番外編
鮮やかな若人たちの姿
私が園長としてこの山ヶ岳保育園に赴任してから、もうかれこれ十年と少しになります。
その間にたくさんの子供たちが、入園しては卒園していきました。もう……累計すれば、何人になるのでしょう。
正直な話、その顔と名前をはっきりと覚えている子というのは、ほぼ皆無に近いというのが現状でした。園長という立場ですから、あまり子供たちと深い交流を持つ機会がないのです。たまに全員揃っているところでお話をさせてもらったり、保育士の皆さんと混ざって遊んだりすることはあるのですが、結局その程度でしかありません。
そんな園長として薄情者だと思われかねないような私が、唯一今でもはっきりと覚えている光景があります。
ちょうど十年前。私が、園長になってまだ間もない頃のこと。
保育体験という名の下で、地元の中学校から学生を何人か招き、三日ほど園児のお世話をしてもらうという行事ごとがありました。それは私がまだ普通の保育士だった頃からずっと続いていて、もはや毎年恒例といっても過言ではないものです。
その年の初夏に来た、とある学校の生徒たちの中に、一人の男の子がいました。当時どこにでもいたようないでたちで、きっといつもならば顔すら覚えないであろう子。
保育体験の最中、年長クラスであるばら組の教室を覗いた時に、私はたまたまその子の姿を見つけました。ちょうど膝の上に小さな女の子――おそらく、ばら組の園児だったのでしょう――を乗せて、本を読んであげているところでした。
印象的だったのは、膝に乗せた女の子を見る男の子の、とても優しげな表情と手つき。そして、女の子の男の子に対する、絶対的な信頼のこもった目線でした。
出会って間もないはずだというのに、二人はまるで長年一緒に過ごしてきた兄と妹のようで……あの空間を決して邪魔してはいけない、というような気さえしてきてしまいました。
「あら、」
不意に後ろから聞こえた声に振り向いてみると、そこには当時ばら組担当だった保育士さんの姿がありました。
彼女は園長である私に「お疲れ様です」と形ばかりのあいさつをすると、私が先ほどまで見ていた二人に視線をやり……まるで独り言のように、けれど私に語りかけているみたいな口調で、こんなことを言いました。
「あの男の子に抱かれている子なんですけど、かなり引っ込み思案でしてね。私にもあまり懐いてくれないんです」
だから、出会って間もないはずの人に、あんな風にべったりとくっついているのは珍しくて。
――その時、私はその男の子に大変関心を持ちました。
引っ込み思案で、保育に手馴れているはずの人間にもなかなか懐こうとしない子の心を、彼はどのようにして開いてみせたのか。
それは保育に携わる人間としての疑問ではなく、単なる興味。
ただ、それだけのことでした。
この保育園に、寺本陽平という保育士が入ってきたのは、それから七年ほど経った後。私が、園長としての仕事にようやく慣れてきた頃でした。
さすがに七年も経っていれば顔かたちもそれなりに変わってくるものですが、面影と笑顔だけはあの日見たものと何も変わっていない……そんな彼のことを、七年前に見たあの男の子だと判断するのには、そう時間を要しませんでした。
「あなた、中学生の時一度ここに来たことがあるでしょう」
そう言うと、彼――寺本君はハッとしたような表情になりました。私が言わんとしていることが、なんとなくわかったのでしょう。目をぱちくりとさせながら、驚いたような声を上げました。
「よく、覚えていらっしゃいますね」
「当然よ、私を誰だと思っているの」
……本当は、そんな昔のことをいちいち覚えているような人間ではないのだけれど。
澄まして答えてみせれば、寺本君は小さく笑いました。それから不意に懐かしそうに目を細め、ある一点――何年もの間同じ場所に位置する、ばら組の教室がある方向を見つめます。
「……あの日、ある女の子と会ったんです。それが、俺がこの道に進もうと思った、何よりのきっかけでした」
「そう……」
ねぇ、寺本君。
気づけば、私は彼に対してそう問いかけていました。
「もし、またその子と会うことができたら……あなたは、どうする?」
寺本君は一瞬不意打ちを食らったような顔をしましたが、すぐにふんわりと柔らかい笑みを浮かべ、こう答えました。
「あの子と、約束しましたからね。『またいつか、きっと会いに来る』って」
一度交わした約束は、何があっても必ず守るのが、男としての役割じゃないですか?
ずいぶん前に交わした、しかもほんの子供同士の口約束です。
それなのに、そんなものを『何があっても必ず守ってみせる』と、きっぱり言い切ったこの寺本という男のことを、私はその時珍獣でも見るような目で見ていたかもしれません。
――いや、正直に言いましょう。実際私は、彼を珍獣のようなものだと思っていました。
ですから、この時の私は全く想定していませんでした。
さらに三年経って、その時の女の子が再び――しかも当時の寺本君と同じ立場となって、この場所に現れることになろうとは。
◆◆◆
そしてまた、保育体験の時期がやってきました。
寺本君が保育士としてここに来てから三年、初めて会ってからだと既に十年の月日が経っていました。
再び私はあの日のように、年中クラスであるゆり組を覗きました。
そこにはゆり組の担当である長谷川さんと、何故か寺本君がいて、二人とも笑みを浮かべながら――特に寺本君は、まるで愛おしいものを見るような優しいまなざしで――ある方向を見つめていました。
寺本君の横にそっと並んで、二人の視線の先を追えば、そこには椅子に座った女の子が、ゆり組の園児たちを前に本を読み聞かせしている光景がありました。
女の子は柔らかな声で、一言一言に気持ちを込めるようにして言葉を紡いでいます。間の取り方が上手で、園児たちも聞き入っているようでした。
「――『私の幻灯は、これでおしまいであります』」
女の子がパタリ、と本を閉じた後、気付けば私も園児や長谷川さんたちと一緒に拍手をしていました。
「おもしろかった!」
「絵が、すごくきれいだった!」
そんな園児たちの声に、女の子ははにかみながら小さく「ありがとう」と答えていました。何となく、その横顔に何かの面影を重ねたような気がしたのですが、その時はまだはっきりとわかりませんでした。
振り向いた女の子は、私の存在に驚いたような顔をしていましたが、寺本君に何やら耳打ちされると、頬を上気させながら「へ」と間の抜けたような声を上げました。
「保育体験に来てる、青葉第一中学校の子ね。読み聞かせ、とってもお上手だったわ」
そう言ってあげると、女の子はさらに顔を赤くしてうつむいてしまいました。その純情な様子に気持ちが温かくなり、つい自分がいつもより優しくなってしまっているのが分かりました。
それからある一人の園児と、寺本君の言葉をきっかけに、園児たちはクレヨンを手にお絵かきを始めました。その時間、私は女の子とお話をする機会をいただき、ますます彼女のことを気に入りました。この子のような保育士がいてくれたら、どれだけいいだろう……と、普段なら思わないだろうことを思ってしまうほどに。
去り際に、女の子にそう口にすれば、女の子はぽかんとした表情で私を見送っていました。ゆり組に残った長谷川さんも、あとから追いかけてきた寺本君も、みんな同じような表情で、私はつい笑ってしまいます。
寺本君に「どうしたんですか」と問われた私は、彼に対して逆にこんな質問を返しました。
「ねぇ、寺本君。前に言っていた女の子って、さっきの子のことでしょう」
それは、自分でも口にして初めて気付いたこと。
言い換えればほんの直感に近く、一か八かの賭けのようなものともいえることでした。
けれど私はすぐに、それが図星であることを見抜きました。寺本君が一瞬虚を突かれたような顔になり、その後ひどく気弱な目線を向けてきたからです。
「彼女には、そのことを言ったの?」
寺本君は黙ったまま、小さく首を横に振りました。
「何故?」
自分でも、厳しい口調になっているのが分かります。私はどういうわけか、二人に心を動かされている自分がいるのを自覚していました。
読み聞かせをしていたあの子を一心に見つめる、寺本君の瞳を思い出しました。とても懐かしそうな、愛おしそうな……渇望するような、あの瞳。
「何故、言ってあげないの」
もう一度確かめるように問いを重ねれば、寺本君は力なく足もとに視線を落とし、聞こえるか聞こえないかくらいの声でこう答えました。
「あの約束を、彼女が覚えてくれているのかもわからないし……」
「確かめればいいじゃない」
「怖いんですよ。……それに」
「それに?」
そこで寺本君は、小さく息をつきました。それから頭を掻くと、所在無げに視線を彷徨わせながら、困ったように小さく呟きました。
「自分の気持ちが、分からないんです。混乱、してるっていうか。仮に彼女に打ち明けて、覚えててもらったとして。それで、自分はどうしたいのか。あの時限りのつながりを彼女に求めて、掴んで、それでその先何がしたいのか。それが、俺にはまだわからないんです」
確かに、二人のつながりは十年前の一度きりです。それをもう一度よみがえらせたところで一体どうするのかという、彼の疑問はもっともなことでしょう。
彼女はもう、あの時の園児ではありません。中学生の子供とはいえ、立派な一人の人間に成長したのですから。
「あの子への気持ちが、何なのか分からない……そう、言いたいのね」
「簡単に言えば、そういうことです。もし彼女が園児のままなら、庇護欲だけで終わってたかもしれない。でも、成長した彼女を見た今は……それだけじゃない何かが、生まれてきそうな気がするんです」
それだけじゃない、何か。
寺本君自身にも見つけられていないその『何か』の正体が、私には分かっていました。単なる傍観者でしかなくても、私は彼より何年も長く生きています。言動を見ていれば、それがどういった種類のものかぐらいは悟れて当然のことでしょう。
「……だったらなおさら、何か行動を起こしてみなくちゃいけないんじゃないのかしら?」
一言告げると、寺本君は大きく目を見開きました。彼の表情の変化にも構わず、私はただ言葉を続けます。
「『約束は守る』って、あなたあの時言ったじゃない。あの子がここにいる時間はもう、あとわずかしかないのよ。これを逃したら、本当にもう二度と会えなくなってしまうかもしれない。二度と、約束を守れなくなるかもしれない。それでも、いいの?」
厳しい口調で言ってやれば、寺本君は首を横に振りました。
「嫌、です」
このまま会えなくなるのは、嫌だ。
きっぱりとそう答えた寺本君の肩を、私は弾むように叩きました。
「なら、男としてけじめをつけなくちゃね」
「……はいっ」
元気な返事を聞いて、私は少しだけ安心した気持ちになりました。
寺本君がいなくなった後、私は園長室で一人、今日一日のことを思い返していました。
穏やかな表情で読み聞かせをしていた女の子と、あの日見た幼い園児の面影。
彼女の姿を、愛おしさのこもる瞳で一心に見つめていた、寺本君。
そして――寺本君に接近された時の、女の子の上気した頬。
きっと二人は、同じ気持ちを抱いていると思うのですけれど……ね。
――不器用な若人に、心ばかりのエールを。
いつかきっと、君たちの気持ちが通じ合いますように。
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