4.保育体験最終日

 そうして迎えた保育体験三日目、もとい最終日。

 同じ学校の人たちと離れ、一人きりで疎外感を感じていた一日目とは打って変わって、今ではもう園児たちの輪に入ることにもすっかり慣れてしまっていた。一日目や二日目よりもスムーズにゆり組の教室へと入っていくことができた。

 この日の園児たちは何人ずつかの仲良しらしいグループに分かれて、おままごとをしたりブロック遊びをしたりしていた。すべてのグループと一緒に交じって遊んで、わたしは前二日よりも格段に穏やかな時を過ごした。

 本来ゆり組の担当である長谷川先生も一緒だったし、時折寺本さんや何故か園長先生まで教室に来てくれたので、一日目のように困ることもなかった。できればこの処置を今ではなく一日目に取って欲しかった……と思わなくもないが、色々な経験をしたおかげでわたし自身が成長できたような気がするし、なんだかんだ言っても楽しかったので、とりあえず良しとする。

 園児たちはもうすっかりわたしになついてくれていて、一時は各グループに引っ張りだこにされ再びケンカが勃発しそうになったことになったこともあったけれど、そういう時はタイミングよく寺本さんが助けに入ってくれたり、長谷川さんがサポートしてくれたりして、どうにか事なきを得た。

 今日は最終日ということでいつもより長くいることができるので、子供たちのお昼寝の時間を少し遅くして、わたしのお別れパーティーが開かれることになった。

 みんなはわたしが明日から来ないことを知ってとても残念そうだったし、中には「やだ、ずっときてよー!」と駄々をこねる子も現れた。けれど最終的には「またぜったいきてね。やくそくだよ」と指切りげんまんすることでこの件は案外すぐに丸く収まった。

 ――でもきっと、この約束は守れない。

 そう思うと、とたんに切なくなる。

 そうして同時に、あの時のお兄ちゃん――寺本さんも、同じようにわたしに嘘を吐いたのだろうかと思ってしまって、哀しさが増していく。

 寺本さんは結局これまで一度も、あの頃のことを話してくれようとしない。『久しぶりだね』とも『覚えているかな』とも、何も言ってくれない。

 寺本さんは、わたしを覚えてくれているのだろうか?

 それとも、中学校の頃にあったほんの三日ほどの出来事なんて、もうどうでもいいと忘れてしまっている?

 わたしは、ちゃんと覚えているのに。

 十年経った今でも、わたしはちゃんとあなたのことが分かったのに。

 再会を内心喜んでいたのは、やっぱりわたしだけだったの?

 結局あの頃のことは全部、幼いわたしの独りよがりにすぎなかったのだろうか……。

 いつもより格段に寝つきが悪かった十五人の子供たちを何とかなだめすかし、ようやく全員を寝かしつけることに成功したあと、安らかな寝息がいくつも聞こえる教室で一人考え込む。

「はぁ……」

「どうしたの、楠木さん。お別れが、そんなに寂しい?」

 唐突に降ってきた声に顔を上げれば、そこには気遣うような笑みを浮かべた寺本さんがいた。わたしが座っているからか、両手を膝につき、まるで幼児を相手にする時みたいな体制でわたしを見ている。

 その姿が十年も前のものと重なって、わたしの胸はさらにキュッと締め付けられた。

「大丈夫です。明日からまた学校か、めんどくさいな……とか考えてただけですから」

 誤魔化すようにわざとふざけてそう答えてみれば、寺本さんはフッ、と小さく笑って「そっか」と言った。

 それから寺本さんは「よっこらせっ」と小さく呟いて、わたしの隣に静かに腰を下ろした。一日目にも聞いたそのオジサンみたいな掛け声に、思わず吹き出してしまう。

「ずいぶん、年をお取りになったんですね」

「失礼だなぁ、俺はまだ二十五だよ」

 むぅ、と寺本さんが口を尖らせる。こんなおどけた素の表情を見たのはもちろん初めてのことで、新しい一面を見られたことが何だか嬉しくて、わたしは落ち込んでいた気持ちがちょっと浮上してくるのを感じた。

 一日目と同じように子供たちの寝顔を眺める寺本さんの横顔に、気付けばわたしは問いかけていた。

「寺本さんは、どうして保育士になろうと思われたんですか?」

 寺本さんが、小さく笑う。

「また、ベタな質問だね」

「いいじゃないですか。聞きたかったから聞いてみたんです。最後なんですし、答えてくださってもいいでしょう?」

 そう言い返せば、寺本さんは目を細めながら「そうだなぁ……」と考えるそぶりを見せる。少しして顔を上げ、こちらに視線を合わせてくる彼の瞳には、まるで昔を振り返るみたいな穏やかな色が浮かんでいた。

 物語を口にするみたいな口調で、寺本さんは言った。

「俺が保育士になろうと思ったのは、中学校三年生の頃。きっかけは、ちょうど君たちと同じく、この保育園に保育体験をしに来たことだった」

 トクン、と胸が鳴る。もしかしてという期待にも似た想いが、心を支配した。

「俺はあの頃、子供の扱いとかあまり得意じゃなくて。弟はいたけれど、年が近かったから……小さい子の相手をしたことなんて久しくなかったから、ホントにどうしていいか分かんなくて。そう、一日目の君みたいにさ」

 一日目の自分の姿を思い出して、恥ずかしさのあまり縮こまりそうになってしまう。子供の喧嘩を前にオロオロしていたわたしは、傍から見れば――寺本さんの目から見れば、相当滑稽に映ったことだろう。まったく、穴があったら入りたいとはこのことだ。

 その場で小さくなるわたしに気付いたのか、寺本さんは可笑しそうに小さく笑った。

「でね、そんな時に……ある女の子と出会った。その子はみんなで遊んでいる園児たちの輪から離れたところで、一人ポツンと絵を描いててね。俺はなんとなくその子のことが気になって、思い切って声を掛けたんだ」

 寺本さんが口にしたその時の状況が、わたしの遠い記憶とぴったり重なり、どんどん明確なものとしてわたしの脳裏に描かれる。

 気づけばわたしは、「えぇ」と小さく相槌を打っていた。そうでしたね、というニュアンスをわずかに込めて。

 訳知り顔でうなずいたわたしに驚いたのか、寺本さんが僅かに目を見開く。それでもその語り口は止まることなく、さらに続いた。

「その子が描いていた絵は、君が昨日読んでいた宮沢賢治の『やまなし』のワンシーンだった。それを指摘したら彼女はとても喜んで……気を良くした俺は、薀蓄を語って聞かせた。浮かんでいる花は椛の花というんだよ、とか、確かそんなことを。女の子はさらに喜んでくれてね。それが、俺はとっても嬉しかった」

 そう。わたしもあの時お兄ちゃんに、知らなかったことをたくさん教えてもらって……すっごく、すっごく嬉しかったの。

 十年前の記憶の一つ一つが寺本さんの言葉に乗って、いつも思い出す時よりも断然はっきりと、明確に思い出される。

 同時に、あの時感じていた気持ちも、鮮明に……。

 まるであの頃に戻ったような、不思議な錯覚を覚えた。きっと今のわたしはひどく無邪気で、怖いほどに穏やかな表情をしているに違いない。

 きっと寺本さんは、その女の子がわたしだなんてこと、露ほども思っていないのだろう。今すぐここで、それはわたしのことだと叫んでしまいたい衝動に駆られる。

 けど……。

 それでも、寺本さんがあの時のことを――保育体験で一緒に過ごしたあの女の子のことを、今でも覚えていてくれたという、その事実を知れただけで。今、彼とあの日の記憶を共有できているという、その事実だけで。

 それだけでわたしは今、幸せだと思った。

 幸福に満ちたわたしの心情を、寺本さんはきっと知らない。

 それでもわたしは、彼の話の続きに耳を傾ける。まるで絵本の続きをせがむ子供のように、彼から話を聞こうとする。

 寺本さんはリクエスト通り、その続きを語ってくれた。

「結局俺は保育体験の三日間全てを、その子と過ごした。初めはおどおどしていた彼女も、日を追うごとに俺になついてくれるのが分かったし、俺自身も保育体験を心から楽しんでたし……このまま別れるのは、嫌だなって思ったくらい」

 わたしだって……お兄ちゃんと、ずっとこのまま一緒にいたいって思った。帰ってほしくなんかないって、ずっと思ってた。

 わたしが見守る中、寺本さんはゆっくりと瞳を閉じる。

「でもやっぱりさ、日程を伸ばすことはどう考えても不可能だったわけ。無情にも、時は過ぎる。だから……最終日、『明日も、来てくれる?』って純真無垢なまなざしで聞いてきた彼女に、俺は今日でお別れだと答えた。それで……呆然とする彼女と、約束したんだ。『いつかまた、きっと会いに来る・・・・・』って」

 わたしは思わず、眉根を寄せた。

 そこまで覚えているくせに、どうしてわたしに気が付かないのだろう。寺本さんは今まさに、その女の子に会っているというのに。目の前に、彼女・・はいるのに。

 どうして、声を掛けてくれないの……?

「彼女がそのことを、今でも覚えているかどうかは分からない。でもいつかは絶対に、その約束を果たさなければ、って思う。まだ一度も、会いに行くことはできていないけれど……」

 『会いに行く』という言葉に、何か彼なりの意志がこもっているような気がしたけれど、わたしにはよくわからなかった。

 私は、覚えている。ちゃんと覚えているし、その人があなただということも、ちゃんとわかってる。

 それなのに……その言いぐさは、一体何なのか。

 わたしのことを覚えていないのは、むしろあなたの方じゃないか。

「寺本さん」

 耐えきれなくなって、思わず彼を呼ぶ。寺本さんは笑みを浮かべ、わたしを見た。

「なんだい」

 その微笑みはきっと、あの子・・・に向けたものとは違う。きっと、昔出会った女の子――つまりそれは、わたし自身のことなのだけれど――とわたしは、同一人物だと思われていないのだろう。

 その事実に、胸が痛いほど締め付けられた。大きく息を吸って、全て吐き出そうとするかのように、言葉を紡ごうとする。

「わたしは――」

 ちょうど、その時だった。

「晴菜、バスの時間だよ」

 隣の年少クラス、通称ひまわり組の教室から出てきた同級生の女の子が、タイミングよくゆり組の教室に入ってきた。わたしは叫ぼうとした言葉を呑み込み、思わずその子を睨んでしまう。結構な剣幕だったのか、彼女はわたしを見て一瞬固まってしまった。

 分かっている。その行動に、まったく悪意がないことくらい。

 でも、これ以上持て余す自分の気持ちをどこにやればいいのか分からなくて、それはどうしても苛立ちになってしまう。

 わたしの様子になど目もくれず、寺本さんは穏やかな声で、けれど急かすように言った。

「ほら、楠木さん。お迎えの時間だって。もう行かないと」

「……」

 わたしは気持ちを落ち着ける暇もないまま立ち上がらされ、スムーズに教室から出される。

 その瞬間、わたしの中に存在していた一抹の期待も希望も、全てが消えてなくなってしまったような気がした。

 けれど……。

 送迎バスへと向かおうとする直前、寺本さんが不意にわたしの頭に手を置いた。多分わたしにしか聞こえないくらいの小さい声で、こう囁かれる。

「じゃあまたね、晴菜ちゃん・・・・・

 わたしは驚きのあまり、大きく目を見開いた。寺本さんはわたしの頭をポンッと叩くと、ゆったりとした足取りで歩いて行き、何事もなかったかのように奥へと引っ込んでいく。

「何やってんの晴菜! もうバス来てるって。早く行くよっ」

 苛立った様子の同級生に乱暴に手を引かれ、送迎バスへと乗り込む途中にも、わたしは茫然としながら、寺本さんが紡いだその名前を脳内で反芻し続けていた。

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