第7話

 目に入った景色が、自分の部屋の物でない事を確認すると、龍人は欠伸を噛み殺してベッドを降りた。黎明の陽は昇って間もなく、覚醒しきらない顔へ、窓越しにうららかな光を投げかけている。

 窓から覗く雄大な自然は、灰色の街に生きていた龍人には、目に沁みるほどだった。

 風に靡く草原は、全体が薄い紫色に染まり、まるで朝焼けの海がさざめいているようである。時折戦ぐ風が、龍人をそちらへ誘うかのように窓をノックしていた。

 上へ目を向けてみると、鳥にしては余りにデカすぎる、空飛ぶ鯨に似た生物が、悠々と空を舞っていた。更にその先。霞が立つほどに高い雲のまだ上に、何やら巨大な陸地のようなものが浮いているのが見える。異世界の圧巻とされる光景に、龍人は思わず息をついた。

 昨日は時間帯が時間帯なだけに、さほど感じる事が無かったが、朝になってみるとハッキリ分かる。


 ――――ここは住み慣れた故郷では無いのだと。


「夢じゃなかったのか………」

 龍人は眩しそうに目を細めると、緩やかに体を震わせ始めた。クックックッっという小刻みな声は、時が経つにつれより大きな笑いへと変化する。自暴自棄になっている訳では無く、あくまで楽し気に腹から笑いが込み上げる。

 余りにも〝普通の高校生〟からかけ離れた少年はこの瞬間、非日常を夢見る一人の子供となって、一時の喜びに浸っていた。

 一頻り部屋に笑声を響かせた後、図ったように寝室をノックする音が聞こえて来た。

「龍人様。お目覚めでしょうか。朝食といたしますのでお着替えが済みましたら、部屋から出て来て下さい」

「はいはい。今行きますよっと」

 龍人は借りていた寝間着を脱ぐと、いつものパーカーとズボンに着替える。これからもこの一着だけで通すわけにはいかないだろうから、そのうち服屋を紹介してもらわないとな、などと思いつつ扉を開ける。

 外では執事が微動だにせずに立って待っていた。

「おはようございます、龍人様。朝早くにすいませんが、今日は伝えなければならない事も多いので、早めの朝食をと思いまして」

「お気遣いありがとよ。とは言っても、ちっと早すぎるような気もするけどな」

 廊下に敷かれたモフモフ絨毯の感触を確かめながら、龍人は答える。

 太陽(?)は既に顔を出しているものの、空気は未だ肌寒い。こんな時間から起きているのは、定年退職を迎えたご老人ぐらいだろう。

 執事の先導に従いながら、龍人はふと思う。

「なぁ。こっちの世界にも定年退職とかあんのか?」

「はい? 質問の意味が理解できかねますが………、その聞き方からするに、龍人様の世界での常識なのでしょうか?」

「おうよ。――――というか、やっぱり両方の世界で全てのものが共通している訳では無さそうだな。それが分かったところでって感じだけど」

 龍人は、お手上げといった表情で手を肩の高さまで上げて首を振る。ベットの中で、この世界と故郷の世界の関係性について様々な憶測を立ててみたものの、どうもこの謎は解けそうにないのだった。

 よくよく考えてみれば、この世界と龍人の世界では時間の概念や、宝石の価値などもひどく似通っている。科学と魔術、二つの相容れない要素を基礎に持つそれぞれの世界で、ほぼ同一の価値観や倫理観が成立しているというのは奇妙な話だ。

 龍人は納得いかなそうに頭を搔く。

「それは後々に再考してみるしかないんだろうな。今は情報を集める方が先決だろうな」

 無駄に長い廊下の突き当りまで歩き、正面にある両開きの扉の前で立ち止まる。

 執事は、四回ノックをすると扉を開けた。

 部屋の中は予想よりもずっと広く、全体的に明るい色調で統一されている。滑らかで一切の歪みがない床に、上質なマホガニー製の長テーブル。壁に設置された絵画は、鑑定眼を持ち合わせていない人間にも、相当な値打ちがあると容易く理解出来るだろう。東の方角に設置されたステンドガラスからは五色の光が差し込み、未だ仄暗い部屋の中へ幾許かの温かさを齎している。

 闇を裂く光の道を辿った先には、一人の少女が座っていた。テーブルに伏した頭から伸びる美しい長髪に、鮮やかな光が反射する様は、さながら絵画のワンシーンのようである。

「お嬢もう起きてたのか。早起きは三文の徳って言うし、別に悪いこたねぇけど」

 フィニアは昨日の襤褸とは違って、立派なシルクの西洋服に身を包んでいる。こうして正装をしていると、お嬢様という言葉が良く似合っている。

「ぉはよ。上流階級の者として早起きをするのは当たり前の事だから………」

 フィニアは龍人を眇めると、大口を開けて欠伸をする。その仕草は可愛らしくはあったが、絵画的な情景はお陰で台無しになる。口ではああ言っているが、実際早起きは得意ではないのかもしれない(余りに時間が早すぎるためかもしれない)。

 龍人はフィニアの隣の椅子へ腰かけると、皿の上に積まれたパンの山から、一つ手に取る。

「この独特な形状はクロワッサンか………。ホント訳分かんねぇ」

「ちょっと、私のパンを勝手に食べないでくれる? 居候の身で、主の大事な食料を強奪するなんて烏滸がましいんじゃないかしら?」

「そんな固いこと言うなよ。こんなにたくさんあるんだkモグモグ」

「――――って言った傍から何してくれてるの!?」

 フィニアは美味しそうにクロワッサンを頬張る龍人から、パンの入ったバケットを遠ざける。

 安全地帯までパンを避難させると、恨めし気な目つきで、

「私の大事な大事なパンが………。この恨み、はらさでおくべきか………」

「恨みとか超和風な言葉使うなよ。洋風な雰囲気台無しじゃねぇか」

「まぁまぁ。良いではありませんかお嬢様。たまには誰かと食事をとるというのも楽しいものですぞ」

 一連のやり取りを目を細めて見ていた執事は、柔らかに仲裁に入る。

 フィニアは、しばらくウゥーと唸っていたが、遠ざけたバケットを元の位置に戻した。ただし目は変わらず龍人の方を向いていた。睨むというよりも哀願するような目に、龍人はパンに手を出すのを憚ってしまう。

「いや、そんな可哀そうな瞳で見つめられると食べづらいんだが。いいよ、そんなに嫌なら食わねぇから」

「じいがああ言ってるし食べていいよ、グスン」

 フィニアは言葉であからさまな泣き真似をすると、パンを一つ押し付けるように龍人に渡す。

 とても食べずらい状況だったが、貰ったものを押し返すわけにもいかないので、龍人は香ばしい香りのそれに口をつける。

 一口目を、フィニアにじっと見つめられながら飲み下すと龍人は、

「うん。美味いんじゃないか。外側はサクサクで丁度いいし、中に入ってるジャム? も

美味しい。正直俺の世界のパンよりもレベルは高い。ただ朝から食べるにはちょっと甘すぎるけど」

「そりゃ私が好んで食べる物に外れが有るはずないもんね。ちなみにその中に入ってるジャムも私が好きなドルチェベリーを使ってるから美味しくない訳ないもん。さっすが私ね。あとあと、パンに使っている小麦の方も色々工夫されててね――――」

 龍人から高評価を受け取ると、フィニアの顔がパッと華やぐ。さっきまでの意気消沈してた彼女は何処へやら、まるですべて自分で作ったかのように、フィニアは捲し立てる。

 どうやら彼女の朝寝ぼけタイムは何処かに消し飛んで、代わりに終わらないお喋りタイムがやって来たらしい。他人が聞いていようがなかろうが口を開き続けるフィニアに、龍人は「お前はえさを求める雛鳥か」とツッコミを入れたくなる。

 放っておいたらウロボロスの如く喋り続けていそうなフィニアは放っておいて、龍人はひそひそと執事へ問いかける。

「お嬢に昨日の事話したのか?」

「いえ、お嬢様に変な気を使わせてしまっては意味が無いですから。ボディーガードの剣はあくまで内密にお願いします」

 執事は緩めていた顔に真剣さを差して答える。

 昨日の話し合いの限りでは、龍人はフィニアのボディーガードをするという事で落ち着いていた。龍人としては、執事の言葉回しから察するに、何か裏があるのだろうという事は承知していたので、これくらい予想の範疇はんちゅうであり、特に驚くようなことでは無かった。

 ただ、仕事をする上でその辺の情報があった方がやりやすいというのはあったので、できれば話して欲しかったのだが、それを話してもらうにはまだ信頼が足りないようだ。

 龍人は静かに首肯を返すと、執事から離れた。

「――――であるからにして、私はコロネを太い方から食べるのは間違っていると提唱するんだけど、どう思う!」

「すまん。最初の十秒以降全く話聞いて無かった」

 龍人の冷たい一言に、熱く語っていたフィニアの心は一瞬で固まった。龍人はその隙にクリームパンをバケットから掠め取る。

 数秒してようやく復活したフィニアは、紅茶をゴクゴク飲み干すと、乱暴にカップを執事に向かって投げた。

「もう一杯頂戴。私の心を深く凍らせたアイツの冷たさを融かせるのはきっとこの温かい紅茶だけだわ………、あ、だったら本人に直接飲ませた方効果高いじゃん。じい、この万年氷男に紅茶を一杯あげて」

「自演が少々過ぎやしませんかねぇ。勝手に喋って、勝手に傷心して、勝手に悪役押し付けられたようにしか思えないんですが。――――紅茶は貰っとくけどな」

 執事は投げられたカップの取っ手を器用に掴むと、何処からかもう一つのカップを取り出す。慣れた手つきで紅茶を注ぐと、静かに二人の前へ紅茶を置いた。勿論運ぶときは液面に波一つ立てることはない。

「じい、ありがとう」

 フィニアは陶器の入れ物から、当然の如く角砂糖を鷲掴みにすると、ドバっと紅茶の中へ投入した。

「ちょっ、お嬢。今お前幾つ砂糖入れた?」

「へ? 七つぐらいかな………。だって紅茶ってそのまま飲んだら苦いじゃん」

「嘘だろ………、それ砂糖そのまま食うのと殆ど変わらねぇだろ。お前は蟻か」

 胃もたれしそうな甘々の紅茶を、美味しそうに啜るフィニアを横目に、龍人は何も入れていないストレートの紅茶を飲む。すかさず鼻腔は、世界を跨いでも変わらない芳醇な香りで満たされた。龍人は再び納得のいかない顔をしながらもチビチビと飲み進める。

 暫く紅茶を味わっていた龍人は、首を傾げて、

「なぁ、これ何の茶葉を使ってるんだ?」

「ケニアです。お嬢様が色々な茶葉を試してみた結果、これが一番お気に召したようなので」

「こんな飲み方する奴に味が分かるとは到底思えないんだが………」

「砂糖くらいでなに? 本当の舌はそれくらいの事に翻弄されたりはしないの。私が持つ神の舌はあれぐらい甘いのがベストだと告げてるのよ」

「それって、ただのわがままじゃないですかねー」

 またもや謎論理を展開し始めたフィニアへ、限界まで間延びした棒読みで返す。

 龍人は呆れ顔を上に向けると、明度を増した日光へ手を翳した。いつの間にやら早朝のピリリとした空気は消え去り、反比例して部屋の様子がはっきりとしてきている。

 龍人のいつもの生活では、そろそろ起床時間に当たる時間帯だ。勉強の義務を捨ててだらだらするのはなかなかいい気分だった。とはいいつつも、これから夏休みに入ろうかという時期に、いきなり喚起を食らい、予定してあった数少ない行動が何も出来ないとなると、なんだか肩透かしを食らった気分になっていたが。

  と、執事の咳払いによって、龍人の物思いは中断される。

「お楽しみ中、申し訳ありませんが、今日は龍人様にこちらでの生活の事を学んで頂きたいので、そろそろ用意を始めては貰えないでしょうか」

「そういえばさっきそんなことも言ってたな。具体的に何をするんだ?」

 龍人はカップを置くと、パンをもう一つ手に取った。その間フィニアから黒い視線を向けられるも、完全に無視して食べ進める。

「実は、一週間後にお嬢様が出席する舞踏会のために、新しいドレスを見繕うと思っていたのです。それで今日は街の方へ出向くことになっていたのですが、丁度良いので今日一日街を散策しようかと思っております。どうでしょうか?」

「ほう。街っていうと、落下中に見えてたあれの事か。なかなか面白そうだし俺は賛成。どちらにせよ、新しい服買いたかったところだしな」

 龍人はパーカーの袖をヒラヒラさせて答える。昨日までは買ったばかりで綺麗だったはずのパーカーだが、今は刀傷やら、砂埃やらによって、ボロボロになっている。

 新手のダメージパーカーだと思えばあたさわりは無いのかもしれないが、なんせ綻びが酷いため、動くときに違和感があってかなり動きずらかった。

 龍人が行く気満々なのに対し、フィニアは一人どこか曇った表情をしている。

「それはいいんだけど………私と一緒に行動するっていうのはどうなのか………」

 フィニアはもごもごと話すし続ける。指は無意識のうちに髪をクルクルと弄っていて、何やら苛々しているのが伺える。

 そんなフィニアの葛藤を押し切るように、龍人は有無を言わさぬ笑顔で、

「俺は別に構わんけどな。案内人は多い方が良いし、なっ」

 フィニアは何か言い返そうと口を開くが、いい言葉が見つからなかったのか閉口した。龍人は全て見越していたように笑みを湛えて、まだ迷いを切りきれないフィニアの顔を見ている。

 執事は場が一つに決まったことを確認すると、

「それでは早速出発と行きましょうか、出発の用意は既に済んでいますので、二人が何か問題なければ、このまま外に出ようかと思うのですが」

「――――分かった」

「用意周到なのは助かるが、ちょっと待っててくれ。部屋に取りに行かないとならんブツがある。すぐ追いつくから、お嬢さえ良ければ先に外で待っててくれていいぜ」

 龍人はまだ残っていた紅茶を飲み干すと、勢いよく立ち上がる。そして、扉まで歩くと片手で押し開けて出て行った。


 ――――後には重い扉が立てた鈍い音と、それを黙って見送る二人が残された。

 がらんとした部屋は、たちまち静まり返る。それはつい数秒前まで話し声が飛び交っていた場所とは思えない。

「――――どうしてアイツを巻き込んだの?」

 部屋に響く閉扉の残響が消え去ると、フィニアが重い口を開く。体は扉の方を向いているが、それは誰かを待っているようには思えない。ただ、虚空に見せる顔はとても寂しげに見えた。

 執事もフィニアと同じように扉を見つめる。だが、その目つきは鋭く、フィニアにはない輝きが宿っている。

「………何故でしょうな。私には彼が誰かに似ている様に思えるのですよ。本質は違えどその見せ方がです」

 執事は少しの間を置くとフィニアの方を向いて、

「そうは思いませんか?」

「――――……勝手にすれば」

 フィニアは冷めた口調で突き放す。十代の少女らしからぬ諦観に満ちた声は、たちまち空中で霧散した。

 フィニアはゆっくり立ち上がると、重い足取りで扉まで歩を進める。歩みと共に揺れる小さな肩は、大きな重石の重圧に耐えている様に沈んでいる。

 ――――しかし、本人は気付いていないのだろう。縋るような瞳の端に僅かの希望が宿っていたことを。

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