彼の背中を押したのは
夕方、園児たちがそれぞれのお迎えによって全員帰った後のこと。
「お疲れ様でーす」
「お疲れっすー」
「お疲れ様」
一緒にここ――山ヶ岳保育園で働くあたしたち保育士はそれぞれ仕事を終え、声を掛けあいながら一人、また一人と帰路に着く。
多少の人間の入れ替わりはあるとしても、これはきっと何年も前から続いている、いつも通りの光景。
そして――……。
「うん、今終わった。……はーい、今からそっち行くよ」
目の前には、携帯電話を片手に至極とろけ切った表情でそんな睦言めいたことをさらりと言ってのける、あたしの同僚――寺本陽平の姿。
これも近頃、いつも通りの光景になりつつあったりする。
「夕飯の材料も買って行くから、ちょっと遅くなるかもしれないけれど……いい子で待っててね」
受話器に向け、これまで聞いたこともないような声――鼓膜に直接響くような、低音の囁き声で告げた後、寺本君は少しだけ名残惜しそうに電話を切った。
そのウキウキとした横顔に、呆れ気味に話しかける。
「楠木さん?」
「よくわかりましたね」
予想に反して、驚いたような表情の彼。てっきり、先ほどと同じような甘い笑みで『そうなんですよ〜』なんて肯定されるんじゃないかと思っていたのに。
もしかして、さっきの顔のニヤケは――……無自覚?
思わず確信にも似た疑いを抱き始めた時、寺本君は少し首を傾げながら呟いた。
「このこと、長谷川さんには言ったんだっけ……」
「……」
呆れた。非常に、呆れた。開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだ。
ずっと我慢していた大きな溜息を、一つ吐く。
「あのねぇ……」
きょとんとした表情の寺本君に向けて、言い含めるような――普段、園児たちに向けているような――ゆっくりとした、けれど厳しさを帯びた口調で言ってやる。
「あんたが楠木さんに告白するために、わざわざ協力してあげたのはどこの誰だったかしら?」
誤魔化すことも、間違えることさえも許さないという気持ちを込めて、目の前の情けない男をじろりと睨んでやる。
それでようやく寺本君は、思い出したかのようにあっ、と声を上げた。照れ笑いしながら、しまったというように頭を掻く。
「そうでした……お手伝いして、くださったんですよね。この期に及んで迷っていた俺のことを、奮い立たせてまでくれて」
そうだ。まさに、その通りである。
言わばあたしは彼らの恋のキューピッド的存在なのだから、感謝されて然るべきだろう。少なくとも、決して忘れられるようなことがあってはいけない、と思う。
五年前、中学生だった彼女――楠木晴菜に対し、非常に思わせぶりな手紙を送りつけた寺本君。
彼女の存在は十年以上も前からその心にあり、その頃には恋愛感情の自覚もあったはずだというのに、わざわざ先送りするような言葉を彼女に告げたのだ。 なんて残酷で、罪作りで、ヘタレな男なのだろう。彼女もどうしてこんな男を好きになったのか、理解に苦しむ。
――んで、その先延ばしをようやく断ち切ったのが三か月前。寺本君はあたしの前で、楠木晴菜を迎えに行き、告白をすると言った。
……というか、言わせた。だって、いい加減まどろっこしかったから。
迎えに行くにはまだ早いのではないかと言って怖気づく彼に、あたしは矢継ぎ早に言ってやった。
彼女のことが好きなら何故、何年も保留にしておく必要があるのか、と。
年齢差や世間体を気にするにしても、当時中学三年だった彼女は今年でもう二十歳ぐらいだろう。いい加減もういいじゃないか、と。
こんなことをしている間に、彼女が他の男に取られてしまってもいいのか。あんな手紙を送ったからって、二人の仲が保証されているわけではないのに――……と。
とにかく、厳しい言葉をあれこれ並べ立てた気がする。
それからあたしは、その身を奮い立たせ決心を固めた彼のために、ちょっとしたお膳立てをしてあげた。
まず、偶然にも今年保育士試験を受けたという彼女を、地方の保育士会主催のパーティーへ招待した。幸い彼女の通っている短大はあたしの母校で、ちょっとした口利きができたため、彼女をうまくおびき出すことができた。
次に、山ヶ岳保育園から雑用で借り出されることになっていたメンバーに、寺本君とあたし自身を入れるように仕向けた。
園長先生に事情を話し頼んでみたところ、あっさり了承してくれた。どうやら彼女もまた、寺本君と楠木晴菜の行方が気になって仕方なかったらしい。
そして当日、二人でパーティー会場に行き……パーティーが始まるまでに、寺本君は当時ゆり組だった園児十五人に連絡を取った。
これは寺本君たっての希望だった。一人で行くのは、やはり心細かったのかもしれない。ちなみに言うまでもないかもしれないが、もちろん彼ら全員の連絡先を控えたのはこのあたしである。何せ当時担当をしていたのだから、このくらいお安い御用だ。
ゆり組のメンバー十五人とは別場所で落ち合うということだったため、パーティーが終わる少し前に寺本君はこっそり抜けていった。まだ仕事が残っているにもかかわらず逃がしてあげたのも、その尻拭いをしたのも、もちろんあたしだったのだが。
――それを今の今まで、この男はすっかり忘れきっていたらしい。まぁ、浮かれていた故のことだと言えばそれまでなのだが。何せ、恋は盲目っていうからね。
それでもこれはやっぱり罪深いことなんだから、お仕置きだけはちゃんとしておかなくちゃ。
「やっと思い出したか。この恩知らずめ」
咎めるようにそう言って軽く唇を尖らせながら、自分より高い位置にある、明るい色の髪に隠れた額めがけてデコピンを喰らわせる。
痛いっ、と短く叫び、涙目で額を押さえる寺本君に、ほんの少し優越感を覚えながら、あたしはけろっとして言った。
「ほら、早く行きなさい。彼女を待たせるのは、男として失格よ」
思いっきり皮肉を込めたセリフの、奥底に秘めた意味に気付いたのだろう。寺本君が苦笑いする。
「そう、ですよね」
もう、これ以上待たせちゃいけない。既にもう、何年も彼女を待たせてしまったのだから。
すでにまとめ終えている荷物を片手に、寺本君が深々と礼をする。
「ありがとうございました」
得意の笑みを湛えて告げた言葉は、この場限りだったのか。それとも……今までのねぎらいを、指してくれているのか。
後者だったらいい――いや、むしろそうじゃなくちゃ許さない。
そんなことを思いながら、あたしも応えるように口角を上げ、にやりと笑ってみせた。
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