2.保育体験一日目
当然のことだが、中学生七人で幼少クラス、年少クラス、年中クラス、年長クラスの四つに散らばるとなると、誰かは必然的に一人っきりで園児たちに混ざって行かなくてはいけないことになる。
そして、事前に行った公平を期すじゃんけんにて、その一人になってしまった気の毒な人間がこのわたし――
正直、わたしには周りに年下というものがほとんど存在しなかったため、小さな子供と関わることはあまり得意ではない。それなのに、この仕打ちは何たることか。
しかも、だ。
ただ一人の頼みの綱である寺本さんは色々と忙しいらしく、「何か分からないことがあったら、一緒に部屋にいる他の保育士さんに聞いてね」と笑顔で言い残し、自分はさっさと仕事に戻ってしまった。
大した指示も聞かなかったし、それ以上に――保育体験とは何ら関係なく、とても個人的な話だが――確かめたいことだってあったのに、そんな暇さえも寺本さんは与えてくれない。にこにこ笑っていながら、中身はとんだ悪魔じゃないかとわたしは思った。
心細い気持ちで、わたしはこれから担当することになった年中クラス――通称『ゆり組』の、教室のドアを開けた。
空調がしっかりしている部屋の中で思い思いのことをして遊んでいた十五人の園児たちの、邪気を感じさせない澄んだ瞳がいくつも並んで、わたしをまじまじと見つめてくる。
……そんなに、見ないで。いたたまれなくなる。
おどおどとしながらもとにかく笑顔を向け、か細い声で「こんにちは」と声を出し、小さく手を振ってみる。
とたんに、わたしの半分くらいの身長の子供たちが、わらわらとこちらへ群がってきた。
「ね、あたらしい先生?」
「あそぼ、あそぼ」
思ったよりもみんな人懐っこい性格らしく、初対面であるはずのわたしの存在を訝しがることもせず、すんなりと受け入れてくれたらしい。まだまだ人を疑うということを知らない、純真無垢な子供たちのようだ。
群がってきた子供たちのうちの、ひときわ活発そうな男の子が、わたしの手を取った。小さくて柔らかくてぷくぷくとした、暖かなそれは、握りこむだけでも潰れてしまいそうな気がして、ちょっと怖い。
わたしの手を引き、その男の子は言った。
「ね、こっちでブロックあそびしよ」
「えー」
とたんに、傍らにいた別の男の子が不満そうな声を上げる。
「お外で、ボールあそびしようよ。そっちのほうがたのしいよ」
そしたら今度は、細い髪をツインテールにした女の子が割り入ってきた。
「だめよ。それより、ご本よんで。せんせ」
「えー、ブロックあそびがいい」
「ボールあそびだよ!」
「ご本をよんでもらうのー」
突如始まった三人の園児たちの言い合いに、周りもそれぞれ三チームに分かれて加勢する。
「あたし、ブロックあそびがいい」
「おれは、お外がいい。だってそしたら、みんなであそべるもん」
「ご本だって、みんなでいっしょによんでもらえるよ!」
わぁわぁと口々に騒ぎ出すゆり組の園児たちに、わたしはこういう時の対処法を知らないため、どうすればいいかわからなくてオロオロしてしまう。
こういう時に限って、ゆり組担当らしき保育士さんたちは誰もいない。呼びに行こうにも、先ほどの男の子がわたしの手をぎゅっと握りしめて離してくれないため、この部屋から出ることもできない。
「ブロックしたい!」
「お外であそぼうよぉー」
「だめぇ、ご本よんでもらうのぉ!」
そうしている間にも、園児たちの間での言い合いはさらにヒートアップし、中には泣き出す子まで出てくる始末。止める術を知らなくて、途方に暮れていると、不意に落ち着いた声がした。
「どうしたの、みんな?」
とたんに、今まで騒いでいた子供たちの声がピタリと止んだ。きょとんとしたような表情で、彼らはわたしの方に――正確には、わたしの背後に――澄んだガラス玉のような目をいくつも向ける。
わたしの真後ろからひょこりと出てきたのは、失礼ながらも先ほど心の中で悪魔だの何だのと悪態をついていた相手――寺本さんだった。わたしの手を握っていた男の子が、真っ先に声を上げる。
「てらもと先生!」
「んー? ……あれ、ちぃちゃん。どしたの、何で泣いてる?」
泣いている子供をすかさず見つけ、駆け寄った寺本さんは、その子をあやすようによしよしと頭を撫でてあげていた。
泣いているショートカットの女の子は、わたしを指さしながら、嗚咽混じりに寺本さんに事情を話す。周りの子供たちもそれに同調するように、口々に寺本さんに訴えた。
「あのね、そのお姉ちゃんとね、みんなであそぼうってはなしになったんだけど、なにをしてあそぶかでケンカになっちゃったの」
「おれがさいしょに、ブロックあそびしよっていったのに、みんなが反対するから」
「ブロックあそびはいつでもできるし、つまんないよ。それよりも、みんなでお外にでてボールあそびするほうがいいって」
「ボールあそびはこのあいだやって、あやちゃんがケガしちゃったじゃん! それより、中でご本をよんでもらうほうが、あんぜんだよ」
「ご本をよんでもらうのだって、ほかの先生にたのんだら、いつだってしてもらえるじゃん」
みんなの言い分を決して否定することなく、寺本さんは時折うんうん、と相槌をはさみながら話を聞く。
やがて寺本さんがいることの安心感からか、みんなはだんだん落ち着いてきた。それを見計らうように、彼は静かな声で告げる。
「じゃあ、みんなで話し合ってみようか。言い合うだけじゃ何も始まらないし、どんどん遊べる時間が減っていくからね」
うん、と子供たちは揃って頷くと、先ほどよりも幾分落ち着いたトーンで話し合いを始めた。
その声は、だんだんと冷静な、真剣味を帯びたものになってくる。まるで討論を見ているようだ、とわたしは思った。
「やっぱり、お外にでようよ。その方が、いつもとちがうこといっぱいできるでしょ」
「でも、ボールあそびはあぶないよ」
うーん……と、みんなの意見がそこで行き詰まってしまったらしい。何か言おうとわたしが口を開きかけたところで、不意にこれまでとは違う別の女の子の、高い声がした。
「わたしはこないだケガしちゃったけど、べつにボールあそびでもいいよ」
その声の主――おかっぱ頭の小柄な女の子は、群がる子供たちをかき分け、わたしたちの前に出てきた。みんなの注意が自分の方へ向いたのを確かめると、女の子はスカートの裾から覗く、白く細い足を指さし、自信満々に言う。
「足はもう、なおったもん。それに、ボールあそびたのしかったし」
みんなだって、あんなにたのしんでいたじゃない。
ボール遊びが否定される原因となっていた張本人にそう言われてしまっては、さすがの反対派も口をはさむことができないらしい。少しずつざわめきがよみがえって来たかと思うと、他の子供たちは周りと顔を見合わせ、頷きあう。
「たしかに……ボールあそびは、いつもよりずっとたのしかった」
「おれも」
「ぼくも」
「あたしも」
「ぐすっ……わたしも」
どうやら、ボール遊びをすることで話はまとまりそうだった。
寺本さんを見ると、彼はこちらに軽くウインクを送ってきた。その悪戯っぽい仕草に、幼少期に感じたのと同じような――いや、それ以上の心臓の高鳴りを覚える。
寺本さんは何事もなかったように両手を打ち鳴らすと、声高らかにみんなへと声をかけた。
「じゃあ、みんなでボール遊びに決まりだね。そうと決まれば、早速外へ出よう!」
「「「はーい!!」」」
元気のいい返事が返ってくる。気づけば、先ほどまで泣いていた女の子も、いつの間にやら満面の笑みを浮かべていた。
寺本さんを筆頭に、子供たちは次々と外出の用意をする。わたしもずっと手を繋いでいた男の子に「いこっ」と笑顔で手を引かれ、みんなと一緒に外へと向かった。
◆◆◆
外でのボール遊びは、思ったよりも白熱したものとなった。
ゆり組の十五人の園児たちはみんな笑いながら、心から楽しそうにボールを投げ合っていたし、わたし自身も気づけば彼らと『遊んであげている』というより『一緒に遊んでいる』状態になってしまっていたくらいだ。
寺本さんや、途中で戻ってきたゆり組担当の保育士さんも混ざって、昼食の時間ぎりぎりまでわたしたちはボール遊びに興じていた。
そして昼食を終えた園児たちは、現在教室で昼寝をしている。
ボール遊びの疲れが出たのか、各々の布団を敷いたとたん、みんなはまるで倒れこむようにして眠りについてしまった。わたしや保育士さんたちがあやしてあげる必要もほとんどなく、寺本さんやゆり組担当の保育士さんが「こんなにすんなりと寝てくれたのは久しぶりかもしれないですね」と笑っていたくらいだ。
「ふぅ……わたしも、疲れちゃったなぁ」
「お疲れ様」
園児たちが昼寝をしている教室の、布団が敷かれていないスペースに足を投げ出していると、寺本さんが麦茶の入ったグラスを出してくれた。「ありがとうございます」と口にしながら、冷たいそれをありがたく頂く。
寺本さんはにっこり笑うと、わたしの隣にゆっくりと腰を下ろした。
そういえば……と、もう一つお礼を言わなければならないことを思い出したわたしは、微笑ましげに子供たちの寝顔を眺める寺本さんに、小さく声をかけた。
「さっきは、ありがとうございました。子供たちの扱いに慣れていないので、わたしじゃあぁいうケンカをどうやって止めたらいいのかわからなくて……本当に、助かりました」
「大丈夫だよ。慣れていないなら、仕方ないさ」
子供たちから目を離さないまま、まるで気にしていないとでも言うように、寺本さんはあっけらかんと答えた。
「子供って、些細なことでよくケンカになるからね。こういう仕事してると、嫌でも慣れてくるんだよ」
「そうでしょうね」
冗談っぽく肩をすくめる寺本さんに、わたしは小さく笑うことで答える。
それから寺本さんは、わたしの方へ目を向けた。やっぱりそこに笑み以外の表情はなかったけれど、その笑顔は先ほどよりもずっと柔らかで、優しいような気がした。
「楠木晴菜さん……ね」
名乗っていないし、彼がわたしを覚えているという確信すら持てていないのに、彼はどうしてわたしの名前を――しかもフルネームを――知っているのかと、一瞬期待に胸が高鳴った。けれど彼の視線が私の胸元、手作りのルビ付きネームプレートに注がれているのに気付いて、そういうことか……とすぐに納得する。
そんなわたしの複雑な心情を知ってか知らずか、寺本さんはそのまま話を続けた。
「大変でしょ。慣れてないのに、友達もいないところに一人で放り出されて」
「えぇ……まぁ、じゃんけんで決まったことなので、仕方ないです」
小さく答えれば、寺本さんはフッ、と軽く噴き出すように笑う。
「俺も、他の保育士さんも忙しいから、君らの様子をずっとは見ていられないけど……できる限り、サポートするから」
その声と言葉、そして笑顔には、絶対的な信頼感があって、わたしは心から安堵してしまう。
その寺本さんは、どうやら自分の発した言葉に少し照れたらしく、ほんのりと頬を染めていた。その様子が可愛らしくて、思わず笑みをこぼす。それに気づいた寺本さんは、わたしと目を合わせると、恥ずかしそうに笑った。
それからまるで照れを隠すかのように、寺本さんはおもむろに腕時計に目をやる。「もうそろそろ、他のところを見て来なくちゃ」と言い訳めいたことを口にすると、よっこらせ、と立ち上がった。
見送るように視線を送っていると、教室を出ていこうとした彼は一度立ち止まり、振り返る。
「そうだ、せっかくだし一つアドバイスしとくよ」
まるで先輩のような――実際、保育の仕事をしているという上では先輩といっても差し支えないのだが――表情と口ぶりで、寺本さんはこう言った。
「子供たちの話を、しっかり聞いてあげることが大事だよ。その主張がどれだけわかりにくくても、最後まで聞いてあげて。言いたいことは、ちゃんと見えてくるはずだから」
きっとそれが、子供の心を掴むための、保育士としての寺本さんなりの秘訣なのだろう。そういえば初めて会った時から、彼は園児の――わたしの話を、ちゃんと聞いてくれていたような気がする。
だからこそ、その言葉には説得力があった。
その効果を、わたしも知っているから。
心からの信頼を込めた瞳を向け、わたしは力強く答えた。
「はい。肝に銘じておきます」
寺本さんは控えめに笑い、頷く。
それからゆったりとした仕草で踵を返し、寺本さんは今度こそ教室を出て行った。
わたしはぼんやりと子供たちの寝顔を見つめながら、考えに耽っていた。
しばらくして我に返り、壁に掛かっている時計を見る。
寺本さんが出て行ってからもう三十分ほどが経っていて、時刻はそろそろ送迎バスの来る時間を指していた。
わたしは無言のままゆっくりと立ち上がると、未だ昼寝中の子供たちを起こさないように、一つ一つの所作に気を配りながら、静かに教室を出た。
――彼の本質は、何も変わっていないらしかった。初めて会った時から、今でもずっと。
そのことへの安堵と、そして苦手だった子供たちと(少しだけではあるけれど)打ち解けることができたという喜びを心に刻み、わたしの保育体験一日目は幕を閉じることとなった。
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