第345話 可及的速やかに戻らねばならない

 グラウンドの土は、普通の土の上に風化花崗岩の真砂土が敷かれている。風が吹いても砂埃が生じにくい粒径の大きめなものだ。しかし今はチャラ夫との一戦で、すっかり荒れて赤土が露出している。壊れた家屋の並ぶ風景に相応しい情景だった。

 しかし今やそこは、辺りの空気は清々しさに満ちていた。青い空の荒れた地上の中で、この辺りだけが厳かに思え、優しい風の中に柔らかさと懐かしさのある香りがしていた。

 全ては、ここに突然現れた女性が理由である。

 美しい女性ひとだが、それ以上に清らかという印象が強い。姿形や顔立ちもだが、その佇まいや存在そのものが清らかで、誰もが目を奪われ畏敬のような感じさえ受けていたのだ。

 そこに立つ亘は、相手を見つめたまま、言葉もなく立っていた。

 隣に居る七海も同様で、何度か瞬きをして、突然現れた相手を信じられない面もちで見つめている。いつの間にか近くに来ていたエルムが、うそやんっと微かに呟いたようだが、それ以上は声もなく固まっている。

 ただし、もっと茫然としているのはグラウンド脇の土手に座り込んでいる大宮、近村などで、横に並んだ皆は静かに声一つない。そこには老人たちがいて、青い芝の生えた勾配に散らばって座り込んでいる。やはり声もなく、身じろぎすらなかった。

 あまりにも綺麗で清らかな存在に、目を奪われているらしい。

 しかし従魔の類の反応は別だった。

 要領の良い神楽は、さっさと亘の服の中に潜り込んで隠れてしまっている。これはマシな反応で、ガルムやアルルといった古参の従魔以外はとっくに存在すら消えていた。あのスナガシでさえも同じで、スマホの中に戻っているのだった。

「どうして……アマクニ様がここに……?」

 亘はようやく再起動を果たし、それだけ口にした。

 現れた相手があまりにも意外すぎた事もあるが、その格好が覚えのある古式ゆかしい着物ではなく、雑誌のモデルが着ていそうなカジュアルコーデだったせいもある。喩えるなら、今まで和服しか着ていなかった人が洋服で見るような新鮮さと驚きがあった。


「ちょっと思いついてね、様子を見がてら遊びに来たのだよ」

「はあ……」

 何て迷惑な事を思いついたのか。亘が心の中で文句を言うと、アマクニ様の美麗な顔がむむっとする。

「君はいま、何か失礼な事を考えているね」

「いいえ、とんでもない。それより、えーっと、その格好はいったい?」

「ふむ? 似合わないかな。美佐子の薦めだったのだが」

「いえ、とても良く似合ってます」

 相手が相手であるし、しかも母親の薦めともなれば絶対に否定はできない。亘はアパレル販売員とは比べものにならぬほど、感情を込め素直に褒めた。しかし、実際に軽く羽織っている上着は、ほとんど白に近い風合いの桜色で、素晴らしく似合っている。

「綺麗で、本当に似合ってますよ。七海もそう思うだろ」

「そうですね、はい」

「どうした?」

「いいえ何も、とっても似合ってると思います。アマクニ様は綺麗ですし、五条さんが褒めたくなる気持ちも、とーってもよく分かります」

「そうだろ」

 同意を求めたものの七海は、何故か直ぐにそっぽを向いてしまった。下唇を噛み気味に頬を膨らませ、胸の下で腕を組んでいる。何だか怒っているような気配があるような、ないような。良く分からない。

 困惑する亘が視線を巡らせば、涙目になったサキに気付いた。尻尾の先をアマクニ様に抓まれたままで、しおしお顔で項垂れている。すっかり忘れていた。

「とりあえずですが、サキを貰ってもいいです?」

「ああ、良い毛並みなので忘れていたよ。可愛がって貰っている証拠だね」

「枕にすると最高です」

「なるほど試してみたいね」

 解放された途端にサキは亘の足に飛びついてしがみつき、後ろに隠れ、顔だけ出して威嚇の声を――ただし小さな声で――あげている。ふと悪戯心を起こした亘は、それを前に押しだそうとした。サキは悲鳴のような短い声をあげ、亘に爪をたて、噛みついた。

「可哀想なことは駄目なんです」

 言って七海が抱き上げると、サキはその胸に顔を埋めている。どうも拗ねてしまったらしい。亘は少しだけ反省したものの、しかし頭を掻いて誤魔化し、さも自分は悪くないといった笑いを浮かべていた。


 ようやくチャラ夫が驚きから覚めたらしい。手を挙げながら駆けてくる。

「アマクニ様、ちーっす。いやぁ、なんか珍しい格好してるんで最初誰だか分かんなかったっす。なんすか、イメチェンっすか。なんなら俺っちがカッチョイイ感じの――ふぎゃあああっ!」

 亘はチャラ夫を掴んで、遠くへと放り捨てた。先程の戦闘訓練の時とは違って、全く手加減がない。どこか遠くへと飛んで行く姿をガルムが必死に追っている。

「ちーす?」

「チャラ夫言語による省略挨拶のようなもんです」

「面白い挨拶だね。ちーす、ちーす? ちーっす。こんな感じかな」

「真似する必要ないので忘れましょう。あー、それよりも。他に来てませんよね。たとえばですが、シンソクとか名乗ってるような怪しい存在とかそういうのは」

「君も存外に失礼だね」

 露骨に話題を変えた事に対してか、それとも神の一柱を怪しい言った事に対してか。それは分からないが、アマクニ様は軽く呆れた顔だ。しかし青空に視線を向けると、太陽を凝視して小さく息を吐いた。

「まあ、あれは……もう駄目だね」

「え?」

 亘は困惑した。

 哀しげに頭を振ったアマクニ様の様子に、一体何があったのかと戦慄する。シンソクと名乗る存在は、アマテラスの盟主であって口にも出来ない存在だ。それが駄目と言われる状態など何があったのか。

 ひょっとすると自宅周辺で何かとんでもない事があったのではないかと、母親の身の安全と、置いてある愛刀どもと、自宅が無事かどうかと。順番に気を揉んで動揺しきった。

 アマクニ様は深刻そうに頷いた。

「あれは、すっかりゲームに嵌まって引きこもってしまった」

「……はい?」

「しかもだよ。あれがゲームを独り占めするから、他の連中が怒りだしてね、美佐子が仲裁したけど危うく大紛争だよ。仕方ないので、うちの納戸をあれ専用のゲーム部屋にしておいたよ」

 何から突っ込めばいいのか分からない。

 さらっとアマクニ様が自分の家を自宅扱いした事に亘は気付いたが、それを指摘する気はなかった。自宅に一人で暮らす母親を思えば、むしろ家族が増えることは嬉しい事だ。なにより相手がアマクニ様なので、何の問題もない。

「昔から引き籠もりがちだったらしいが、美佐子が掃除に入って外に出さねば、部屋に引きこもってゲーム三昧だよ」

「当分は出て来そうにないですか」

「ここに来るのにもどうするか聞いたけどね、ゾンビをナイフでタイムアタックが忙しいとかなんとか。よく分からない事を言っていて――どうしたかな?」

「いえ、ちょっと目眩が」

「それはいけないね。どれどれ」


 ほっそりとした指先が亘の額にあてられる。優しい感じだ。子供の頃に母親に熱をはかられた時のようだが、それとは少し違う。もっと慈しみのようなものがあって、よく分からないけれど、これがお婆ちゃんという存在なのかもしれない。実際アマクニ様は遙かに高齢――。

 額に触れていた指先で、とんっと突かれた。

「君はいま、何かとっても失礼な事を考えていたね」

「そんな事は少しもないです、はい」

「ああ、人の子との触れ合いは楽しいけれど。やっぱり君が一番良いよ」

 アマクニ様は御機嫌だが、なぜ自分が褒められているのか亘には分からなかった。これまでの人生で、そういった感じで誰かに認められ喜ばれるという経験自体がほぼ皆無。だから、どう反応して良いのか分からない。

 ガルムがチャラ夫の足を咥え引きずり戻ってくる様子が見えた。

 そろそろ戻る頃合いだろう。

「とりあえずサキを貰おう」

 言って亘が近づき身を寄せると、七海は先程感じた、怒ったような気配は皆無。笑顔で上機嫌で、むしろ近づいてくれる。あまりに顔が近いので亘の方が動揺するぐらいだ。

 サキが器用に七海の腕から渡ってきた。お尻に手を回して下から支えてやれば、肩に顎を載せ全身をぺちょっと張り付かせてくる。熱いぐらいに温かい。なお、神楽は亘の懐中でサキに押し潰されていた。

 周りの皆はまだアマクニ様に見とれているが、アマクニ様は平気でも亘はそうでもない。

「これから本拠地に戻りますけど、アマクニ様は……」

「まさか帰れとは言わないよね」

「言いませんが、ただどうするのかなっと思っただけで」

「もちろん君の行くところに一緒に行くとも。なにせ、そこには美佐子が先に行っているのだからね。置いていくわけにもいくまい」

「えっ……!?」

 亘が戦慄するのは、職場に親が来るなど最悪以外の何ものでもないからだ。絶対に碌でもないことが起きているという確信に近い予感があった。可及的速やかに戻らねばならない。

 襟元から神楽が這い出ると、上目遣いでアマクニ様に頭を下げている。

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