3.保育体験二日目

 保育体験二日目。

 わたしは昨夜自室から探してきた、とある絵本を手にしていた。昔よくお母さんに読んでもらい、お兄ちゃん――もとい、寺本さんにも読んでもらったことがある、宮沢賢治の『やまなし』だ。

 あの頃よりもくすみ、ボロボロになってしまったそれを鞄から取り出し、ページをパラパラと捲る。古いため多少読みにくい箇所もあったけれど、それでも記憶にある通りの綺麗な挿絵は健在だった。

 昨日『本を読んで』と言っていた子供たちもいたから、保育体験中にぜひとも読んであげたいと思い、持って来たのだ。

 今日彼らがどんな遊びを選ぶのかは分からないけれど、もしまた喧嘩になったとしても、寺本さんのアドバイスのおかげで、今度はちゃんとうまく落ち着けてあげられそうな気がした。

 昨日も付けていた、手作りのルビ付きネームプレートを安全ピンで服に留め、「よしっ」と気合を入れたわたしは、ゆり組の部屋のドアを開ける。

 わたしの存在に気付いた十五人の子供たちが、遊びの手を止める。それからまるで気に入りのおもちゃやお菓子を見つけた時のように、わらわらと嬉しそうに駆け寄ってきた。

「あっ、はるな先生!」

「はるなお姉ちゃんだ!」

 みんなも昨日の寺本さんと同じように、ネームプレートを見てわたしの名前を覚えてくれたらしい。そのことにわたしは、今まで感じたことのなかった種類の喜びを覚えた。

 今までこんな風に誰かになつかれることってあんまりなかったから、わたしはなんとなく新鮮な気持ちになってしまう。

 昨日はほぼ寺本さんのおかげで事なきを得たようなところがあるし、それでも懐かれる意味は正直よくわからないけれど、それでも今日は自分からこの子たちに何か与えられるものがあれば……と思う。

「今日はね、面白いご本を持って来たよ」

 わたしは子供たちが話しやすいように腰を折ると、昨日よりもずっと出やすくなった声で、明るく言ってみた。表情もそれに比例して、自然と笑みが零れる。

 口に出した直後は、彼らが興味を持ってくれるかどうか不安に思ったけれど、当初の期待通り、みんなは嬉しそうに目を輝かせてくれた。

「ホント!?」

「ご本、よんでほしい!」

「きのうはボールあそびしたし、きょうはご本にしようっ」

「「さんせー!!」」

 このクラスの子たちは、どうやら読み聞かせも他の遊びと同じくらい好むクチらしい。未来の読書家たちをたくさん見ているような気がして、微笑ましい気持ちになった。

 子供たちはわらわらと、教室の中心の方に移動していくと、きちんと並んで座り出した。どうやら地域の図書館などで司書さんがよくやるような、読み聞かせ風にして読んでほしいらしい。

「はるな先生、こっちだよ」

 わたしのすぐ近くにいた、おかっぱ頭の女の子――確か昨日、あやちゃんと呼ばれていた子だ――がにこにこ笑いながら、わたしの手を引いてくれる。それに着いて、わたしはみんなが座って待っている前へと、少し緊張気味に向かった。


 ゆり組担当の保育士さんが持ってきてくれた丸椅子に腰かけると、持って来た絵本を子供たちに見えるようにして、そっと開く。傍らに控えた保育士さんの視線を感じながら「『やまなし』」と絵本の題名を告げると、それまでざわついていた子供たちは一斉にシンと静まり返った。

 自分の話をちゃんと聞いてくれようとするその姿勢は嬉しかったし、よく教育されていると思う。けれど、こんなにも静かにされてしまうとやっぱり緊張が高まった。

 パラリ、とページを捲る音が、シンとした教室に響く。

 できるだけ声が上ずらないように気を付けながら、通りやすさを心掛け、わたしは一文目を口にした。

「『小さな谷川の底を映した、二枚の青い幻灯です』」

 多分、『幻灯』という言葉の意味は分からなかったと思う。わたしも読んでもらった当初はわからなくて、お母さんに意味を尋ねたものだ。

 あの時お母さんは、どう答えたのだっただろう……。

「『一、五月』」

 お兄ちゃんにも、同じことを尋ねてみたことがあったっけ?

「『二匹の蟹の子供らが、青白い水の底で話していました』」

 けれど子供たちにとってそれは至極どうでもいいことだったらしく、青を基調とした幻想的な挿絵に見惚れるように、わたしの開いた本に一心に視線を注いでいた。

 子供たちの心を掴めたらしいことに内心ほっとしながら、わたしはさらに次の一文を口にする。

「『クラムボンは、笑ったよ』『クラムボンは、かぷかぷ笑ったよ』」

 プッ、と誰かが噴き出す声が聞こえる。それを合図とするように、まるでさざ波のように子供たちの間にクスクス、という笑い声が響き渡った。

 その反応も、予想の範囲内だ。だって初めて読んでもらったわたしだって、その意味不明な文章のおかしさに、思わず笑ってしまったのだから。

 どう感情を込めていいのかはよくわからないものの、それでもできるだけ棒読みにならないよう、わたしは続けた。

「『クラムボンは、はねて笑ったよ』『クラムボンは、かぷかぷ笑ったよ』」

 笑い声が、ひときわ大きくなった。わたしもつられて吹き出しそうになったけれど、どうにか堪える。

「クラムボン! またでてきたよクラムボン!」

「かぷかぷ、かぷかぷ!」

 そんな、ちょっとふざけたみたいなひそひそ声が聞こえる。

 しぃっ、と横から、咎めるような保育士さんの声が聞こえる。そのすぐ後に、同じく横から「止めなくて大丈夫ですよ」という小さな声がして、わたしは少し目を見開いた。

 わざわざ確かめるまでもなく、この声の主が誰なのかすぐに分かってしまう自分が、いっそ恐ろしいとさえ思う。

 不自然にならないよう、動揺を隠しながらわたしは読み続ける。

 子供たちの小さな、それでいて楽しそうな笑い声をBGMに、わたしはただ自分の気に入りの本をみんなにも気に入ってもらいたいというその一心で、心を込めて朗読を続けた。

 保育士さんも、その後は咎めようとしなかった。先ほどの声の主――寺本さんも、それ以上何も口にはしない。

 子供たちや保育士さんの、そして寺本さんの視線を感じながら、わたしはどうにか最後まで本を読み切ることに成功した。

「『――私の幻灯は、これでおしまいであります』」

 パタリ、と本を閉じると、一瞬辺りがしんと静まり返る。

 その直後、まるで音楽の演奏会でよくあるスタンディングオベーションのような拍手が、園児たちから巻き起こった。

「おもしろかった!」

「絵が、すごくきれいだった!」

 口々にそんな感想を述べられて、わたしは嬉しさと同時に気恥ずかしささえも感じてしまう。はにかみながら小さく「ありがとう」と答えるのが精いっぱいだった。

 横からも、拍手が聞こえる。ちらりと見てみれば、ゆり組の保育士さんと寺本さん、そしていつの間にやらもう一人、年配の女の先生が隣に並んで、わたしに笑顔と拍手を送っていた。

 目をぱちくりさせていると、寺本さんがわたしのところに来て、小さく耳打ちをする。その距離の近さに、幼い頃のときめきを思い出してしまったのは秘密だ。

「園長先生だよ」

 へ、と掠れた声が漏れる。

 園長先生と呼ばれた、年配の女の先生は、人の良い笑みを浮かべながらこちらに来た。

「保育体験に来てる、青葉第一中学校の子ね。読み聞かせ、とってもお上手だったわ」

「あ、ありがとうございます」

 まっすぐな褒め言葉に、さらに照れてうつむいてしまう。そんなわたしに園長先生は「あらあら、顔を赤くしちゃって。可愛いわね」と、とてもほのぼのとした調子で言った。

「ねぇはるな先生、クラムボンっていったいなぁに?」

 いつの間にか、男の子が一人こちらに来ていて、わたしにそんな質問を投げかけてきた。

「あ、えーと……うーん、何だろうね」

 赤くなった顔を隠したかったのと、質問の答えが見つからないのとで、非常に曖昧な笑みと答えを返すことしかできない。

 そんなわたしに助け船を出すように、寺本さんが口を挟んできた。

「みんなで、自分が思うクラムボンを描いてみたらどうだろう?」

「いいねそれ、おもしろそう! おれ、さっそくみんなに言ってくる!」

 男の子は花開くような笑みを浮かべ、機嫌良さそうにスキップで園児たちの輪の中へと戻っていった。

 十五人の子供たちがクレヨンを手に、それぞれ思い思いの『クラムボン』を描いている最中、わたしは思いがけずゆり組の保育士さん、寺本さん、そして園長先生の三人の大人たちと話す機会を設けることとなった。

 ゆり組の子供たちのこと、保育園の仕事のこと、わたしの学校の授業のことなど、実に様々なことを話した。とはいっても主にわたしが三人の質問に答えたり、三人が好き勝手に自分の業務について話すような形だったから、ほぼわたしは受け身のようなものだったけれど……。

 同僚として働いていたら、もっと違う話ができたのだろうかと、そんな今の状況では絶対にありえないことをふと思ってしまう。

 やっぱり彼らにとって――もちろん、寺本さんにとっても――わたしは所詮一人の子供でしかないわけである。まだまだ、追いつくには足りない。

 保育士になりたいという明確な気持ちがあるわけでは、まだないけれど。

「――さて」

 ひとしきり話し終えたところで、園長先生が教室に掛かっていた時計を一瞥し、声を上げた。

「そろそろ行かなくては。寺本先生も長谷川はせがわ先生も、それぞれのお仕事に戻りなさいよ」

「「はい」」

 寺本さんと、ゆり組担当の保育士さん――長谷川さん、というらしい――が揃って返事をする。

 長谷川さんに見送ってもらいながら、寺本さんと園長先生が部屋を出ていこうとするところで、不意に園長先生が振り向いた。わたしと目を合わせると、悪戯っぽく微笑む。

「あなたみたいな保育士さんが、うちに来てくれると嬉しいのだけれど」

 一瞬何を言われたのかわからずぽかんとするわたしに、園長先生はヒラリと手を振り、先に出て行った。寺本さんが目を丸くして、遠ざかる園長先生の後姿とわたしを交互に見る。

「園長先生って、あぁ見えて結構気性の激しい人なの。そんなあの人があんなこと言うなんて……すごいわね、あなた」

 長谷川さんが感心したようにそう言った。

 気性が激しいって……そんな風には全然見えなかったけれど。案外、人は見かけによらないようだ。

「君、案外素質あるのかもね」

 寺本さんが重ねるように言う。その顔が何故か、普段園児たちに向けるものよりもひどく優しく見えて、わたしの心臓は馬鹿みたいにドキリと跳ねてしまった。

 そんなわたしの心情など全く知る素振りもなく、寺本さんは案外すぐに視線をそらすと、長谷川さんとわたしに順番に声を掛け、さっさと他のクラスの見回りに行ってしまった。

 園長先生や長谷川さんの言葉にも、寺本さんの表情にも、もちろん色々と思うことはあった。けれどその思考はすぐに、たやすく断ち切られる。

「先生、みて! クラムボン!」

「わたしもかけたよ、クラムボン!」

 そう次々に、園児たちがわたしのところへやって来たからだ。

 彼らが自慢げに見せてくれる、クラゲのようなものや恐竜みたいなもの、はたまた線の集まりのような意味の分からない物体を次々と目にしながら、わたしは自然と笑みをこぼしていた。

「すごいね、みんな。こんなにいっぱい描いてもらえて、クラムボンもきっと喜んでるよ」

 ね、長谷川先生。

 傍らの長谷川先生に話を振ってみると、彼女も微笑みながら「えぇ、そうね」と同意してくれる。

 その笑みに何か含みのようなものを感じたのは、気のせいだろうか。

 一瞬そんなことを思ったけれど、子供たちに「もういっかいクラムボンよんで!」とせがまれてしまったので、その思考もそこで断ち切られる。

 結局お昼ご飯の時間も含め、子供たちがお昼寝する時間――つまりそれは、学校から送迎バスが来る時間ともいう――になるまでずっと、わたしは園児たちにクラムボン、もとい『やまなし』を繰り返し読み聞かせてあげたのだった。

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