第363話 誰も得をしない
「ちょっと運動もしまして、すっきりしましたし――」
海部は朗らかな顔で肩をぐるぐる回した。
もう面倒事は嫌なので帰りたいな、と思う亘だったが動けない。それは理由があるからではなく、つまるところメールのやり取りを自分で終われなかったり、残業でも周りを気にして帰れないタイプだからだ。
「――交渉と参りましょう。如何ですか、我々の仲間になりませんか?」
たちまち神楽がまなじりを吊り上げた。
「ちょっとさ、仲間とかなに言ってんのさ」
「神楽、落ち着け。騒ぐな」
「だっておかしいでしょ、マスターに攻撃して今更なにさ。マスターだって、こんな人の仲間になったりしないよね。敵なんだから倒すもん」
「いいから黙れって」
「なんでさ!」
今にも襲い掛かりそうな神楽を掴んで確保すれば、手の中でじたばた暴れる。
「うきゃー! むきゃー! はーなーしーてー!」
指の間から顔だけ出てくると、叫んで噛んで怒り心頭。さらに無理矢理這いだそうと、指と指の間を無理矢理に押し広げてくる。関節が曲がってはいけない方向に曲がりそうなぐらいだ。
「こいつ凄い力だ」
両手を使い辛うじて抑え込む。
これでサキまで勝手をしていたら抑えられないところだったが、サキは大人しく待機している。ちょっとだけ目付きに険があって海部を睨んで、喉の奥で唸っているだけだ。まさしく忠犬ならぬ、お利口な忠狐だった。
亘は苦々しい笑いを浮かべ、今の見苦しい一幕を無かったことにする。
「ええと、仲間になれという話でしたね」
「そうでございます。転職と申した方が判り易いですね。以前にも新藤から誘わせて頂きましたが、キセノン社の一員になられては如何ですか」
「前に断りましたけどね……」
「キャリア官僚でしたら上場企業や公団の参与や取締役、そこを渡り歩いて退職金をがっぽり稼ぎますね。ですが五条さんはノンキャリ、いつか定年になって再就職をしても生活費を稼ぐのが精一杯。ですが我が社に勤めれば、その必要もないぐらい稼げますよ」
さっきまで戦ったり責められていたのが、今度は転職のお誘いだ。手の中で暴れる神楽の動きを気にしながら亘は沈黙する。
「こんな世の中で、お金の意味がないと思われてます? いえいえ、そんな事はありませんよ。どれだけ乱世になろうとお金としての貨幣は存在します」
そして海部は勝手に語りだす。
「漫画ならお札もお尻を拭く紙にもならない、となるでしょうね。ですが現実は違います。貨幣という概念は世の中に深く浸透しておりますし、人が生きる上での対価として貨幣は常に存続せねばならないものですから」
「まあ、そうでしょうね」
社会を生きる人にとって――特に労働による対価を得ている人にとって――貨幣概念は骨の髄まで染みこんでいる。そして貨幣は極めて便利だ。極端な例で言えば、ハイパーインフレになって特定の貨幣の価値がほぼなくなろうとも、別の貨幣が置き換わるなどして貨幣という概念そのものは存在していた。
「つまり、キセノン社は。そして海部さんも世の中を破壊しないと?」
「当たり前です。私はね今まで苦労した分だけ贅沢をして遊びたいのですよ。だから貨幣概念が維持される程度に社会基盤がありませんと。つまり国という貨幣の価値と債務を保証してくれる存在が必要なのですよ」
「そうも上手くいきますかね」
「上手くいきますよ。既に議員や官僚といった方々の中には、我が社の方針に理解を示された方も大勢いらっしゃいますよ。その辺りの方々が政権を取れば……お分かりですよね」
親キセノン政権が樹立され、キセノン社が黒幕として政府を操れる。世の中の非難や批判は政府に向けられ、キセノン社は常に陰の権力者として君臨し続けられる。下手に表舞台に出るより遙かに賢い。
「ですから、五条さんも我々の仲間におなりなさい」
海部は親しげに優しく呼びかけてくる。
「私はね、五条さんに嫌がらせはしました。でも貴方と一緒に働きたいと思うのですよ。貴方の貢献度合いや戦力も理由ですが、やはり一番は貴方にシンパシーを感じたからですね。だから、私と一緒に思いっきり贅沢して豪遊しましょう」
「贅沢、豪遊……」
亘は目を閉じた。
それが何かさっぱり思いつかない。贅沢なら夕食を一品増やすとか、少し高い肉を買うとか。豪遊するのも騒々しそうで、それなら静かな景色でも見ていたい。思い浮かぶのは七海をはじめとする親しい仲間の姿だ。
その皆の姿と贅沢や豪遊は重ならない。間違いなく、重ならない。
「海部さん」
亘は目を開けた。
「どっちも興味ないですよ」
「おやおや、随分とストイックな事ですね」
「そうでもありませんよ。よく分からないだけです」
「ああ……」
海部の言葉には気の毒そうな色が含まれていた。
それは亘も自分自身に対して、同じような感想を抱いていた。しかし同時に満足もしていた。お金は欲しい、凄く欲しい。だが無尽蔵に手に入るより、一生懸命小銭を貯めていくほうが満足感がある。
ただそれを、どう言葉にすれば良いのか分からない。
「なるほど。そうでございますか」
海部の肩が揺れる、頭も揺れる。やがて顔が歪み、声をあげないで笑っている。その全身から強い力が感じられる。どうやら、やる気らしい。
戦いに向け、亘は手を開け神楽を開放した。
神楽は話を聞いていたようで、ひらりと飛んで白い小袖を翻し、亘の頭に一蹴り入れてから海部に向き直る。サキも獣スタイルの――実際に獣耳と尻尾を出して――四つん這い気味になって戦闘態勢。軽くお尻をふって複数の尾を揺らめかせている。
しかし亘は言った。
「こっちの従魔は使わない」
「「えー!?」」
神楽とサキが弾かれたように振り向いた。どっちも戦う気満々で水を差されて不満の声をあげている。
「ですから、後ろで転がってる二人とその従魔には手を出さないで貰いたい」
「別に手を出すつもりはありませんが、まあ五条さんが安心なさるのでしたらそれで構いません。ええ約束いたしますよ。その代わりですが、私が勝ちましたら五条さんに仲間になっていただきましょう」
「……何を勝手な」
「さあ問答は終わりですよ」
言うなり海部が襲いかかって来た。
空を貫く拳の音。
身体を開いて横から弾き、亘は攻撃を躱した。そして空振りして前に傾いた海部の胸ぐらを掴み、勢いをそのままに投げ飛ばす。遠くへは投げない。殆んどその場で回転させ、頭から地面へと叩きつける。
武術の技でも何でもない。
少しでも痛い思いをしないようにと、または確実に相手を倒せるようにと、実地の中で自然と身に付けた戦い方だ。コツといった経験の積み重ねでしかない。
おかげで対処できたが、海部は直ぐに起き上がってきた。
全く堪えた様子もなく直ぐ向かってくる。
その次もまた次も攻撃をしのいで、しかし次に攻撃を受けてしまう。たった一撃で目の前が白くなるほどの痛みだ。悲鳴は出なかったが、それは声も出なかったからだ。神楽に回復魔法を使わないよう指示した事を激しく後悔する。
――力の差がありすぎる!?
どんな形であれ、この戦いを早く終わらせるしかない。
なんとか距離を取って考える。
――もっと考えるんだ。
単純に力だけの戦いでは勝てない。
かつて自分は格上相手にどうしていたか。もっと頭を使い道具を使い、それで生き延びてきた筈だ。相手の思わないことを、相手の嫌がることをやってきた筈だ。
瞬間、亘はどうすべきか気付いた。
「おや? 何か思いつかれました?」
「そうですね、楽しくないことを思いつきましたよ」
「いいでしょう。何かは分かりませんが無駄ですよ。さあ大人しく、我々の仲間になられたらどうですか」
余裕を見せる海部に迫る。
手を伸ばし腹を鷲掴みにするが、それは身体には届いていない。構わず反対の手を突きだせば海部が眉を寄せ訝しがり、次の瞬間に激しく動揺した。
「んなっ? ななな、何を!?」
それに取り合わないまま、亘は手に掴んでいたものを放り出した。ひらひらと布が落ちていく。その元となる破れたシャツを再度掴んで、続けて破り捨てる。
次は腰の革ベルトを両手で掴んで左右に引きちぎる。
「やめなさい! 何てことを! 常識ってものがないんですか!?」
構わずズボンのポケットを掴んで布を裂けば、辛うじて引っかかっていたそれが落ちていく。服を剥ぎ取られた海部はブリーフパンツ一枚に靴と靴下だけ、両手を胸の前でクロスさせ誰も得をしない姿を披露している。
こうなると動揺しきった海部は戦うどころではない。
どれだけ肉体的に強くなろうと、服まで強くなるわけではない。これまでそれで何度苦労し、何度買い直したことか。
そして人には羞恥心というものがある。
たとえ周りに殆ど人が居なかったとしても、いきなり外で下着姿にされて平然としていられるはずがない。海部のたった一つの敗因は露出狂でなかったことだろう。なお亘は下着姿までなら平気だ。
「こういうのは卑怯じゃありませんか」
「そうですか? では次からお互いやらない方向で約束しましょう」
さらっと言った亘は、自分が同じ目に遭わないように予防線を張っている。その流れるような姑息さには神楽もサキも呆れ返っている。
「分かりました、今日はもういいです。ですが、いずれ世の中はキセノンのものになります。その時にまた、お返事を聞かせていただきましょう」
海部は恥ずかしそうに走って逃げて行った。
「戦いとは虚しいものだな」
「あのさマスターさ。そういうのどうかって、ボク思うよ」
「文句を言うな、勝っただろうが」
「ほんともう、何て言うかさ。なんて情けない戦い方するマスターなんだろね、ボクもう哀しすぎ。こんなの誰にも言えないよ」
横ではサキまで深々と頷いている。
「うるさいな。とりあえず……引き上げよう」
チャラ夫と法成寺を回収、心配そうなガルムと呆れ果てた神楽とサキを連れ、無事だった公用車へと乗り込む。エンジンも問題なく始動する。
ちらりとキセノンヒルズを見やって、そしてアクセルを踏み込み走り出す。
今回の一件をどう報告するのか。
それを思うと苦々しい気分だった。
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