遠回りのラブレター
「寺本君、あなたにお手紙が届いているわよ」
その言葉とともに園長先生から渡されたのは、輪ゴムで束ねられた七通のシンプルな茶封筒。話によると、この前保育体験に来ていた青葉第一中学校の生徒からのものらしい。
青葉第一中学校、と聞いて、俺の心臓は一瞬どくりと跳ねた。それをまるで見透かしたかのように、園長先生がニヤリと笑う。
「例のあの子からの手紙も、もちろん入っているんじゃなくて?」
例のあの子、というのは、まぎれもなく青葉第一中学校の生徒の一人である少女――楠木晴菜のことを指しているのだろう。何を隠そう、俺とあの子は十年も前に一度会っているのだ。
保育体験で最初に見た時には、さすがに分からなかった。十年も経てば顔つきもそれなりに変わっていたし、まさかこんなところで再会するだなんて夢にも思っていなかったから。
けれど……記憶に残っている女の子のあどけない表情と、彼女のふとした時に見せる無邪気な笑顔が不意に重なって。彼女の下の名前が『晴菜』というのだとも、知って。
二日目に彼女が『やまなし』という絵本を読み聞かせているのを見た時、俺ははっきりと悟った。
――あぁ。彼女は
俺が中学時代に出会い、この仕事に就くきっかけをくれた女の子に……『はるなちゃん』に、間違いないんだと。
けれど、どうしてもすぐには言い出せなかった。何せ十年も前のことだし、彼女も当時四、五歳くらいの幼い子供だったのだ。俺のことを覚えているという方が、奇跡に近い。
要は、彼女に忘れられていることを……俺の存在が彼女の記憶からすっかり消えていることを、知りたくなかったのだ。『誰ですか』と彼女に冷たい目で告げられ、突き放されることが怖かった。
けれど最終日、ふとしたことから彼女に過去を打ち明けた俺は、その態度で彼女が今でも俺のことを覚えてくれていると知った。
そこで、園長先生からのアドバイスもあって、少しばかり行動を起こしてみることにした。去り際の彼女に、こう耳打ちしたのだ。
『じゃあまたね、
あれを受けた彼女は、一体何を書いて寄越してきたのだろう……。
そう考えると、いてもたってもいられなくなってしまう。溢れんばかりの期待とともに、一抹の不安が俺の心にあった。
園長室を出た後、手紙を手にする俺の手のひらが、軽く汗ばんでいるのを感じた。休憩室に籠り、早速一通ずつ中身を確かめる。楠木晴菜からの手紙は、迷った挙句、結局最後に読むことにした。
保育体験に来た中学生からのお礼の手紙というのは、何やら習慣化しているようで、毎年色々な学校から何通も届く。大体書いてあることは一緒なのだから読み飛ばせばいいと思うのだが、うちの場合は一人一人に返事を書けとの命令を園長先生から頂いているので、一通ずつ丁寧に目を通さなければいけない。淡白な性格の園長先生だが、あれでも礼儀や礼節を重んじる人なのだ。いわく『もらった手紙に返事を書くのは常識』ということらしい。
というわけで、現在俺は手紙を一通ずつ読み、読み終わっては引き出しにしまってある便箋を引き出して返事を綴っている。この作業はなかなかに大変で、毎年終わったあとはひどい脱力感に襲われる。
けれど今日の俺は、いつもより早いペースでその作業を終えていた。理由は単純。楠木晴菜の手紙に、一刻も早く目を通したかったからだ。
ちょうど六通目の手紙に返事を書いているとき、休憩室のドアが開く気配を感じた。それでも書く手を止めずにいると、傍らに誰かがしゃがみ、こちらを覗き見てくる。
「毎度ながら、ホントお疲れ様よね」
そう言ったのは、俺の同僚でゆり組担当の保育士・長谷川さんだった。
「どうしたんですか、長谷川さん?」
そちらを見ぬまま問うと、長谷川さんが小さく笑ったのが分かった。手紙を書いている机の横に、四つ折りになった水色の画用紙と業務用の大きな封筒を置く。
何事かと顔を上げて長谷川さんを見れば、彼女は優しく微笑んでいた。
「ゆり組の子たちからよ。楠木晴菜さんにも、手紙を書くんでしょ。一緒に入れてほしいと思って」
あぁ、なるほど……と俺は思った。
確かにゆり組の園児たちは、これまでにないくらい楠木晴菜を慕っていた。彼女と遊んでいた時の、園児たちの弾けるような笑顔を思い出す。
「あの子、結構素質あったわよね。……なんだか、嫉妬しちゃう」
茶化すように笑いながら、長谷川さんは立ち上がる。相変わらず本心がどこにあるのか見えない人だが、楠木晴菜への評価はそれなりにしているようだ。
「じゃ、頑張って」
手をヒラヒラと振りながら、長谷川さんは去っていく。彼女の置いて行った画用紙を開いてみると、園児が描いたのであろう十五個の絵と、長谷川先生の字で書かれたメッセージがあった。
元のように折りたたみ、横に置いておくと、書きかけの手紙の続きに入る。一刻も早く、七通目に行かなければという思いが、さらに強まった。
二時間かけて、六通目までをどうにか書ききった。あとは各担当の先生からメッセージをもらい、それを添えるだけだ。
そして俺は、内心ドキドキしながら七通目――楠木晴菜の手紙を手に取った。緊張で手が震えるのをどうにか押さえながら、封を切る。
中に入っていた便箋は二枚。途中までは他の生徒たちと同じような文章で、ひょっとしたら全文そんな社交辞令で終わってしまうのではないかと内心びくびくしながら、軽く読み流すように目を通した。
が……二枚目の最後辺りに来たところで見えた文章に、俺の目は釘付けになった。
そこには、これまでと何ら変わらない形の字で、こう綴られていた。
『わたしの幻灯は、これでおしまいであります』
ドキリ、と心臓が跳ねた。
これは十年前、彼女に読んであげた――そしてあの日、彼女が読み聞かせていた『やまなし』の一番最後の文面だ。
それからさらに、駄目押しのような言葉は続く。
『それは梨の果実のように甘く優しく、淡い灯でした』
彼女の声で、文章が脳内再生される。あの日園児たちに対して語りかけていたような、優しく柔らかな口調で。
『親愛なるあなたへ。これからも、どうかお元気で』
そうして締めくくられた、彼女の字を見つめていると、何故か胸がキュッと引き絞られるのを感じた。
俺だって、もう何年も生きている。恋愛だって何度かしてきたし、女性経験だってそれなりに積んできた。
だけど……こんな感情を抱いたのは初めてだ。
保育体験で彼女に久しぶりに会った時、心に生まれたもの。
それが今、はっきりと形になり――そして同時に、心に溜まったわだかまりのようなものが、するすると音を立てて解けていくのがわかった。
園長先生に問われた時には、分からなかった気持ち。
そうだ、俺はあの子に恋をしていたんだ。
十も年下の中学生にこんな感情を抱くなんて――当時保育園児だった彼女に対する気持ちが、時を超えて庇護欲から恋愛感情に変わるなんて。
俺は、おかしいのかもしれない。
でも、もう偽れない。一度自覚した想いは、そう簡単に捨てられるものでもないし、これ以上気付かない振りを続けることもできない。
便箋を開いた俺は、早速彼女への返事を綴った。
自分の中に残っている三日間の彼女の姿を、一つ一つ思い描きながら、言葉の中に想いを込めて書いていく。もちろん、一保育士としての距離をかたくなに保ちながら。
だけど最後には、彼女に習って自分の想いを綴ることを決めていた。
『小さな谷川の底を映した、二枚の青い幻灯です』
彼女は『やまなし』の、一番終わりの言葉を綴った。きっと、もう二度と会うことはないと覚悟していたのだろう。
けれど俺は、ここで終わらせるつもりなんて毛頭ない。
彼女の、そして俺自身の感情を、知ってしまった今となっては――……。
ペンを握る手に力を込め、俺は続きを紡ぐ。
『花が咲き、実が熟した頃に、私は必ずあなたを迎えに参ります』
こうやって先送りするような言葉を書く俺は、きっとヘタレなのかもしれない。今すぐ迎えに行くくらいの意気地もないのかと、園長先生ならば言うかもしれない。
『それまで、お元気で』
それでも、待っていてほしかった。
どれだけ時間が必要だったとしても、必ず彼女にふさわしい男になって、彼女を迎えに行きたいと思ったから。
きっとこれから鮮やかに花開き、熟していくのであろう彼女の隣に、胸を張って並ぶことができるように。
だから……。
――あなたが成人し、素敵な女性になった頃、俺は必ずあなたを迎えに行きます。
――それまで、待っていてくれますか。
ラブレターにも似た彼女への返事を締めくくって、画用紙と一緒に業務用の封筒に入れる。
ずいぶん、遠回りなことをしていると自分でも思う。
けれど届いてほしいと思うし、彼女にならばきっと届くと信じている。
そんなささやかな、確信にも似た望みを胸に、俺は他の保育士たちからメッセージをもらうため立ち上がった。
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