第8話
「お待たせ。さ、出発するか」
際限ないグラデーションの続く空の下、まだ多少靄の残る朝の草原に三人は集まっていた。早朝の寒気もいくらか和らぎ、働き始めた太陽が優しく体に熱を残している。草木に朝露が滴となって垂れ下がっているが、湿度はさほど高くなく、心地よい風がめいめいの頬を撫でていた。
「取って来るものってそれの事だったの」
「部屋ン中に放り投げてて、誰かが触っちまったら面倒だからな。出来るだけ俺の目の届くところに置いておきたいと思ってよ」
「いやー、周りに何も無いせいか空気が綺麗だな。いやはや絶景絶景」
「はいはい。こっちは待っててやってるんだから早くしなさい。置いてくからね」
「それは待つのをやめる前に行ってほしかったな」
門の前で景色を眺めながら、動こうとしない龍人をおいて、さっさと歩き出すフィニアと執事。龍人は自分が置いてけぼりを食らっていることに気付くと、小走りになって二人の後を追いかけた。
余りに広すぎる屋敷の庭には、これまた庭の中にあるとは思え得ない太い道路が幾つも敷かれていた。道路とは言っても、アスファルトで固められた無機質な灰色の線では無く、人がよく使う場所に滑らかなレンガを敷き詰めた、とても風情のあるものだった。
勿論そんな道に、夜になると自動で明かりがつく様な便利な街灯があるわけも無い。彼らには魔法というスキルがある以上、そんなものに頼らなくとも夜道を歩くことができるのであろう。この世界の星空が那由多に幻想的なのは、そういう理由も多いはずだ。
龍人は自分の世界に、もし魔法があったとしたら、この世界と同じような風景が見れたのだろうかと、夢想の世界に思いを馳せる。だが、よく考えてみればそれは考える意味の無いことにすぐ気づく。例え魔法という不思議な力がなかろうが、この風景をいつまでも守りたいと真摯に願ってさえいれば、世界があそこまで冷たく浸食されることは無かっただろう。
龍人は二人に追いつくと、
「――――てか、ここまで来て今更感が半端じゃないけどよ、徒歩以外に街に行く方法は無かったのか? お前ら一応貴族だろ」
「何を言っているのですか龍人様。今日は絶好のピクニック日和です。若者が歩かないでどうしようというのですか」
「またじいのお説教が始まった………」
フィニアは半眼で執事から目を逸らすと、龍人の方を向く。
「家から街まではさして距離は無いから、わざわざ移動用具を使うことも無いの。十分も歩けば着くからシャキッとなさい」
龍人はげんなりした様子で、道の先を見据える。
地平線の臨める広大な土地には、遠くの方に小さく街らしきものが見えている以外に、人工物は背後の屋敷しか見当たらない。屋敷の後方は昨日歩いた大きな樹海になっていて、反対側は途轍もなく広い平原になっている。平原を抜けた遥か遠くの方には、猛々しい山が一つ、薄っすらと覗いているのが見える。どれだけ首を上に傾けても見えない山の頂上付近には、ドーナツ状に雲が渦巻いていた。
何処を見ても人の気配が感じられない、そこはかとなく寂しいその景色は、大海で難破した船の気持ちを思わせた。
「別に体力的には何一つ問題ないんだけどよ。伊達に十数年師匠の扱き受けてたしてた訳じゃねぇし。ただ、魔法の世界となると、やっぱり空飛ぶ箒とか期待しちゃうじゃん」
「空飛ぶ箒は駄目。あれ手順が多くて、準備するだけでも日が暮れるから。現実的なところをいくとしたら、肉体強化辺りが妥当なんだろうけど、それにしたって結局自分の足で歩くことは変わりないから」
「やっぱ、魔法とか言っても出来る事に限りはあるのな………だったら、貴族らしく馬車なんか使えばいいんじゃ?」
「それでは荷物が増えるだけではありませんか。御者の方へいらぬ労力もかけてしまいますし。それならば、歩いた方が幾つも得という物ですよ」
龍人は二人の会話を目を丸くして聞く。
「へぇ。なんか俺が抱いてた貴族像とはちょっと違うな。俺の世界では貴族は常に自己中心的で平民の事なんて虫以下にしか思っていないみたいなとこあるんだけど」
フィニアはそれを聞くと、ふんと鼻を鳴らして不満を露わにする。
退屈そうな顔を一変させると、指をピンと立てて、
「アンタは私たちの事を何だと思っているの? これから私が教授してあげるからしっかり聞きなさい」
――――フィニア曰く、
この世界での貴族とは、ただ単に王族の血が混ざっているだとかで、特別位が高い人間を指す言葉ではない。
遥か昔、この世界で大きな戦乱があった。当時一帯を治めていた王族が途絶え、その座を巡る覇権争いが、王族に近しい権力者たちの間で起きたのだ。権力者たちは民の事など置き去りにして、各々の目的のためだけに争い合う。血を血で塗りなおすような、醜い争いの中で、民たちは限界まで追い詰められていく。混乱と暴力の渦巻く時代は、それから長く続いた。
――――そんな最中に現れたのが今の貴族たちの祖先である。
特出した戦闘能力を持った彼らは、腐敗した権力者たちをねじ伏せ、くだらない政権争いを瞬く間に終結させる。その後彼らは、民を中心に置いた新しい政治システムを確立し、それを見守るように世界各地へと散っていった。中心となる都市には彼らのリーダーであった人物を置き、民たちの政治を補佐する役目を負わせて。
「そうして民たちを支え続けた彼らは、いつしか尊敬の念を込めて『貴族』と呼ばれるようになったの。中でも中心都市に残った一派は『王族』と呼ばれた。本人は余りその名を喜んではいなかったみたいなんだけど」
「つまりこの世界でいう貴族ってのは、民を守る騎士みたいなものって事か。なかなか面白い歴史があるんだな。こっちの世界と似ているようで、似てないな」
フィニアは話し終えると、自慢げに胸を張る。
その小さい体からは、祖先が残した偉業は欠片も見えないが、彼女が自分の祖先の事をとても誇りに思っているのは良く伝わった。
龍人は頭を掻くと申し訳なさそうに、
「それにしてもすまんな。あんまりこっちの世界の事知らないのに、勝手なこと言っちまってよ」
「そんなこと全然。私だってアンタに迷惑かけてるんだし、知らないのに注意しろなんてこと自体おかしいもん」
フィニアは気まずそうに目を落とす。話をする前まで、感情の起伏が激しい彼女にしては大分静かだったが、今は細かな感情がはっきりと行動に現れている。
――――龍人は、道を振り返る振りをして、二人から見えないように口先で笑った。
「ていうか、そんなに凄い奴らの血を継いでるんだったら、テレポートの一つぐらいさせてくれよ」
「無茶言わないで。空間転移なんて世界の中でも数人しか使えない超難度の魔法だから出来っこないし」
「何だ、お前はやっぱ使えない奴なのか」
「地味にダブルミーニングで愚弄するのはやめて欲しいんですけど………」
龍人は残念そうにしながらも、フィニアと掛け合いをして笑う。なんだかんだ言っても、自分を囲む雄大な景勝には興味があるらしく、フードの下で目を忙しなく動かしている。いつの間にか、背後に見えていた屋敷は地平線の向こうに消え、代わりに反対側から街らしき家々の屋根が昇って来た。
そんなもの見慣れている二人は、退屈そうに前だけ見て歩き続けているが、龍人からは目新しいものを発見するたびに、「ほう」と感嘆の声が上がった。
「なぁ、朝から気になってたんだが、あの宙に浮いてるデケェ陸地は何なんだ? あれも魔法のパワーで浮いてるのか?」
続いて龍人は、昨日から気になっていた『あれ』についての質問をする。『あれ』とは当たり前のようにそこにある、巨大な大陸らしきもののことだ。
角度的な問題で下側からは、全く上の様子が掴めない。高度は昨日龍人が自由落下した時よりもなお高く、それ故に巨大であっても、大して日光を遮って邪魔だという感覚はない。具体的な大きさについては、それほどの高さにあるのに、地上から姿を確認できるという時点で、どれ程大きいのかは察せるだろう。
「あれは『リリース・オブ・コンティネント』って呼ばれてる謎の場所。何でも相当古い時代から浮いてるらしいけど、強力な結解が張ってあって、だれも立ち入りが出来ないらしいね。学者が言うには、何らかの大きい力が周りを纏っているせいで浮いているらしいんだけど、全部憶測の域を出ないらしいね」
フィニアは観光案内をするガイドのように、すらすらと喋る。
「へぇ、あの上から地上を眺めたらそりゃ壮観だろうな………。ああいう所に住んでみたいもんだ」
龍人は右手を伸ばして、遠くに浮かぶ大陸を掴み取るように、掌を閉じる。それは、天に向かって祈りを捧げる姿を思わせる。今そこに天啓が見えかけているのに、どれだけ手を伸ばしても届かない聖人のようだった。
――――しかし、その手はすぐに解かれ、伸ばした手も元の高さに下ろされる。
「だけど、あの遠くの場所に行く前に、やらんといけない事は山積みだ」
龍人は抜けるような青空へ、独り言のように呟く。口元には微笑を携え、決して何かが可笑しい訳ではなさそうだが、心底楽しそうに見えた。
らしくない儚げな眼差しを見せる龍人へフィニアは、
「アンタなら本当に出来るかもしれないから恐ろしいよね………精々頑張りなさいな」
「そのためにも、まずは手元の問題から何とかしていきますか。忙しい毎日になりそうだ」
龍人は面倒そうに、しかしあくまでワクワクしているのを隠せないといった表情をしている。
そんな二人へ、横から執事が声を掛ける。
「街の門が見えてきました。もう少しで到着ですよ」
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