閑70話 我は竜である。名前は雨竜くん
我は竜である。名前は雨竜くん。
どこで暮らしていたかは思い出したくない。初めて手に入れた異界を満喫していた幸せだけを記憶していたい。我はそこで初めて人間という者に襲われた。もっとも後で知ると、それは人間の中で一番獰猛な種類であったようだ。この人間というのが時々襲って来て、虐殺して殺戮していくのである。
この時心が折れたと思った感じが今でも残っている。第一この広い世間で出会いたくない顔にバッタリ会うなんて、まるで悪縁だ。その後人間にも沢山出会ったが、こんな恐いのには一度も出くわしたことがない。のみならず連れている悪魔がとっても恐ろしやである。そうして、その連れてる悪魔が時々もんもんと言う。どうも恐くて弱った。これが我が主が
建物前の植え込みで、思索にふけっていた雨竜くんは大きな欠伸をした。それから、短い手で口元を押さえ辺りを見回した。はしたない姿を誰かに見られたのではないかと心配したのだ。
ふと見ると、顔見知りの猫がいた。
慎みある淑女の乙竜として相応しくない処を見せてしまって恥ずかしい。
『あら、ごめんなさいね』
ちょんっと鼻を突き合わせ挨拶する。
この猫は齢十年を越え、世界に満ちた魔素の影響を受け、何より猫自身の望みもあって、まだ生成りではあるが猫ではない別種に変わりつつある。雨竜くんも蛇から竜の世界へ足を踏み入れた口なので、ちょっと応援しているので仲が良いのだ。
賑やかしい声が聞こえ、人間の子供たちが走ってきた。
その中の女の子の元に猫が駆けていって、頭と身体を擦りつけている。微笑ましい光景に微笑んでいると、たちまち残りの子供たちに囲まれてしまう。
『こんにちは、子供たち』
挨拶をしてみたものの、人間にはがうがうとしか聞こえていない。こちらは分かるのに、相手は分からない。それがとっても、もどかしい雨竜くんであった。
しかし気にせず話しかける。
『とっても気持ちの良いお天気ね』
「雨竜くんちゃんだ! ねえ何してるの?」
『日向ぼっこよ。お日様がとっても気持ちいいのよ』
「遊ぼ!」
やっぱり言葉は通じてない。しかも身振り手振りの返事すら待たず、人間の子供たちが迫って来た。元気が良いのは良いことかも知れないが、しかし元気が良すぎる。まさしく、襲いかかるといった勢いだ。
「尻尾だ、尻尾がある!」
「髭長い、髭ぇ!」
「歯ぁ!」
牙を掴まれ、髭はぎゅうぎゅう引っ張られ、鬣はむしられそうな勢い。両手両足にしがみつかれ関節がきめられ、数人がかりで尻尾を引っこ抜きにかかっている。
これも全て雨竜くんが大人しく温厚で、触っても大丈夫な優しい存在として親しまれているからだ。しかし相手は無邪気で無慈悲な子供たち。好奇心と親愛は暴走するばかり。
猫と女の子が気の毒そうに見ている前で、雨竜くんは悲鳴をあげる。
『やめて、やめて。酷いことしないで』
頭は囓られ噛みつかれ、飛びつかれ、しがみつかれ、よじ登られ、揉みくちゃにされる。悲鳴をあげる口の中に入ってこようとするぐらいで、下手に動けば怪我をさせてしまいそうだ。それでも雨竜くんは耐えている。
「こーらっ! 雨竜くんに酷い事したら駄目なんだぞ」
天の助けが来てくれた。
雨竜くんが魂の主、真の主として崇めるイツキだ。もちろん契約上の主は別にいるが、心の中で自分の主と誓って決めているのである。とても優しく頼りになって、しかも恐い相手にも堂々と立ち向かう勇気のある真っ直ぐな子だ。
叱られた子供たちは逃げて行くが、途中で振り向いて手を振っている。子供たちが転んでしまいそうで、はらはらしながら雨竜くんも手を振り返した。
「大丈夫だったか?」
雨竜くんは丁寧に頭を下げ尻尾を上げた。
『助かりましたわ、我が主よ』
「でもよ、優しいのはいいけど。嫌なら逃げなきゃ駄目なんだかんな」
『それもそうですけど、あの子たちって辛い思いをしてますでしょう。だから、ちょっとでも笑顔になってくれたら嬉しいと思いますの』
「もしかして、どっか痛いんか? なんならチビ悪魔に頼んで回復して貰うかんな」
伝えたい言葉は伝わらないが、心配してくれる言葉が嬉しかった。でも、そのチビ悪魔が誰を指しているか知っているので、雨竜くんは大慌てで首を横に振った。
『大丈夫です!』
「どっか痛いんなら回復して貰ったほうがいいかんな」
『大丈夫なんです、大丈夫。それより散歩です、散歩にでも行きましょう』
「どっか行きたいんか? そんな手を引っ張んなくても大丈夫なんだぞ」
戸惑うイツキの手を引きつつ、雨竜くんは手振り尾振り歩きだす。自分の仕えるべき主と共に歩むことが、とても嬉しいのであった。
建物の前は広場で、そこでは大勢の人間たちが暇そうにしていて過ごしている。これがどうにも雨竜くんには分からなかった。小さな子供ならともかく、何もしないで食べ物を貰っているだけの成体がいっぱい居るのだ。
歩いて行く左手には、きびきびした動きの人間がいる。しっかり悪魔と戦って働いている人間たちなのだが、暇そうにしている人間たちの方が威張っているのが不思議だった。
『人間って分からない生き物ですわね』
雨竜くんは首を捻った。
すると、イツキが急に手を挙げ走りだした。それは突然で、雨竜くんも一生懸命に追いかけていく。走って行く姿からして嬉しそうな様子が伝わってくるが、雨竜くんは微笑むことは出来なかった。
「小父さん、見ぃつけた」
イツキが向かった先には、契約主がベンチに座っていたからだ。その相手の膝の上に、ガチガチに緊張したまま固まる白虎の姿がある。きっと運悪く掴まったに違いない。
お労しやと思う雨竜くんだったが、同時に自分でなくて良かったと思ってしまう。
なぜなら、そのベンチには大妖狐も一緒なのだ。何の感情もない目で白虎を見ているが、それは獲物をどうやって仕留めるか、淡々と考える暗殺者の目をしている。間違いない。
雨竜くんにはどうすることも出来ず、己が無力さと不甲斐なさを嘆くばかりだ。
「小父さんと白が一緒なんて珍しいな」
「ここで丸くなっていたのを見つけてな。試しに膝に載せたら、この通りで大人しい。なかなか懐いてるだろ」
「みたいだな、安心してじっとしている」
それは違うと呟いた雨竜くんの声は、がうがうとしか聞こえない。
「しかし、こうやって猫を膝に載せると妙に眠くなるものだ」
「ほんとか? じゃあ試してみるぜ。こいつ貰っちゃお」
そう言って、白虎が救出されている。雨竜くんは、ほっと胸をなで下ろした。やっぱり天の助けである。感極まった白虎が爪を立ててしがみついているのは、ご愛敬だ。
「こら爪をたてるなって」
「大丈夫か? 怪我してないだろうな?」
「小父さんってば心配してくれるのは嬉しいけどよ、こんぐらい大丈夫だから」
白虎はイツキの膝上から絶対に動こうとしないので、契約主は軽く鼻を鳴らした。
「まあいいさ、こっちにはサキがいるからな」
手招きされた大妖狐が尻尾を出して、そそくさと契約主の膝上に移動していく。尻尾を撫でて貰って目を細める態度は、子狐にも思えるぐらいだった。この猫かぶり具合は恐ろしやだ。
「ふむ、サキの方が毛並みがいいかな」
大妖狐の機嫌が良くなった。
「そっか? 白の方が良いって思うぜ」
大妖狐の機嫌が悪くなった。
契約主たちは気付かず、ベンチに並んだまま、たわいもない話をして、ゆっくりとした時を過ごしている。見ている雨竜くんは、はらはらし通しだった。
ベンチの横に立っていた雨竜くんは、誰かの足音に気がついた。
さくさくとした足音で、見覚えのある女性がやって来る。ナナゴンと呼ばれる契約主にもっとも近しい女性だ。我が主とも仲が良いが序列は上である。あの小妖精ですら遠慮しているので、序列はさらに上なのだろう。
「五条さん、ここに居ましたか。少し用事が――」
「……しーっ」
契約主が口元に指を当て、軽い息づかいだけで合図をした。どうやら静かにという合図のようだ。二人して微睡む我が主を見て微笑んでいる。それはとても優しげな様子で、雨竜くんも軽く尾を振っていた。
「起こすに忍びないだろ」
「そうですね」
「雨竜くんと白虎も居るし、このまま寝かせておいてやろう」
ひそひそと喋っている。
『畏まりましたわ』
がうがうと頷いた。
言葉は通じないが分かってくれたらしい。
任せる、と言った契約主は静かに立ち上がる。起こさないようにと気遣っている様子が良く分かり、大妖狐を肩に担いで去っていく姿を見ていると、契約主も悪い人間ではないのだと思えてくる。
獰猛ではあるけれど、一度仲間と認めた相手にはとっても甘く優しい。ただ昔の恐怖があるので、どうしても身構えてしまうのだが、自分も仲間の範疇になったらしいので安心してもいいかもしれない。
雨竜くんは微睡む主の隣に座り込んだ。
とても日射しが心地よく、身体がぽかぽかして眠気を催してきた。
白虎は主の膝上で心底安心しきった顔で目を閉じている。時々耳が動くが、辺りの様子を確認しているのだろう。今頃になって鳥と亀が来たのが、ちょっとだけ恨めしかった。その代わりに、しっかり守護して貰うことにする。
なぜなら、とっても眠いから。
もう寝よう、後は任せて寝てしまおう。眠たさに耐えるのは、これっきりご免こうむる。前足も後ろ足も頭も尾も力を抜いてリラックスすることにした。
次第にうとうとしてくる。起きていようとか、眠たいとか見当がつかない。寝ているのだか、起きているのだか判然としない。このまま意識を手放してしまっても差し支えない。ただ心地よい。否、心地よさすらも感じ得ない。時間を切り落とし、場所を粉々にした不可思議な心持ちで寝に入る。我は寝る。寝てこの幸せを得る。幸せは我が主の側でなければ得られぬ。むにゃむにゃ。ありがたいありがたい。
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