5.綴られた二度目の約束

 保育体験を終えた翌日は連休で、わたしはこの三日間の――特に最終日のことを思い出しながら、ほぼ部屋から出ずに悶々と過ごした。

 最後に寺本さんが告げた言葉が、頭の中でメリーゴーランドみたいにくるくると、落ち着きなく回り続ける。

『またね――晴菜ちゃん』

 彼の声が脳内で再生されるたびに、息苦しくて仕方ない。その一挙一動を思い出すたびに、何かを期待せずにはいられない。

 どうして……いまだに、そんなことに支配され続けているのだろう。もうあれは、十年も前のことなのに。

 わたしが昨日、ゆり組の園児と最後に交わした約束みたいに……彼のあの言葉は、決して叶いなどしないはずなのに。

 どうして寺本さんはあの時、期待を持たせるようなことを言ったのか。

 どうしてわたしは、こんなにも胸を躍らせてしまうのか。

「もう、どうしていいのか分かんないよ……」

 呟いた声とわたしのこの気持ちは、きっと寺本さんにも……他の誰にも、ひとかけらも届きはしなかっただろう。

 わたしはこれからもずっと、同じ気持ちを抱き続けたまま過ごし……そしてそのまま、大人になる。

 心だけを、あの幸せだった時期に置いたまま。


    ◆◆◆


「皆さん、先週は保育体験お疲れ様でした」

 教室の前方に立つやいなや、機嫌良さそうに口を開いた我がクラス担任の女教師は、その手に何やらプリントの束を抱えていた。

 教卓でトントン、と丁寧に揃えると、彼女はそれを幾枚かずつに手際よく分けていく。そうして「二枚ずつ取ってください」と言いながら、席に座るわたしたち生徒に用紙を配り始めた。

 手元にやって来た二枚を見ると、それは罫線がいくつか引かれた、便箋のコピーらしかった。どうやら世話になった保育園に宛てて、お礼の手紙を書けということらしい。

 女教師は黒板に各保育園の名と担当者の名前を順番に白チョークで書き込んでいくと、黒板をトン、と指した。こちらを向きながら、わたしがまさに思っていた通りのことを口にする。

「これから皆さんには、お世話になった保育園の方にお礼の手紙を書いていただきます。各園ごとの担当者は、前に書いた通りです。手紙の所作については、前に教えましたね。もしわからないところがあったり、紙が足りないなどということがありましたら、言ってください。できた人から清書の紙をあげますから、手を挙げてくださいね」

 黒板を見てみれば、もちろんわたしが行った山ヶ岳保育園の名もあった。その横には教師らしいバランスの良い字で『担当者:寺本陽平先生』と書かれている。

 これがきっと、最後のチャンスになるのだろう……。

 そう思ったわたしは早速便箋に向かうと、小さく深呼吸をした。女教師の言う通り、手紙の所作については前に習ったし、書くことも頭の中でだいたいまとまっている。

 クラスのお調子者の男子が「せんせー、書き始めはやっぱり『拝啓』ですよね?」などと至極くだらない質問をしているのを聞き流しながら、わたしはシャーペンを手にサラサラと書き始めた。

「晴菜、何書く……って、早いねあんた」

 いつもみたいに相談でも持ちかけてこようとしたのだろう、前の席の友人がこちらへ振り向いたのを、声と気配で感じる。そうしている間にもびっしりと埋められていくわたしの便箋を見て、驚いたように声を上げた。

 書く手を止めぬまま、顔を上げずに答える。

「大体、書くことは決まってるからね」

「こういうの苦手なあんたにしては珍しいね……そんなに、保育体験が楽しかったんだ」

 友人は感心したように言う。とりあえず「まぁね」と答えておくと、友人はそれで満足したのか、おとなしく前へと顔を戻したようだった。

 教室中がざわつく中、わたしは一人、淡々と手紙を書き続ける。

 ――ゆり組の子供たちと一緒に過ごせて、もちろん楽しかったという気持ちもあった。もう一度あぁいった機会を設けてほしいと、心から思うぐらい。

 でもそれ以上に、わたしには寺本さんの存在が大きかった。

 それは寺本さん本人も、他のみんなも、きっと知らない真実。わたしだけが持つ、わたし一人だけの秘密。

 誰にも、教えてなんてあげないんだから。

 テンプレート通り『拝啓』と時候の挨拶、そして『先日はありがとうございました』の言葉から始まり、ゆり組の子供たちと遊べてとても楽しかったとか、長谷川さんや園長先生にもお礼を言っておいてくださいとか、そういうことをつらつらと綴っていく。

 そうして十分ほどで一枚半ほどのスペースを埋め、最後に締めの言葉を綴る。『かしこ』と書く前に、わたしはさらにある一文を書き込んだ。

『わたしの幻灯は、これでおしまいであります』

 これは、『やまなし』の最後の一文だ。わたしはこの部分に、ある大きな意味を込めた。

 それから、駄目押しのようにさらにもう一言。

『それは梨の果実のように甘く優しく、淡い灯でした』

 寺本さんはきっと、気付いてくれるはず。この最後の部分に込めた、わたしの想いに。

『親愛なるあなたへ。これからも、どうかお元気で』

 自分でも、思い切ったことを書いたと思う。

 けれど……これがわたしの、最初で最後の恋文だ。

 自分の中学校と名前、そして彼の宛名を書いて、わたしは清書の紙をもらうために手を挙げた。

 担任の女教師が持ってきてくれた、清書の紙を二枚前にして、わたしはもう一度先ほどの内容と同じことを書く。もちろんさっきより心を込めて、丁寧に書くことを心がけながら。

 最後の一文に全身全霊を込めて、授業終了のチャイムが鳴る十分ほど前に手紙を書き終える。書き終えた手紙を指示通り三つ折りにすると、事前に住所と宛名を書きこんでおいた茶封筒に入れ、封をする。

 提出する前、わたしはその封筒を手にしながら、一つ大きく息をついた。

 ――十年前の想い出を引きずるのは、これでおしまいです。

 ――それはわたしにとって甘く優しく、淡いひとときの恋でした。

 この手紙を出せば、全てが終わる。今まで引きずってきた過去とも、これで本当に決別しなければと思う。

 完全に振り切るまでにはきっと時間がかかるかもしれないし、今はまだ、胸を引き裂かれるほどに寂しくて苦しい気持ちになるけれど。

「さよなら、お兄ちゃん」

 人知れず小さく呟くと、わたしは手紙を提出するために席を立った。


    ◆◆◆


「山ヶ岳保育園の寺本先生から、先日のお手紙に対するお返事をいただきました」

 数日後、担任の女教師が口にしたのは、そんな予想外の知らせだった。

 他の保育園に行ったクラスメイト達がそれぞれ「いいなぁ」「すげー」などと零すのをよそに、山ヶ岳保育園に行ったわたしたち七人に、それぞれ宛名の書かれた手紙が一枚ずつ配られる。

 が……。

「先生、なんでわたしだけ違う封筒なんですか」

 他の人たちが皆同様に、薄く小さな封筒を一つずつ渡される中、わたしにだけ別の違った封筒が渡された。めったにお目にかからないような業務用の大きな封筒で、しかも分厚い。

 女教師は苦笑しながら答えた。

「寺本さんのお話によると、ゆり組の園児十五人が描いた絵が入っているんですって。楠木さんは、ゆり組の子たちととっても仲良くできたのね」

 ゆり組の子たちが、わたしに……。

「えー、いいなぁ晴菜。いつの間にそんなことになってたのよ」

「楠木お前、もう保育士になれるんじゃね」

 クラスメイト達からかけられる賞賛(?)の言葉に包まれながら、わたしはその大きく分厚い封筒の封を切った。

「うわぁ……」

 取り出した中身を目にして、思わず感嘆の声が漏れる。

 四つ折りにされた大きな水色の画用紙に、十五個の絵があった。その下には保育士さんが書いたと思われるペン字で、園児たちからのメッセージが一つずつ添えられている。

 『すっごくたのしかったよ』『ありがとう、はるなせんせい』『また、ぜったいきてね』……そんな言葉たちに、わたしは自然と目頭が熱くなった。みんなの前だから(しかもなんだか注目されているようだから)、その場で涙を流すのはどうにか堪えたけれど。

 園児たちの中に、わたしは思い出を残すことができたんだ。ほんの短い間だったけれど、それでも素敵で楽しいひとときを、彼らに与えてあげることができたんだ。

 これまで子供が苦手だったし、一人でゆり組に行くことになった時は正直不安でいっぱいだったけれど、今は保育体験に行ってよかったと、ゆり組のみんなに出会えて本当に良かったと、心から思う。

 次にわたしは、一緒に入っていた三枚の便箋を開いた。こっちは寺本さんをはじめとした、保育士のみなさんが書いてくれたものらしい。

 一枚目は、園長先生と長谷川先生からのメッセージだった。

 園長先生の字は流れるような達筆で『読み聞かせをしてあげていたのが、とても印象的でした。一日目のお話を伺ったり、三日目の様子を見させてもいただきましたけど、あなたは本当に子供の心を掴むのがお上手ですね。また個人的に遊びに来てほしいくらいです』といった、どうにももったいない褒め言葉が書かれていた。横から覗き見ていたクラスメイトが、「すげーじゃん」と声を漏らす。

 長谷川先生の字は丸みを帯びていて可愛らしかった。『初日は一緒にいてあげられなくてごめんなさい。けれどゆり組の子たちはみんな、楠木さんといる時とてもいい顔をしていました。いつも担当をしている私が、思わず嫉妬してしまうくらいに(笑)』という文章を見た時は、思わず笑ってしまった。

 二枚目と三枚目は、寺本さんから。開く時は緊張して手が震えてしまったけれど、書かれたその字を読み進めていくうちに、不思議とほっとした気持ちになっている自分がいた。

 一日目に喧嘩をしていた園児たちの前でオロオロしていたこと、二日目に柔らかな声で『やまなし』の読み聞かせをしていたこと、三日目にはもうすっかり打ち解けて、笑顔で園児たちと遊んでいたこと……。

 こんなにもわたしのことを見ていてくれたんだと、そんな自惚れにも似た気持ちがわたしの中に生まれてきてしまう。それぐらい詳しく、寺本さんはわたしの三日間の様子を事細かに書いてくれていた。

 それから彼は手紙の中で、ゆり組の子供たちが描いた絵は全てクラムボンを表したものなのだということも教えてくれた。水色の画用紙は、きっと水の中を表しているのだろう。

 彼らにとってあのお話の印象がクラムボンだけというのも、それはそれで少し悲しいような気がした。けれどいずれ成長したらきっと、彼らはあの話の詳細を知ってくれることだろう。

 その時に、思い出してくれたら嬉しいと思う。

 保育園の頃に読み聞かせをしてくれた、『はるな』という名前の人がいたということを。

 そして、寺本さんにも……。

 ……なんて、それはあまりにも贅沢な願いだろうか。

 そんなことを思いながら読み進めていると、わたしはふと、最後の締めの部分に何か異変を感じた。これまでの丁寧な調子は変わらなかったけれど、なんだかそれまでとは違うような……これまでの保育体験に来た『楠木晴菜』という生徒に宛てて書いていた手紙と、この先の文章はまったく違うような気がしたのだ。

 最後の締めに当たる部分の、一行目にはこんなことが書いてあった。

『小さな谷川の底を映した、二枚の青い幻灯です』

「これは……」

 思わず、小さく呟く。

 これは、『やまなし』の初め・・にあたる言葉だ。これから物語が始まるということを表した、重要な文章。

 確かわたしは彼への手紙に、終わり・・・の言葉を綴ったはず。彼との思い出を、彼への恋心を、すべて終わりにするつもりでそう書いた。

 それなのに返事が、始まりの文章とは……これは一体、どういうことなのだろう。彼は一体どういうつもりで、この言葉を引用してきたのだろう。

 不思議に思いながらも、先の言葉を読み進めてみる。

 次の文章は、こうだった。

『花が咲き、実が熟した頃に、私は必ずあなたを迎えに参ります』

 ……え?

 思考がフリーズするわたしの目に、さらに不可解な言葉がもう一つ飛び込んでくる。

『それまで、お元気で』

 寺本さんの手紙は、これで終わりだった。さらに文章を追ってみるものの、その後に書かれているのは日付と差出人――つまり寺本さん自身の名前、そして宛名としてのわたしの名前だけ。

 どこかにヒントがないかともう一度すべて読み返してみるけれど、どこにもヒントになりそうなものはない。

 わたしはこれを受けて、明るい方向へと勝手に解釈してしまってもいいのだろうか。期待してしまっても、いいのだろうか。

 ねぇ、寺本さん――ううん、お兄ちゃん。

 わたしは……あなたとの思い出を、まだ手放さなくてもいいのですか? まだ、あなたを諦めなくてもいいのですか?

 何年でも何十年でも……あなたの言葉を信じて、待ち続ける権利がわたしにはあると、そうあなたは言うのですか?

 心の中で幾度問いかけてみても、答えなど返ってくるはずはなく。

 クラスメイトたちの視線を一身に受けながら、わたしはできるだけ動揺を外部へ漏らさないよう、静かに便箋と画用紙を元通り折りたたみ、封筒へと戻したのだった。

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