閑69話 一文字家のピヨ様は
「疲れました、疲れちゃいました……」
一文字ヒヨは大きく息を吐いて、心の底から呟いた。椅子に座ったまま事務机に両手を投げだし、その冷たき表面にべたっと顔を張り付けている。
近くに控えていた事務服姿の女性が、すすっと動いて飲み物を差し出す。それは蜜柑の砂糖漬け茶で、立ちのぼる湯気は柑橘類らしい爽やかな香りがした。ヒヨが好きな飲み物の一つで、いつもなら直ぐに手に取り、両手でカップを抱えてしまう。だが、今はその元気もない。
それどころかヒヨは、頭を横に傾け机の上から恨めしげな目を向けた。
「誰も手伝ってくれませんでした、酷い」
「それは仕方ありません。あれほど高位の神性の
「私だって最初は気を失ったんですよ。それから、ピヨと呼んでいいのは一人だけなんです」
「あー、はいはい。そうでしたね」
事務服姿の女性は、それで話は終わりだと言わんばかりの態度だ。上司を上司とも思っていない部下の態度に対し、これは逆パワハラではないかしらん、とヒヨは最近覚えた言葉で悩んだ。
だがしかし――。
「ところで五条様との仲は如何ですか?」
そう尋ねられた途端にヒヨは跳ね起き、さらには立ち上がり、あげくには軽く回転さえしている。見ている方が楽しくなるような浮かれ具合だ。
「あのね、それ聞いて欲しいの。昨日は二人っきりで、お話をしたんです。それでね、それでね! 車の運転でアドバイスを貰ったんです。どうです、凄いでしょう。凄いですよね」
「ふむふむ。ところで他には? もっとこう濃厚なスキンシップとかは」
「えっとね、それがね」
ヒヨは口元に手を当てもじもじして言い淀み、それから赤く染めた頬を両手で押さえた。それに話をしていた女性のみならず、周りで聞き耳を立てていた者たちも身を乗り出した。
「腰を擦ってくれたの」
「……腰? 擦る? それはどういった状況なのでしょうか」
「椅子から立って伸びをしたら、ぎっくり腰みたいに痛くなって。そしたら大丈夫かって腰のところを擦ってくれて。とんとんって叩いてくれたの」
「ああ、はいはい。そうですか、それは良かったですね」
横で聞いていた者がメモして確認している。
そうして愛すべき上司の恋の行方を把握し分析しているのだが、今のところ極めて緩やかな上昇傾向にあると目算され、推定によれば二十年後ぐらいには、世間一般で言う所の恋人と呼べる領域に達するのではないかと希望的観測が得られていた。
こんな時勢であっても。
否、こんな時勢だからこそ。
大いなる力を持った相手と――何よりピヨが惚れ込んだ相手と――上手く結ばれるように一生懸命応援するのだ。結構ヌケて鈍臭いピヨを見守る皆は、娘や妹を見守る気分なのである。
一人が指を鳴らすと、煌びやかな衣装を持った者たちが登場した。赤や青や黄と様々で、中には羽やらラメが付いて煌びやかなものもある。
「ピヨ様、お召し物をこちらにされては如何ですか?」
「なんだか派手ですね。それも凄く」
「殿方の気を惹くには、これぐらい派手にして目立ちませんと。派手ですねと言われたら、そこから会話を繋げていくというのは如何でしょうか」
「……もしかして私、地味なのでしょうか?」
がっくり落ち込んだヒヨの様子に、衣装を持って来た者たちは他の者たちに睨まれ、足蹴にされて追いやられてしまった。
気を取り直して次に女性が進み出て、左の薬指に存在する金属を見せつける。
「良いですかピヨ様、意中の相手を手に入れるには。胃袋です、胃袋を掴むのです」
「なんと!? 胃袋なんですか、そうですか胃袋……」
「言っておきますけど。胃袋を掴むというのは料理でという意味ですよ。本当に胃袋を掴む意味ではありませんよ」
「もっ、もちろん分かってます。それぐらい分かりますよ」
「本当ですかー?」
顔を覗き込まれたヒヨは無言で目を逸らした。
「良いですかピヨ様。胃袋を掴むためには、相手が何を好んでいるのか観察ですよ」
「ふむふむ観察ですか」
「ええもう。何を食べて喜んでいるかとか、嫌いなのかとか。そこまで分かってしまえば完璧なんですけどね。そこまでは流石に無理でしょうけど」
「私知ってます。そういうのって、ストーカーって言うのですよね。でもそうですね、それだったら……私、聞いてきます!」
元気に宣言したヒヨは、元気に駆けだし、元気にドアを開け、元気に出て行った。見ていた者たちは、上手く行く事を祈り、ほっこり微笑んでいる。
亘は駐車場に向け棒を投げた。
それをサキが走って跳んで捕まえて、駆け戻ってきた。興奮気味で獣の耳と尻尾が出てしまっている。受け取った亘が、もう一度投げるのだが、投げたフリだけで棒は手元にあった。
気付かず走りだしたサキは棒を見失い急停止。慌てふためき何度も何度も辺りを見回している。悪戯に気付いた神楽も笑っている。亘はネタばらしをしかけたが、走って来るヒヨの姿に気付いて、真面目な顔を取り繕った。
「何かあったか?」
「はい、何かありました。五条さん、何が食べたいですか」
「……ジャガイモ料理とか」
唐突な質問であったが、亘は冷静に答えた。この一文字ヒヨは、時折突拍子もないことを言い出すのである。
「ジャガイモですか! ふかし芋とか美味しいですよね。鰹節をかけてバターと醤油とか、とっても美味しいですよね。それならカレーはどうでしょうか? ご飯とも合いますし」
「カレーにジャガイモは入れたくないな。その方がご飯が美味しい」
煮崩れしてしまって味と食感が変わってしまう。何より日持ちが悪くなると言うのが、一人暮らしで培われた経験なのであった。
「なるほど。そうなんですか、覚えておきます。ご飯と言えば、焼きお握りどうですか」
「確かに香ばしく焼いて、一気に食べるのは好きだな」
「味噌を付けて焼いて具は昆布ですよね」
「いや醤油で具は梅じゃないのか」
聞いていた神楽が想像して生唾を呑んでいるが、喰い違う二人の間にしばしの沈黙が訪れる。サキは棒探しに一生懸命で、駐車場を走り回ると車の間を覗き込んでいる。
ヒヨは気を取り直した。
「ご飯ですと、他には何が好きでしょうか!」
「いきなり言われても、たとえば鰻丼とか……」
「あっ、鰻丼って良いですよね。白焼きの蒸してふわふわが美味しいですね」
「ご飯を食べるなら関西風のパリッと焼いた方が良くないか。関東風は鰻を味わう食べ方だと思うが」
神楽は何度目かの生唾を呑み、喰い違う二人はまた沈黙した。サキは背伸びして車の上を、這いつくばって下を確認している。
ヒヨは気を取り直した。
「えっと、卵かけご飯は最高ですよね」
「醤油の量が決まると、確かに最高の味になるな」
「ですよね。あと海苔や梅干しを入れると、さらに美味しいですよね」
「いや? そこはシンプルに卵だけで勝負だろ」
二人の間に沈黙が……しかし、我慢しきれなくなった神楽が声を張りあげた。
「ボク思うけど、別に何だっていいじゃないのさ。それよりお腹空いた」
この発言に亘とヒヨは、同時に息を吐いた。頭を横に振るタイミングも同じだ。
「何でも良い? そういう拘りがないのは良くない」
「あっ、分かります。何でも良いって言う人がいるから、例えばお握りに焼き肉のタレをつけて食べたりするんですよ」
「確かにそうだ。ああいうのは焼き肉やった時に、ちょっとタレを付けてみるから美味しいのであって、お握りに主として付ける味ではないと思う」
「ですよね! つまりご飯をお肉と見なして食べているだけであって、ご飯として味わおうとする行為ではないって思います」
息の合った二人の様子を横目にして、なんて面倒くさいと神楽は呟いた。
その向こうでは、棒を探し続けるサキが車を引きずって退かしはじめている。駆け付けた防衛隊員が制止しても意にも介さず、不機嫌そうに威嚇の声をあげるばかり。気付いた亘が棒を投げてやると、大喜びで追いかけていくのだった。
物陰で見守っていた事務員は、メモを修正し希望的観測を口にしながら頷いた。
「推定十年後に修正ですかね」
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