいられない。
だけど、それまでといちばん変わったことといったら……。
「はるちゃん」
傍らからの聞き慣れた声に顔を上げれば、気遣うように揺れる色素の薄い瞳とぶつかった。明るい茶髪が、太陽の光に照らされてきらきら光っていて、目に眩しい。
「なぁに、陽平さん?」
小さく首を傾げて尋ねれば、彼――陽平さんは何故か心配そうな声で答えた。
「さっきから口数少ないから……距離遠かったし、疲れちゃった?」
頭の中であれこれ考えていたから、どうやら知らない間に口数が減ってしまっていたようで、彼はそのことを気にしてくれていたらしい。その視線があまりにもまっすぐだったから、わたしはそれに応えるみたいに――不安げに揺れる瞳を安らげてあげるみたいに、にっこりと笑った。
「んーん、大丈夫。着いたら何買おうかなとか、いろいろ頭の中で考えてただけだから」
少し前まで使っていたはずの敬語もすっかり抜けて、それまでよりもずっと気楽に話ができるようになった。こうやってお互いに、呼び方さえも変わっちゃったくらい。
互いに素の表情を見せあうこともできるようになったし……どうすれば彼が笑顔になってくれるのかも、大体分かるようになったしね。
「そっか、それならいいんだけど」
――ほら、あっという間に花開くような笑顔。
保育士という職業柄、普段から小さな子供たちと一緒に過ごすことが多い陽平さんは、少なからず彼らに影響を受けているのか、とても表情豊かでわかりやすいというか……有り体に言うと、とても子供っぽいところがある。
こんなことを考えてしまうわたしは、ちょっとずるいのかもしれないけれど……出会った頃には分からなかった彼のことを、少しずつ知ることができているのはとても嬉しいことだと思う。
それは、陽平さんも同じみたいで……。
「じゃあ、まずどこから見に行こうか」
尋ねられてすぐ頭に思い浮かんだのは、香水のこと。短大を卒業したら、自分に合う香りをつけて過ごしたいなって、ずっと思ってたんだ。
「……あ、そういえばはるちゃん、前に香水欲しいって言ってたよね。先に見てく?」
――ほらね、やっぱり。
口を開く前に、わたしがそうしたいと思っていたことを、こうやって見事に言い当ててくれる。彼もまた、わたしのことを理解してくれるようになったという確たる証拠だ。
「うん」
笑顔とともに答えれば、彼もまた笑顔で返してくれる。
「じゃあ、行こうか」
流れみたいに差し出された、その大きな手をぎゅっと握れば、彼もまた痛くない程度の力で握り返してくれた。
「――あっ」
ショッピングモールの、香水が並ぶコーナーに移動して、陽平さんと一緒に色々な商品を吟味する。なかなかピンとくるものがなくて、でもこれ以上時間を費やしてしまうのもいけないしなぁ……とかあれこれ考えていたら、ふと気になる売り文句を見つけた。
『梨の実の甘酸っぱい香りが、あなたの恋を応援します』
思わず足を止めたわたしに合わせて、陽平さんもその歩みを止めた。わたしが見ていた売り文句を目にして、懐かしいね、と小さく笑う。
「俺たちを引き合わせてくれたのが、梨だったんだよね」
そうだ。わたしと陽平さんが出会ったきっかけも、もう一度巡りあったのも、こうして恋人同士として過ごすことになったのも――もちろん直接的ではないにせよ――全部、梨の実というワードが関連していた。そのおかげでわたしたちは今こうしていられるのだ、と言っても過言ではない。
売り文句の傍らに鎮座していた香水の小さなサンプル瓶を、無意識に手にしていたわたしは、その蓋を開けそっと鼻を近づけた。ふわりと、あの時に――陽平さんがわたしに告白してくれた、忘れられないあの日に感じた、甘くて酸っぱい果実の香りが鼻先をくすぐる。不意に懐かしさがこみあげてきて、思わず泣きそうになってしまった。
「はるちゃん」
わたしを呼ぶ、囁くような低音が耳に届く。隣に立っているだけなのに、何故だかふわりと抱きしめられた時のような安心感があった。
「……買おうかな、これ」
小さく呟くと、陽平さんが可笑しそうに笑った。
「あなたの恋を応援します、って……もう、こうやって叶っているのに」
「そうなんだけど。でも……」
あの時の気持ちを、忘れたくないから。
記憶は、時の経過とともに薄れていってしまうもの。けれどそれでも、小さい頃からずっと一途に抱き続けてきた、この想いだけは……何があっても絶対に捨て去ることができないし、頼まれたって捨てたくない。
保育園の頃に出会った、お兄ちゃんのことも。中学生の時に出会った、保育士さんのことも。そして……今や恋人となった彼が、時を経てわたしを迎えに来てくれたときのことも。
全部全部、心の中にしまっておきたい。大切に、慈しみながらこれからも生きていきたい。
「この香水をつけていれば……わたしたち、いつまでも初々しい気持ちのままで過ごすことができるんじゃないかな、って」
いくら時が経ったとしても。これから作っていく新しい想い出たちに、次々と心が埋め尽くされていったとしても。
手掛かりが一つでもあれば、いつでもそれは甦る。当時の関係性を思い出して、幸せに浸ることができる。
もちろん今も、十分幸せなのだけれど……。
「そっか」
一言だけ答えて、陽平さんはわたしの頭に手を置いた。心地の良い感触に、ゆっくりと目を閉じる。大好きな柔らかい声が、そっと耳に届いた。
「じゃあこれは、俺から君へのプレゼントにするよ。無事保育士試験に受かったお祝いね」
これでいつでも、俺の存在を確かめられるでしょう?
そう続けて発せられた、どことなくいつもの彼らしくない言葉に、思わず笑みがこぼれる。小さな唸り声に目を開ければ、拗ねたような表情の陽平さんが、頬をほんのり赤く染めていた。どうやら、さっきの言葉が自分でも恥ずかしかったらしい。
「陽平さん、可愛い」
思わず漏れた呟きを耳聡く聞きつけたらしい陽平さんに、おっさんをからかうんじゃないよ、と軽く頭を小突かれる。
これから、この香水と――そして陽平さんと歩んでいくのであろう日々に想いを馳せながら、わたしは無意識に頬を緩めていたのだった。
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