解放者、その名を

咲部眞歩

解放者、その名を

 間接照明に照らされた狭い喫煙所は、子どものころ時代劇で観た阿片窟を彷彿とさせた。煙が立ち込める中、おれは仕事とプライベートのストレスで朦朧とした意識を彷徨わせる。身勝手な上司やクライアント、恋人にはもううんざりだった。ここから逃げ出したいと思う。でもどこに行けばいい? 行き先のわからない旅に出られるほどおれに勇気はない。ただただ毎日、こうして煙草を吸うのがおれの限界だった。

「そんなことないって」

 突然声をかけられておれは顔をあげる。一人だったはずの喫煙所に、いい女がいた。中世的な顔立ちにおれ好みの黒いショートカット。長身過ぎない身長に大きな胸と細い腰と足。おれの意識はすっかり引き戻され目の前の女に集中した。でもわからないことがある。

 この女はだれだ。

 その1点がおれをその場に踏みとどめた。

「なにがさ?」

 無理に突っぱねているおれの態度はお見通しだ、というように女はくすりと笑った。

「あなたの悩み。そう思っているのはあなただけじゃないし、あなたはまだ限界じゃない」

「気楽に言ってくれるじゃないか。あんたみたいないい女は何にも不自由しないだろうよ。だから、そんな風に言えるのさ」

「わたしは、あなたのことが好きになったみたいなの」

「は?」

 女の突拍子もない発言はばかばかしかった。一目ぼれという歳でもなかろうに。

「冗談に付き合う暇はないんだ。じゃあな」

 煙草を消して喫煙所をあとにしようとするおれの腕を、女はそっと、だけど力強く止めた。

「それを吸ってるあなた、とても魅力的なんだもの」

「名前も知らない女を好きになれと?」

「わたしは、解放者。本当の名前は、あなたがわたしを好きになってくれた教えてあげる」

「言ってろ」

 おれは煙草を消して喫煙所をあとにした。いつもとかわらないオフィス。これからまた夜まで仕事漬けだ。まったく、いったいなんだったんだあの女は。

 ・・・・・・オフィス続きのこの喫煙所に、あの女はどうやって入ってきたのだろうか。

 家に戻ったのは夜明けまであと数時間、という時刻だった。会社にいる間は気を張っているが、家に戻ってくるとどっと疲れが出てくる。冷蔵庫からビールを取り出し煙草と一緒に一本だけ飲むことにした。

「おかえり」

 驚いた。だけどその声に不思議と取り乱すことはなかった。仕事中、この女の子とが頭から離れることはなかった。そしていま、この女がここにいるのは当然だと思うようになっていた。

「よぉ、解放者」

 解放者は楽しそうに笑った。

「やっぱりあなたのこと、大好き」

 おれは彼女を引き寄せてキスをした。そしてそのまま彼女を押し倒す。服を脱がせたとき、解放者は言った。

「わたしのこと、好きにしていいよ。わたしはあなたのもの。でもそれ、吸い続けて。じゃなきゃなにもさせない。それを吸いながらじゃないと、わたしはあなたのものにならない」

「灰が落ちて火傷をしたらどうするんだ。その……きれいな身体だから」

「いいよ。気にしない。わたしがほしくないの?」

 おれは煙草と彼女、交互に口をつけた。彼女の匂いは甘かった。彼女の肌は柔らかかった。彼女の中は蕩けていた。

 それから解放者はおれが煙草を吸っていればどこにでも現れた。不思議とまわりの人間は気づいていないようだった。それとも嫉妬で気づかないふりをしているだけなのか。どちらにしろそんなことはどうでもよくて、おれは彼女さえいればもうすべてのことがどうでも良くなっていた。会社は休みがちになり、いつのまにか恋人からの連絡もこなくなった。

 夢か現実かわからないような甘美な日々が過ぎ、おれは彼女という行き先を見つけたのだと思った。解放者、と彼女は名乗った。そのとおりだった。おれはすべての物事から解放された。そう思うと身体がすっと軽くなった。気がつくとおれと彼女は空を飛んでいた。もう煙草を吸わなくても彼女はそばにいてくれる。

 彼女がすっと指差した方を見る。病院の一室を空から覗き込む。ベッドに横たわっているのは、おれ。まわりには誰もいない。そして看護師によってベッドは病室から運び出された。

「どんな気分?」

「最高の気分だ」

「それは良かった」

「おれはきみを愛している。本当だ。だから、きみの名前を教えてほしい。もうきみなしでは生きられない」

 そして彼女は笑った。空の上でお腹を抱えて笑った。彼女の笑顔を見ているだけで本当に幸せな気持ちになれる。おれも一緒に笑った。彼女は涙さえ流していた。

「いいよ。教えてあげる。わたしの名前はね……」

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解放者、その名を 咲部眞歩 @sakibemaayu

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