110.少女、自覚する。
そこまで言いかけた少年は、ベッドの上で上半身裸の男と目が合いピタリと静止する。一瞬呆けた後、状況を理解したのか見る間に顔が赤くなっていく。元の色が白いせいか余計にわかりやすい。
「なっ、なななな何を」
一方、布団の下で息を止めていた少女は二重の意味で心臓が爆発しそうだった。
(む、むり、あたま、おかしくなる)
触れるか触れないか、目の前の身体から伝わってくる情報すべてが五感を刺激してしまう。匂い、体温、いやそれだけでは言い表せない何かが視界をぐらつかせた。
機転のきく師匠のことだから何か考えがあってのことなのだろうが、それにしても心臓に悪すぎる。
ニチカは口に手をあてて必死に平常を保とうとした。だがすぐ上から響く低い声が鼓膜を震わせる。
「……何か用か」
「っの、ですね、失礼ですが部屋を検めさせて――」
「その必要はない」
本気だ。いつにも増して色気が半端ではない。
普段の気だるげな表情さえ物憂げに映る。
今この場で、オズワルドは空気を完全に支配していた。
「あっ!?」
するりとわき腹を撫でられ甲高い声が出る。手はそのまま上へと移動し、きわどいところをなぞるように描く。
「やっ…… ぁ、ぁっ……」
どう聞いても色を含んだ声が自分の口から出ていることが信じられず、その事がさらに気持ちの昂ぶりに拍車をかけていた。
「~~~っ! っ、」
「心配しなくともコイツはここに居る。分かったらさっさと出て行ってくれないか、これ以上野暮な事を聞くな」
「っ、わかりましたよ。どうぞごゆっくりっ!」
憤慨した様子の吹雪は、足音も荒く出て行った。
きつめに閉められたドアに外側からガチャリと錠が下ろされる。
それを確かめたオズワルドは小さく息をつき胸をなでおろした。なんとか切り抜けられたようだ。
「急げ。今戻れば、まだ誤魔化せるかも――」
そこでようやく腕の中を確認したオズワルドは動きを止める。
「…………」
欲に浮かされた少女が、どうにもならない熱を持て余していた。
わずかに傾けた首すじから髪がさらりと流れ、うなじからはだけた肩にかけてが顕わになる。
こみ上げる熱は瞳を濡らし、枕に押し付けた頭がサリと音を立て、かすかに震えるまつげは涙で滲んでいた。
はぁ、と熱い吐息がみずみずしい唇からはき出される。それを耳にした瞬間、男は経験したことのない感情に貫かれた。
「っ……その、なんだ」
口元を手で隠し、視線を逸らす。わずかに覗く彼の頬は朱に染められていた。
互いに黙りこくり、指先一つ動かせなくなる。
少しでも動けば、取り返しのつかないことになりそうで
(いい加減にどいてよヘンタイ! ――ダメ、言っちゃダメ!)
恥ずかしさをごまかすためか、喉までこみ上げた減らず口を少女は必死に押し留めていた。それではいつもと同じだ。素直に、素直に……
「私――」
ドッドッドッドと心臓が早鐘を打っている。きちんと目を見て言いたくて、ニチカは正面を向いた。
「今までぜんぜん素直じゃなかったけど、本当は、あ、あなたのことが」
男がわずかに目を見開きこちらに顔を向ける。
さぁ言え、言うのだニチカ。
素直な気持ちを伝えて、もし受け止めて貰えたのなら本当の意味で初めてのキスをして、抱きしめられて、そして
そして
そのまま――?
「うっ、うわぁぁぁぁ!!?」
「!?」
流れで行ってしまうであろうその先を想像した瞬間、ボンッと頭が沸騰した。目を丸くした男を押しのけてベッドから飛び出る。
「わっ、わたしっ、部屋戻るから!」
「おい待――っ痛ぇ!」
どこかにぶつけたのか、前かがみで崩れ落ちる師匠がチラリと見えたが、お構いなしに裏通路へ飛び込む。
(無理無理無理!! 状況がマズすぎるって!! さすがにそこまでは心の準備がぁーっ!!)
明かりもつけずに梁の上を爆走していたニチカは、角を曲がるところでズッと踏み外した。そのまま落下し盛大に尻を打ち付ける。
「いっっ――!!」
ったーい! と叫びかけたのだが、聞こえてしまうかも知れないと思い慌てて声を呑み込む。
「~~~っ、いやあれは不可抗力だから、ビビってるとかそういうことじゃなくて……」
うずくまりまだブツブツといい続けていると少しずつ痛みは引いていった。そこでふと気づき辺りを見渡す。
「……っていうか、ここ、どこ?」
足の向いていた方へひたすら走ってしまったようで現在地が分からなくなってしまった。
尻をさすりながら立ち上がると、すぐ近くに屋敷側へ入る印がボウッと見えた。仕方ない、一度中に入り見覚えのあるところからまた裏へ戻ろう。
「さすがにね、泊めて頂いてるところでそう言うことをするのもどうかと思うしね?」
誰に言い訳しているのか、少女は青い光の印をなぞりながら早口で呟く。少量の魔力が引き出され、壁が消えるのを待つ間ぼんやりと思った。
(でも、キスくらいなら、したかったなぁ)
最後にしたのはいつだろう。キャンディーが片手で数えられるくらいには減っているのだからその期間は短くない。
あの感覚が忘れられない。舌先から伝わる快感は脳を蕩かせ、どうしようもない幸福感に包んでくれる。
最初のころは何としてでもその手管に堕ちまいと必死だったが、彼のことをひとつ、またひとつ知るたびにそれは難しくなっていった。
言い方はきついがグウの音も出ないほど正論を叩き出す口
ぶっきらぼうに頭をなでる大きな手
皮肉気に細められたまなざし
暖かく見守るまなざし
熱を帯びたまなざし
前を歩く背中を必死に追いかけて、振り向いて欲しいと思うようになったのはいつからだったか
(あ、私、本当に好きなんだ)
カチリ、と。デコボコだった気持ちにピタリと組み合わさるように自然と理解する。
ようやく手にとって確かめた気持ちは、愛しくなるくらいに純粋でまっすぐな恋心だった。
透明なたまごのような、一度は埋めかけた気持ちを抱きしめる。
(ありがとう、壊れないでくれて)
――やめろ! お願い、やめて! そんな物ただの……
頭の中で警鐘を鳴らす誰かの声も、遠ざかっていく。
誰が何と言おうと、この気持ちは止められない。
「だって、大好きだから」
この自覚が後にひどい後悔を生む事になろうとは、
まだ、この時の少女は
知りもしなかった。
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