第344話 まるで恥じらう少女のような
「燃えたっす……燃え尽きたっす……真っ白っす……」
チャラ夫は満ち足りた顔で項垂れ、座り込んだ足の間に両手をだらりと垂らしている。全てを出し切った充実感と充足感に浸りきっているようだ。
亘もまた疲れた顔をして、それに目をやっていた。
気分はすっきりしている。心の中にあった様々な不満や疲れはなく、心地よい疲労感が漂うばかりだ。やはりストレス解消は身体を動かすことで、つまり悪魔と戦う事は最高のストレス発散に違いない。
横に穏やかな気配と優しい香りがした。タオルを手にした七海だ。
「お疲れ様です。汗、拭きますね」
「うん? ああ、うん、そうか。えーっと気を使ってくれて、すまない」
「はい、どうぞ」
言いながら七海は、受け取ろうとした亘の手をやんわりと横にやって、そのままタオルを当ててくれる。軽く背伸びをした七海は、いつもよりずっと近い。誰かに構われ気を使って貰える。それは嬉しくて心がくすぐったかった。
しかし亘は不安に駆られてしまう。
こうした時はたいてい、誰かが冷やかしたりするものだ。亘にそんな経験はない。他の人がそうされているのを見てきただけだ。しかし心配だった。
そっと視線だけで辺りの様子を窺った。
もちろん冷やかされても構わないが、しかしそれで七海が恥ずかしく思うのではないかと心配なのだ。あにはからんや、どこからも誰からも、冷やかしの声はなかった。
ここに居るのは、まともな人ばかりで、そうした事はしないらしい。
ただし、そうでなかったとしても。誰もが恐れ多くて――畏れ多くて、ではなくて――冷やかしたりはしないだろう。あと、神楽かサキに蹴られ死にそうな目に遭いかねないのだ。
そんなやり取りを見ていた雨竜くんは、ふんふんっと、小さく何度か頷いた。
てってけ走ってイツキにお願いし、タオルを受け取るや、太く短い尾をふりふり、汗だくのチャラ夫の元へと駆け寄った。大きな口を、ぐわっと開けて訴える。
「えっ? あっ、そっすかタオル頂けるんすね。すんませんっす」
そこはかとなくチャラ夫が敬語っぽくなるのは、雨竜くんという存在の微妙な立ち位置があるせいだろう。かつては激闘を繰り広げ、その後はDP搾取の生贄としてレベルアップに大貢献して、いまは仲間なのである。そして口に出しては言えないが、ちょっと顔が恐い。
受け取ろうとするチャラ夫の手をぐいっと横に押しやり、雨竜くんは、ぐいぐいタオルを押し付ける。短な足で背伸びをすると、鰐に似た顔がにゅっと近づいている。しかも一生懸命なせいか、無意識に牙が噛み合わされガチガチ音がしている。
チャラ夫は何とも微妙な顔だ。
「あざっす、助かるっすよ。いやでも大丈夫なんすから。あっ、ひょっとかして。風邪ひくかもって心配してくれてるんすね」
こくこくと頷かれ、タオルが額に押し当てられる。
「大丈夫っすよ。気遣ってくれるのは嬉しいっすけど、大丈夫っす」
短い手が上下に振られ、タオルが首元に押し当てられる。
「ほんと、大丈夫っすよ。ありがたいんすけど、俺っち風邪ひいたことないんで」
言ってチャラ夫は元気なところを見せようと、笑いながら立ち上がった。
しかし、その身体は本人が思う以上に疲労困憊していた。さらに手合わせの訓練とは言えど、ダメージは着実に残っていた。思わず足がふらつき体勢が崩れると、支えようとした雨竜くんと一緒に、もつれあって地面に倒れ込んだ。
「あたたたっ、申し訳ないっす!」
気付けばチャラ夫は雨竜くんの上に覆い被さり、その鰐っぽい顔の両脇に手をついていた。間近で真正面から見る雨竜くんは、目をまん丸――元から鰐のように丸いが――にしていて、瞬きを何度か繰り返す。ややあって恥じらうように目を伏せた。
「ちょっ!? なんすかその反応は!」
慌てたのはチャラ夫で、飛び退くように立ち上がる。だが、疲労困憊しているせいで足を滑らせてしまった。今度こそ雨竜くんの上に倒れ込んでのし掛かった。
それを見ていた皆は、そろって首を右に向けつつ上から下へと視線を向け、最後に瓦礫からあがった土埃を見た。
ガルムは大急ぎで墜落地点に駆けていった。
「あいつは何をやっとるんだ……」
亘は呆れた声をだした。
チャラ夫が雨竜くんと戯れ遊んでいたかと思えば、いきなり突き飛ばされて空を飛んで墜落したのだ。しかもそれをした雨竜くんは、短な両手で頬を抑え目をぎゅっと目を瞑り、イツキの元に駆け戻っている。妥当な表現か不明だが、まるで恥じらう少女のような仕草だった。
グラウンドの周りの木々は、空の日射しに葉を煌めかせ、さらに向こう家々にある庭木も広げた枝葉も陰影が際立つ。そんな光の下で、半ば崩れた住宅街は静寂に包まれ、侘しげな景色が広がっている。硝子や金属などが、ところどころ反射して光って見える。
もう少しすると、この辺りも復旧のための作業が入るのだが、まだ計画だけで、設計や測量の作業が始まったばかりだった。
亘は景色を眺め、その事業計画を想像している。
こうして今は外に出て悪魔と戦い自由に行動しているが、しかし本来の仕事は違う。公務員として執務室に閉じこもり、事務机でパソコンに向かい、唐突に振ってくる上部機関からの無茶ぶりに応え、クレーム電話の対応に追われ、胃を痛くしながら予算と格闘せねばならない。
ふと思いだすのだが、選挙だの総裁変更だのとあれば、バカみたいな予算がばらまかれるに違いない。復旧復興に必要なことだが、それにかこつけ支持率増強という側面が強いことも事実だ。そして、唐突に降ってくる莫大な予算をどう処理し消化するかで、どこかの公務員たちが頭と胃を痛め寿命を削っているのだろう。
――それを思えば、今を大事にしないとな。
亘は今の幸せを認識し噛みしめた。
確かに面倒事や、唐突な無茶ぶりによるピンチもあるが、しかしこの程度は大した事が無い。上司は良い人で会話がしやすく理解もある。少し付き合いは難しいが、過度に勘に障る同僚もいない。仕事は悪魔退治で思うようにやれて、自分の裁量である程度自由に行動ができる。
――でも、こんなにも恵まれて大丈夫なのだろうか。
不安がないと逆に不安になるのが、不安の中で生きて来た人間の悪い癖。亘は急に何か落ち着かない気分になってきた。
今にきっと、この良い環境をぶち壊す何かが起きるのではないか。誰かがやって来て、全てを引っ繰り返し台無しにするのではないか。そんな根拠のない不安を覚えてしまう。
「どうかしました? 何か心配事でも?」
七海がじっと見つめてきた。
どこか心配そうな顔をしているが、もしかすると自分は不安を顔に出していたのかもしれない。亘は安心させるように軽く笑った。こんな不安など誰に説明したところで理解されるとは思えない。何より変な心配をさせたくないではないか。
「何でも無いよ」
優しく言った。
たとえ、万一何かが起きるにしても。大切な仲間が居て、側に七海がいてくれる。きっとそれが一番大事だ。目の前の大事な存在に目を向けず、まだ起きてもいない、起きるかどうかも分からないことを心配する必要などないではないか。
ちょっとだけ七海に近づいて、ちょっとだけ腕に触れて、存在を確かめ安心する。
風は心地よく、何か芳しいような穏やかな心安らぐ良い香りがする。
「さて、そろそろ帰ろうか」
向こうでは瓦礫を掘り返したガルムが、チャラ夫を咥えて引きずりながら戻ってくる。様子を見に行ったエルムとイツキが笑い声をあげ、神楽がつついて遊んでいるので、きっと何の問題もないだろう。どのみちチャラ夫のしぶとさは常識外だ。
亘は辺りを見回した。
その辺りで遊んでいるはずの金色の獣ことサキの姿がないのだ。
「いないな。サキのやつめ、どこ行きおったか? サキ、おいで」
聴覚に優れたサキには、軽く声を張りあげるだけで充分。亘が呼べば、そこらで遊んでいても、たちどころに走ってくるのである。
しかし今日は違った。
なかなか姿を現さない。もう一度声をあげ、さらに呼ぼうと思った頃になって、ようやく姿を現したのだ。
だがしかし、サキは、項垂れながらしおしおとやって来た。獣耳もぺたりと伏せて元気がない。尻尾はぴんっと立っているのは、後ろで抓まれ持ち上げられているからだった。
「…………」
亘はサキの尻尾を抓んだ相手を見て、目をまん丸にして軽く口を開けた。それは七海も神楽も同じ、エルムとイツキもチャラ夫も同じだった。何も知らぬ大宮たちは、わけの分からぬまま呆然として、しかし、その相手の清らかで神秘的な、桜の花を人にしたような流麗艶やかな姿に目を奪われている。
「やあ、来ちゃったよ」
そう言ってアマクニ様は微笑んで、サキの頭に手を置いた。
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