梨の実が香る頃に
凛
本編
1.幼少期の記憶と突然の再会
生まれて初めて恋愛感情のような、憧れのようなものを誰かに対して抱いた――その時のことを、きっとわたしたちは誰も覚えていない。
女の子は父親に一番初めに恋をするというし、男の子はどうやら幼稚園や保育園の先生に恋をすることが多いようだ(もちろんわたしがこれまでに見聞きした範囲内で、の話だが)。
または、たまたま出会った同世代の異性と『おおきくなったら、結婚しようね』なんていう微笑ましい約束をすることもあるかもしれない。
それらの記憶は普通、成長するごとにどんどん薄まっていき、やがてきれいさっぱり忘れ去られるか、一つの思い出として昇華されていくかのどちらかだ。叶うなんてことは、本当に稀だろう。
けれどわたしは、はっきりと覚えている。忘れたくても、きっと一生忘れることなんてできやしない。
あれがもう何年前のことになるかとか、何月何日の出来事だったとか、そんな正確なことはもうさすがに思い出せないけれど……それでもあの日々は、わたしの中に鮮烈に残っている。
小学校に上がる前、三日間というほんの短い間のことだったけれど、わたしは今でも鮮やかに思い出せる。彼と過ごした日々のことも、あの時確かに感じていた甘酸っぱい気持ちも。
彼がわたしに向けてくれた、あの眩しい笑顔さえも。
◆◆◆
「こんにちは」
みんなでブロックあそびをしているおともだちからはなれて、一人でお絵かきをしてあそんでいたわたしに、そうやって声をかけてきたのは、いつもの先生じゃなかった。うつむいていた顔を上げると、そこにいたのはわたしのぜんぜん知らない人……いちども見たことのない、お兄ちゃんだった。
とつぜん知らない人に話しかけられて、こわくてびくびくしていたら、お兄ちゃんはわたしと目を合わせるようにしてしゃがみこみ、にっこりと笑ってくれた。
「何描いてるの?」
言いながら、お兄ちゃんはわたしが床にひろげていた紙をのぞきこんだ。おぉ、と声を上げると、わたしの絵を指さして、にこにこ顔でわたしの目を見て聞いてくる。
「お魚と、カニさんが二匹いるね。それで、こっちは果物……リンゴ? いや、この色は梨かな。それからこの大きなピンクのお舟みたいなのは、花びらだね」
わたしがかいていた絵をぜんぶ正しく言い当ててくれたことに、わたしはびっくりした。先生だって、正解を言ってくれたことはなかったのに。
「そう」
うれしくて、思わず明るい声で答える。
お兄ちゃんはもっとにっこりして「上手だね」と言ってくれた。それからわたしよりずっと大きくてがっしりした手のひらで、わたしの頭をやさしくなでてくれた。
わたしがかいていたのは、おかあさんによんでもらったお話をイメージした絵だ。なんて名前だったかは、わすれた。けれどカニさんと、ぷかぷか浮いてるフルーツと、キラキラ光る水と、おふねみたいに浮かんでるお花のことだけはちゃんと覚えていた。おかあさんが見せてくれた本の絵が、とってもきれいだったから。
それをお兄ちゃんに言うと、お兄ちゃんはやさしくおしえてくれた。
「それは、『やまなし』っていうんだよ」
「やまなし?」
「そう。宮沢賢治っていう人のお話。……って言っても、難しいかな」
首をかしげるわたしの頭をもういちどなでると、お兄ちゃんはわたしがかいた絵の中の、水に浮いたフルーツを指さした。
「やまなしっていうのはね、これのことだよ」
「これが、やまなし?」
「そう」
「じゃあ、このお花は?」
お兄ちゃんが指さしているとなりの、花びらを指さして聞いてみる。お兄ちゃんはさっきみたいに、やさしい声で答えてくれた。
「これはね、
「カバ? カバって、どうぶつの?」
「違うよ」
ふふ、とおかしそうにお兄ちゃんは笑う。
「動物のカバじゃなくて、椛っていう名前のお花があるんだよ。……そうだ、明日写真を見せてあげる」
「ホント?」
目をキラキラさせるわたしの頭をなでながら、お兄ちゃんはうなずいた。
「おーい、
向こうから、そんな声がした。その時お兄ちゃんはハッとしたような顔になって、おへやの時計を見る。
「あぁ……もうこんな時間か。ごめんね、お兄ちゃんはもう帰らなくちゃ」
ざんねんそうに言って、わたしの頭をなでてくれる。ホントは帰ってほしくなかったし、もっと一緒にいたかったけど、泣きそうなわたしに「明日また会えるよ」ってお兄ちゃんが笑って言ってくれたから、ぐっとガマンした。
立ち上がろうとした時、お兄ちゃんがふと何かを思い出したようにしゃがみ直した。もういちど、わたしの顔をのぞきこんでくる。
「まだ、お名前を聞いてなかったね」
顔が近いことにちょっとだけドキドキしながら、わたしは小さく答えた。
「はるな」
「はるなちゃん、か」
お兄ちゃんはうれしそうにつぶやいた。
「ねぇ、はるなちゃん。明日も、お兄ちゃんと遊んでくれる?」
わたしはすぐに答えた。
「うんっ」
お兄ちゃんはにっこり笑うと、わたしの頭をかるくポンッと叩いてからゆっくり立ち上がった。
おへやを出ていく前にも、お兄ちゃんは笑いながらわたしに小さく手をふってくれた。わたしもブンブンと、力いっぱい手をふり返す。
お兄ちゃんがいなくなって、おかあさんがおむかえに来てくれるまで、とってもたのしい気持ちになっていたわたしは、ずっとにこにこ笑っていた。
次の日、やくそくどおりお兄ちゃんはわたしのところに来てくれた。
お兄ちゃんが来てくれたことがうれしくてはしゃぐわたしを、おひざの上にのせてくれたお兄ちゃんは、持っていたカバンから一枚の写真をとりだし、わたしに見せてくれた。
「ほら、はるなちゃん。これが、昨日言ってた椛の花だよ」
うしろからお兄ちゃんの声がして、わたしは内心ドキドキしながらお兄ちゃんが持ってきてくれたお花の写真を見た。
「おもったより、小さなお花なんだね」
「うん。カニさんから見たらすっごく大きく見えるけど、本当はこんな風に小さな花びらなんだね」
『やまなし』に出てくるカニさんはサワガニって言ってね、大きさはこれくらいなんだよ。
そう言いながら、お兄ちゃんは大きな手のおとうさん指とおかあさん指を使って、何かをつまむような形を作ってみせる。ふり向いて、お兄ちゃんの顔を見ながら「こんなに小さいの?」と聞いてみると、お兄ちゃんは笑顔でうなずいた。
「そうだよ。ホントは、こんなに小さいんだ」
「やまなしも?」
「うん。やまなしもね、はるなちゃんが思ってるよりずっと小さいんだよ」
わたしがお話を読んで思いえがいていた世界が、ずっと小さいものだったことを知って、わたしはびっくりした。
「すごい」とわたしが目をキラキラさせると、お兄ちゃんは笑顔のまま「近くの公園にね、大きな梨の木があるんだ。本物は、秋になったらそこで見られるよ」ともおしえてくれた。
この日は、お兄ちゃんがほかにもわたしの知らなかったことをいっぱいおしえてくれて、とっても楽しい一日になった。
お兄ちゃんがいなくなってからも、それまでお兄ちゃんがおひざにのせてくれていた時のように、体がぽかぽかとあったかかった。
何でかわかんなかったけど、おむねもすごくあったかかった。
その次の日は、お兄ちゃんが『やまなし』の絵本を持ってきてくれた。昨日と同じようにわたしをおひざの上にのせると、そのままおかあさんみたいにやさしい声で読んでくれる。
『クラムボンは、かぷかぷ笑ったよ』というところが何回聞いてもとってもおもしろくて、読みおわってからもずっと、お兄ちゃんといっしょにその部分だけをくりかえし口にした。
楽しいひとときだった。お兄ちゃんといっしょに、ずっとこうしていられればいいのにと思うほど。
けれど……。
その日、お兄ちゃんが帰らなければいけなくなったとき。
「あしたも来てくれる?」って聞いてみたら、お兄ちゃんはふと困ったように笑った。それから何度もしてくれたのと同じように、わたしの頭をやさしくなでると、かなしそうな声でこう言った。
「今日で、はるなちゃんとはお別れなんだ」
思わず、えっ、と声にならない声をもらす。お兄ちゃんはもういちど笑うと、「またいつか、きっと会いに来るよ」と言った。
「ホント?」
「ホント。約束だからね、はるなちゃん」
「うん」
「寺本、集合時間もうすぐだぞ」
「あぁ、今行く」
お兄ちゃんと同じかっこうをした、べつのお兄ちゃんにそう声をかけられたお兄ちゃんは、最後にもういちど「またね」とわたしに手をふって……それからすぐに、引き止める間もなく、おへやから出て行ってしまった。
お兄ちゃんがいなくなってしまったおへやの入り口を、わたしはしばらくぼんやりと見つめていた。
そうしたらわたしは、知らないうちに泣いていたみたいで、そんなわたしに気付いた先生があわてたようにかけよってきて、わたしにハンカチをわたしてくれる。そっと背中をさすられ、「どうしたの、はるなちゃん?」と聞かれるのにも、わたしは答えることができなかった。
次の日、お兄ちゃんは来なかった。
その次の日も、そのまた次の日も、ずっと。
わたしはお兄ちゃんが『また会いに来る』って言ってくれたのを信じて、毎日やまなしの絵をかきながら、お兄ちゃんが来るのを待った。けれど、どれだけ待ってもお兄ちゃんは来ないまま、からっぽで楽しくない毎日はどんどんすぎていく。
そして気付けば、わたしは保育園を出て、小学校へと上がることになっていた。
――それから、お兄ちゃんには一度も会えていない。
会ったらきっと分かるだろうけれど、探し出すには情報が足りないから、探すことさえもできない。
ただ、覚えているのは……太陽のように明るくて眩しくて、優しくてあったかかったあの笑顔と、他の人に『てらもと』と呼ばれていたことだけ。
幼い頃の思い出なのだから、もういい加減忘れていたっておかしくないはずだ。現に、これ以外の記憶はほとんどないのだから。
なのに……どうして、忘れられないのか。
どうして今でも、あの日々のことを思い出すたびに、甘く胸を締め付けられるのか。
どうして『やまなし』とか『てらもと』とか、『かばの花』とか……あの時聞いたワードを耳にするたびに、わたしは心躍ってしまうのか。
成長して、色々なことを理解できるようになって……それで初めて、あの時感じていた気持ちに気付く。
きっとそれが、わたしの初恋だったのだと。
そしてわたしは今でも、その初恋を引きずっているのだと。
◆◆◆
「じゃあ、行ってらっしゃい。頑張ってね」
担任である女教師の言葉を背中に受けながら、わたしは数人の同級生と一緒にバスを降りた。他のみんながまっすぐに入口へと向かう中、少しだけ立ち止まって、門の横に設置されている看板を見る。
『
卒園してからもう何年もの月日が経っていたけれど、この場所は記憶にあるものとほとんど変わらない。変わったと言えば、施設全体が少しばかり古くなったかもしれないというくらいだろうか。
ここで確かにあった、あの日々のことを想うと、胸が甘く締め付けられる。
そう。『てらもと』というお兄ちゃんと出会って、一緒に絵を描いたり本を読んだりして遊んだ、あの――……。
「
「あっ……ごめん、今行くね」
先に入っていた女の子にそう呼ばれたわたしは、慌てて止めていた足を動かす。そうして、みんなと同じように建物の――かつて通っていた、山ヶ岳保育園の中へと入った。
今日から三日間、わたしたちは保育体験をする。
保育体験とは、わたしの通う学校をはじめとした各中学校で毎年行われている授業の一つである。いくら保育の道に進みたいわけじゃなくても、子供が嫌いでも、これは強制だから(風邪でも引いて欠席しない限りは)必ず行かなくてはいけない。
簡単に言えば、地域の保育所や幼稚園と呼ばれる場所を三年生が何人かずつで訪ね、保育士の真似事をやらせてもらうというものだ。決して園児の真似事をしに行くわけではないので、その部分にだけは誤解のないよう注意してもらいたい。
訪ねるのは基本、自分がかつてお世話になった場所となる。つまり、わたしがここ――むろん、かつて通っていたこの山ヶ岳保育園のことだ――に来ることになったのも、いわば必然のようなものだった。
担当の保育士さんを待つ間、同級生たちは忙しなく辺りを見回し「あそこ、変わったね」とか「あー、見てアレ! 懐かしい」とか、そういうことを口々に言っていた。
そんな中で一人、わたしはぼんやりとマイペースに周りを見る。
園内の配置はほとんど変わっていなかったけれど、わたしがいたころはまだ生まれていなかったであろうタイプの新しいおもちゃがあったり、あの時よりずっと綺麗になった備品があったりして、確かに何年もの時が経ったのだと思い知らされる。
ふと、期待にも似た感情が胸をよぎる。
当たり前だけど、あの日彼と会ったのもこの場所だ。
だったら……ここに来ている今、もしかしたらまた彼と会えるんじゃないだろうか?
でも……と、わたしはすぐにその考えを打ち消した。
今考えれば、『てらもと』というあのお兄ちゃんも、当時こうやってわたしたちみたいに保育体験に来ていた中学生の一人だったのかもしれない。だってほんの短い間しかここにいなかったし、そういえばわたしたちが今着ているような、半袖短パンの簡素な体操服姿だったような気がする。
だったら……会えるわけ、ないよね。
保育体験に来たからって、保育士の道へ進むわけじゃない。だってこれは、進路を決めるための職場体験でもなんでもないのだから。
『またいつか、きっと会いに来るよ』
『ホント?』
『ホント。約束だからね、はるなちゃん』
あの日、お兄ちゃんと最後に交わした会話を思い出す。
「あの約束は、一体いつ果たされるのかなぁ……」
ほぼ吐息に近い声で、わたしは人知れず呟く。
その時だった。
「すみません、遅くなりました。
不意に向こうの方から、慌てたような男の人の声がした。どこかで聞き覚えがあるような気がして、わたしはふと首をかしげる。
パタパタとスリッパの音をフローリングに響かせ、出てきたのはエプロン姿の男性。きっと、担当をしてくれるという保育士の人なのだろう。
「こんにちは、初めまして。保育体験に参りました、青葉第一中学校の三年生七人です。これから三日間、お世話になります」
わたしたちの代表を担う男子生徒が、立ち上がってそんなことを口にしている。それに合わせて慌てて立ち上がり、わたしは他の人たちと一緒に「よろしくお願いします」と一礼する。
顔を上げ、その人の顔をはっきりと目に写し……わたしは、思わず固まってしまった。
その人は、遠い記憶にあるあどけない顔立ちとは違って、姿も仕草もずっと大人っぽくなっていた。けれど……間違いない。間違えようもない。
明るく笑って、わたしたちの前に立っている、この男の人は……。
「初めまして。今回君たちと一緒に働きます、山ヶ岳保育園の寺本
遠い記憶にあるのと同じように、朗らかに彼は――寺本さんは、笑った。
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