6.そして、時は流れ

 それ以来寺本さんからは何の音沙汰もなく、気付けばあれから実に五年の月日が経っていた。

 わたしは成人し、現在地元から少し離れたところにある短大の保育科に通っている。結局あの出来事があってから、寺本さんと同じ道を歩もうと――保育士になろうと決意したのだ。

 保育体験の後にもらったゆり組の子たちからの絵も、寺本さんたちからの手紙も、全部今でも大事にしまってある。この道に進もうと思った、何よりのきっかけをくれたものだから。

 ゆり組の子供たちとの交流を通じて、あぁいった子供たちとの交流をもっと深めたいと思ったのも事実だ。小さな子の立場に立って、話を聞いてあげたりしながら、正しい道へと進ませてあげる……そんな手助けが少しでもできたらいいという気持ちが、わたしの中にむくむくと湧き起こった。

 けれど、それと同じくらいわたしの心を支配していた、ある一つの願い。

 それは……。

『花が咲き、実が熟した頃に、私は必ずあなたを迎えに参ります』

 寺本さんの手紙にあった一節。

 あの言葉を、もし今でも信じていていいというのなら。

 十年前から今でもずっと変わることのない気持ちで、彼を一心に想い続けていても――彼を待っていても、いいというのなら。

 その時が来るまでに、わたしは少しでもあなたに近づいていたいと思う。

 心も身体も、あなたと釣り合うような人間でいたいと思う。

 迎えに来てよかったと、寺本さんにそう思ってもらえるような『わたし』になりたい……そう、心から思う。

 寺本さんが今でも約束を覚えていてくれているのかは、わからない。あの時二十五歳といっていたから、だったら今年彼は三十歳のはずだ。

 そんな年なら、もうとっくに結婚しているかもしれない。十も年下で、彼から見ればほんの子供でしかないわたしとの約束などとうに忘れて、幸せになっているかもしれない。

 それでも、待っていたかった。

 彼を、信じていたかった。

 その約束が果たされる日が、一体いつになるのか。そもそも守られる約束なのか。それは、どうともいえないけれど……。

 あの人への恋慕を人知れず心に抱きながら、今日もわたしは生きていく。

 どんな形であれ、この恋が終わりを告げることになるその日まで。


    ◆◆◆


 今年受けた保育士試験の実技試験を終え、あとは合格発表を待つばかりとなった頃、わたしは同じく保育士試験を受けた仲間たちとともに、地方の保育士会が主催してくれるという打ち上げパーティーに出席していた。

 普段あまりお酒は飲まないけれど、今日だけは解放感に満ち溢れた雰囲気に流され、わたしはお酒を口にした。あまり飲んだわけではないけれど、ふわふわとした感覚がわたしを包んで離さない。

 こんなに気持ちよくなったのは、いつ振りだろう。

 仲間たちと別れ、帰り道を歩いている間にも、言い難い高揚感が終始わたしを支配していた。

 秋が深まり、日も短くなってきたから、まだそれほど遅い時間ではないけれど、外はすっかり暗かった。ひんやりとした夜風が、ほどよく火照った肌に当たって気持ちいい。

 このまま家に帰るのはなんだかもったいない気がして、わたしは寄り道をしてみることにした。心配してもらわなくても、家までの道のりを見失うほど理性を失っているわけじゃない。ほんの、ほろ酔い程度だ。

 家への道から一本外れたところを歩いて行くと、並木道が見えてくる。そこをずっと進んでいくと、奥に公園があった。

 そこに大きな梨の木が植わっていると、かつてお兄ちゃんが――寺本さんが、教えてくれたことがあった。家からだとちょっと遠いところだったから、見に行くのは今日が初めてだ。

 近づくにつれ、熟した梨の実が放っているのであろう、強く甘い香りが漂ってきた。

 その香りに誘われるように、わたしはふらふらと公園へ足を踏み入れた。甘い香りを放つ梨の木に近づこうとして、はたと足を止める。

 大きな木の下には、いくつかの人影があった。背の高い人影が一つと、小学生の子供ぐらいの小さな人影がいくつか。冷静になって一つ一つ数えてみると、それは十五あった。

 もしかして、これって……。

 わたしはハッとした。残っていたわずかな希望が、胸に広がっていく。

 街灯に照らされたそれらの影は、近づいて行くにつれだんだんと実態を伴うものとなっていった。背の高い影がわたしの存在に気付き、こちらへ片手を上げてみせる。

 それを合図とするように、十五の人影がわらわらとこちらへ集まってきた。

「晴菜先生!」

「晴菜お姉ちゃん、久しぶり!」

 駆け寄ってくる小学生ぐらいの子供たちは、どの子も見覚えがあった。五年もの月日が経っているから、あの頃より格段に成長してはいたものの……どの子も特徴的な面影は残っている。

 そう、彼らは五年前、山ヶ岳保育園のゆり組に在籍していた子供たちだ。現在はおそらくみんな、小学校の四年生くらいだろう。

 そして彼らを連れている、十六個目の背の高い影は――……。

「久しぶりだね――晴菜ちゃん」

 集まってくる子供たちの後ろで微笑んでいたのは、十五年前とも五年前とも違う、完全な私服姿の彼――寺本さんだった。

「寺本さん……みんなも、何でここに」

 呆然としながらそう口にするわたしに、一番前にいた男の子が元気のいい声で言う。

「夕方ごろに寺本先生から電話がかかってきて、おれたちみんな呼ばれたんだよ。晴菜先生に、会えるかもしれないからって」

「夜だったけど、お父さんやお母さんには、寺本先生と一緒だって言ったら許してもらえたよ。寺本先生はぼくたちだけじゃなくて、ぼくたちの親にも人気だったからね」

 わたしは思わずへぇ、と声を上げてしまった。寺本さんにかなりの人望があるだろうことはなんとなく予想してたけれど、まさかここまでとは……。

 当の寺本さんを見れば、彼はふんわりと微笑んでいた。

「電話したら、十五人全員が君のことを覚えていてね」

「今ね、国語で『やまなし』やってるんだ。それで晴菜お姉ちゃんのこと、はっきりと思い出したって子もいるみたいだよ」

 今度は前の方にいた女の子が、教えてくれる。それを聞いて、わたしは幸福感で胸がいっぱいになるのを感じた。

「やっぱり君の存在は、彼らにとって大きかったわけだ」

 ――もちろん、俺にとってもだけどね。

 先ほどより淡く寂しそうな笑みを浮かべた寺本さんが、不意にうつむきながら小さくそう呟いたのが聞こえた気がして、わたしは一瞬どきりとした。

 しかしそこで、そういえばと気が付く。重大な疑問が、まだ残っていた。

「でもなんで今日、わたしがここに来るって……」

「君が行ってたパーティーって、地方の保育士会主催でしょ? 実はあれに、俺も裏方で借り出されてたんだ。とはいっても直接パーティー会場に行ったわけじゃないから、君と直接顔を合わせることは終ぞなかったけれど」

 そう、だったんだ……。

 わたしは全く知らなかったけれど、寺本さんはわたしが来ることを最初から知っててくれたんだ。それで、会いに来てくれたんだ。

「パーティーが少し終わる前に、ここで子供たちと落ち合ったんだ。君がこの道を通ったら……小さい頃に俺が言った、この梨の木のことを思い出してくれるかもしれないって、君がこの場所に来てくれるかもしれないって……正直、賭けみたいなところもあった。けれど君ならきっと来てくれるって、俺もみんなも心から信じた。だから、暗くなってからも一人も帰らないで、こうして今まで待っててくれたんだよ」

 実際、その通りだった。

 わたしは今日この道を通って、ふと彼が昔言った梨の木のことを思い出して……この公園に、足を踏み入れた。あまりに期待を裏切らない自分の行動に、操られでもしていたんじゃないかと一瞬妙な疑いを持ってしまう。

「だってさぁ、言ったじゃん」

 ふと、下から突然聞こえた不満げな声に顔を向ければ、また別の子――確か保育体験最終日に、指切りげんまんをした子だ――がぷくぅっと頬を膨らませながらわたしを見上げていた。

「またぜったい、来てくれるって。なのにどれだけ待っても来てくれなかったから……だから、こっちからお姉ちゃんに会いに来たんだよ」

 叶うはずがないと思っていた約束を、この子はずっと覚えていてくれたんだ。そのことを嬉しく思うと同時に、なんだかとても申し訳ない気持ちになった。一心にこちらを見上げてくる十五人の子供たちに、わたしは笑みを作ってみせる。

「ごめんね、みんな。会いに来てくれてありがとう」

 十五人の顔に、一斉に花開くような笑みがこぼれる。

 この子たちは、五年経った今でもわたしを慕ってくれていた。わたしが寺本さんに、この十五年間ずっと恋し続けてきたように。

 そして……今こうして、わざわざみんなで会いに来てくれたのだ。

 その事実が心に沁みて、わたしは思わず涙が出そうになってしまった。

 それから彼らは五年前みたいに、口々に自分たちの近況について話し始めた。十五人は全員揃って同じ小学校に進学して、今みんなで『やまなし』を学習しているという。

「あの時はクラムボンって印象しかなかったけど、とってもキレイなお話だったんだね。海の中のこととか、かばの花が流れてくるところとか」

「やまなしっていう題名の意味も、今ではちゃんとわかるよ」

「おれは、カニ二匹が泡の大きさできそいあってるところが好きなんだ」

 わたしがかつて願った通り、彼らは『やまなし』をちゃんと読む機会を得て、わたしを思い出してくれていた。そうして同時にクラムボンだけじゃなくて、あのお話の良さも知ってくれた。

 思わず笑みがこぼれるのを押さえられないまま、わたしは相槌を打ちながら子供たちの話にしばらく耳を傾けていた。

 そして、ひと通り子供たちが話し終えた後。

 不意に寺本さんが、パンパン、と両手を軽やかに叩いた。振り返るわたしや子供たちに向かって、寺本さんは満面の笑みで言う。

「さぁみんな、十分晴菜お姉ちゃんと話す時間あげたでしょ。だから今度は、俺に代わってね」

 「えー、まだもうちょっと話してたいよ」という不満の声があちこちから出てきたものの、事前に何か言われていたのか、みんな大人しくわたしから離れてバラバラに散らばっていく。それと同時に寺本さんがこちらへ近づいてきて、気づけばわたしと寺本さんが至近距離で向かい合い、その周りを十五人の子供たちが囲むという、なんだかちょっと恥ずかしい状況が出来上がっていた。

「あ、あの……」

「ん?」

 困惑気味に声を上げるわたしに、寺本さんは優しく目を細め、小さく首を傾げる。手を伸ばせば触れられる距離にある、街灯に照らされたその姿がとても綺麗で、思わず見とれそうになってしまった。

 しばらくどちらからも言葉を発さないまま、わたしたちはただ向かい合っていた。

 すると周りから何故か、子供たちの「ヒューヒュー」というからかい混じりの声が聞こえてきた。寺本さんもそれに気づいたのか、照れたようにはにかんで、頬をポリポリと掻く。

 え、ちょっと待って。これってまるで……。

 お酒ではない熱のせいで、カァッと顔が熱くなっていくのを感じながら、わたしは何も言えないまま寺本さんの言葉を待った。

 寺本さんは幾度か深呼吸をすると、わたしの目をしっかりと見据え、はっきりとした口調でわたしの名を紡いだ。

「楠木晴菜さん」

「っ、はい」

 これから何を言われるのかという緊張やら、名を呼ばれたことに対するときめきやら、色々な感情が心を支配して、自然と身体が強張ってしまう。

 寺本さんは一瞬言葉を詰まらせ、恥ずかしそうにうつむいた。けれど周りから「がんばれー」という子供たちの声が聞こえると、覚悟を決めたように「よし」と唇が動き、わたしの目をもう一度見据える。

 わたしの名を紡いだ時みたいに、はっきりと、彼は続けた。

「約束通り、あなたを迎えに来ました。俺の手を、取ってくれますか」

 これから俺と、ずっと一緒にいてくれませんか。

 幾度か頭を撫でてもらったことのある、大きくてしっかりした手をこちらに伸ばしながら、そう言ってはにかんだ寺本さんの顔が、どんどん涙で滲んでいく。込み上げてくるものに、胸がつっかえた。

 ――この人は、ちゃんと果たしてくれた。十五年前に交わした『会いに来る』という約束も、五年前に手紙に書いていた『迎えに来る』という約束も。

 わたしという存在を、ずっと忘れないままでいてくれた。

「……はい」

 わたしは両手を伸ばすと、彼が差し出したそれを包み込むようにして取った。わたしがお酒を飲んだからか、それとも彼がずっとここで夜風に吹かれて待っていたからか、触れた部分からひんやりとした冷たさを感じる。

 寺本さんは瞳を和ませると、もう片方の手をわたしの頬に添えた。両手に感じている温度よりもずっと冷たく感じて、わたしは思わず一瞬目を瞑る。

「熱いね」

 寺本さんが囁いた。そのままその冷たい指で、目に浮かんでいた涙を拭い取ってくれる。

 それまで静かだったはずの周りから、再び「ヒューヒュー」という声や「キスしちゃえよ先生」という声が次々と聞こえてきた。寺本さんはわたしから目を逸らさないまま、子供たちに聞こえるくらいの声で答える。

「お前ら、そんな言葉どこで覚えてきたんだよ」

「イマドキの小学生は、進んでるんだよー」

 へへん、と小生意気な声が返ってきて、寺本さんは思わずといったように苦笑した。

「仕方ないなぁ……そこまで言うんなら、リクエストに答えてやんよ」

 煽ったのはお前らなんだから、ちゃんと見とけよ?

 おどけるように寺本さんが答えれば、周りの歓声がひときわ大きくなる。その言葉が意味することに気付いて、わたしの心臓が大きく跳ねた。

「目を閉じて」

 子供たちに掛ける声とも、普段話すトーンとも違った、吐息交じりの色っぽく低い声に、緊張が高まる。自分の心臓の音を身体中で感じながら、わたしはそっと目を閉じた。

 熟した梨の実の香りが、ふわりと鼻先をくすぐる。

 そして唇に、温かで柔らかいものが触れるのを感じた。周りから「キャーッ」とか「うぉー!」とかいう悲鳴にも似た歓声が聞こえてきたが、それ以上に自分の心臓の音が大きく聞こえたから、ほとんど気にならなかった。

 どれくらいの時間、そうしていただろうか。

 やがて唇が離れ、ゆっくりと目を開けると、目の前の寺本さんが照れたように、けれど心から幸せそうに微笑んでいた。その表情に、これまでにないほどの身近さと、愛おしさを感じる。

 運命の人を、ようやくこの手に捕まえられた気がした。約束を守ってくれた彼とこれからも共に歩んでいきたいと、わたしは切に思う。

 いつの間にか聞こえてきた、子供たちからの祝福するような拍手に包まれながら、わたしはもう絶対離さないというように、両手の中にある彼の大きな手を握った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る