第346話 ぼかぁ何か違うと思います

 古い庁舎のフロアタイルは、ところどころ欠けて剥がれて、補修もされていない。

 自動ドアは電力節約で半開き状態。コンクリート剥き出しの壁には禁煙の張り紙があって、その紙も貼られたテープさえも黄色く色褪せていた。パンフレットスタンドにある官公庁案内などは、どれだけ置かれ放置されているのか、紙は湿気りによってしおれて半ばで曲がっていた。

 そんなNATS本部のある庁舎一階で、少し揉め事が起きている。

 いや、しかし揉めていると言うには少し違う。立ち話をする女性と警備員は、穏やか且つ親しげに話をしていたのだから。

「うちの息子が、ここらでお世話になっているそうなのよ。ちょっと顔をみたくなってね、遙々尋ねて来ましたのよ」

「奥さん、よくまあ遠くから無事に来られたもんだ」

「皆さん悪魔が流行ってるって言われますけどね、でも悪魔なんてちっとも出なかったのよね。本当に流行っているのかしら」

「悪魔を流行っているという言い方は、ぼかぁ何か違うと思いますがね」

 そろそろ定年間近な、初老の警備員はのんびりと言った。

 官公庁の警備をしていると、時々とんでもないクレーマーが押し掛けて来る。しかも、今は近くに避難キャンプがあるため何かと要求や要望が多い。しかし、今回は随分と気が楽だった。それだけに素の態度で対応をしている。

「なんにせよ、奥さんね。危険なのは本当だよ。さっきも、この辺りに悪魔が出たって警報が出ていたわけだし。でもまあ、子供が心配になる気持ちってのも分かるがね」

「幾つになっても子離れ出来ないと言われそうね。でも一人息子なのでしかたないのよ。お仕事頑張ってるらしいけれど、やっぱり親としては心配なのよ。だから中に入ったらいけないかしらね」

「ですから、奥さん。中に入れるわけにはいかんのだよ。そういう規則なんでねぇ」

「うんうん、そうよね。それでしたら、ちょっと息子を呼び出してくれないかしら」

「はぁ、仕方がない。そういう取り次ぎはやってないけどね。今回だけですよ」

「良かった頼んでみるものね。ありがたいわ」

 女性が両手を合わせ喜ぶ様子は、心からの感謝と分かる。


 クレーム過多で杓子定規な対応しか出来ない世の中だが、この女性との会話は古き良き、のんびりした時代に戻った気分にさせられる。

「そうすると、息子さんの所属とかどこかね?」

「そういえばどこだったかしら。NATSという場所だって聞いてましたけど、所属まで聞いてなかったわ。あの子ってばそういうことを、ちっとも言わないのよ」

「いやぁ、子供なんてそんなもんでしょう。それだと困ったな。NATSの何課なのかが分からないと。はてさて誰かに聞いてみるが、ちと手間だね」

「そうだわ、誰かと言えばヒヨちゃんは知ってます? とっても良い子の一文字ヒヨちゃん。もしくは長谷部志緒さんとか。あの子たちと一緒に働いているはずよ」

「はぁ、そりゃまた奥さん。随分とまあ、偉い人の名前を知っているもんだね」

 思わぬ名前に警備員は、やや大袈裟なぐらいに仰け反ってみせた。

「悪魔退治のスペシャリストで。しかも、もっととんでもなく凄い人とだって普通に話せるって噂の凄い人たちじゃないか」

「あらそうなの? とっても素直で良い子よ、ご飯もいっぱい食べてくれますし」

「よし分かった、直ぐに聞いてこよう。それで? 息子さんの名前は」

「亘という名前です、五条亘って言います」

 それを聞いた警備の男の顔から血の気が引き、年甲斐もなく階段を一段とばしで駆け上がるとNATS本部へと駆け込んだのは言うまでもなかった。


 正中は困っていた。

 室内に駆け込んできた警備員の男性から事情を聞いたものの、さりとて素直に信じる事はできなかったのだ。そもそも職場に職員の家族を名乗る相手がやって来たとしても、それが本当に家族かどうかなど分かるはずもない。

 普通であれば出直して貰うか、そのままロビーかどこかで待機してもらうだけだ。

 しかし無視出来ない名前が出されたため、対応に困っているのだった。

 五条亘の母親かどうかは五条亘本人に確認して貰うのが一番だが、しかし困った事に仲間を引き連れ出かけてしまって、いつ帰ってくるのか不明だ。もちろんヒヨも一緒。そうなると、長谷部志緒に確認させたいところだが、生憎と議員対応で当分は戻って来ない。

「しかたないな」

 一応会って話をする事にして、静かな廊下を進み階段を降り一階ロビーに到着。そこに小柄で髪は短めの女性がいた。いかにも地方から出て来たといった、朴訥自然な格好だ。

 その第一印象は、ほっとするというものだった。

 だからだろうか、正中は何年も会っていない、そして二度と会う事もない自分の母親を思い出してしまった。それも無能として一族を追放される前の、まだ母として優しくて接してくれた頃の母親の姿だ。

「失礼、五条亘君のお母様でいらっしゃいますか?」

「あらまっ、お母様だなんて丁寧に呼ばれると困ってしまうわ。はいはい、その五条亘の母で五条美佐子と言います。大変失礼しまして、こうして職場に来てしまいましたの」

「私は正中と申します。五条君は少し外出をしておりまして、申し訳ありませんが、戻りの時間が分からない状態になります。よろしければ中で待たれますか?」

 そう誘ったのは、心情的にほだされたからに他ならない。

 この女性は何故だか分からぬが、安心するような信用できるような何かがあった。


「あらまあ、ありがたいわ。そろそろ少し座りたいと、思っていたところなのよ」

「なるほどそうでしたか。二階の部屋で、お茶など如何でしょうか」

「助かるわぁ。ここまで一緒に来た子は、ちょっと散歩に行くって言って、ふらっとどこかに行ってしまって困っていたのよ。もう一人の子は外にいるから呼んでもいいかしらね」

「どうぞどうぞ」

「良かったわぁ、ほらオオムカデ君入ってきなさいな」

「は?」

 外に呼びかけられた声に正中は困惑した。

 直後のっそり入ってきた姿を見て、思わず後退ってしまう。

 それは明らかに悪魔で、甲冑のような赤と黒の甲殻に覆われ、両脇に短い足が幾本もある。ただしデフォルメされたような姿で二足歩行になっていることが解せない姿だ。しかし大きな力を秘めていることは間違いない。それこそ異界の主と呼ばれる域の中でも、さらに上層に位置づけられるような存在だ。

 警報発令の原因となった悪魔の目撃情報と、かなり酷似している。

「ほんとにねぇ、オオムカデ君たら遠慮深いのよ。荷物も持ってくれるし、わざわざドアを開けて待っててくれるし。夜回りもしてくれるから、地元だと大助かりなのよ」

「あの、悪魔なのでは……」

「悪魔なんて言ったら失礼ですよ、この子はオオムカデ君ですから。もしかしてオオムカデ君が恐い人? ここらの人は、何だかオオムカデ君を恐がるのよね。やっぱり隠れて貰って正解だったわ」

 言いながら、美佐子はオオムカデの黒光りするボディーを親しげに叩いている。軽く乾いた音が、静かなロビーに響き渡った。小気味良いはずの音が、正中には銅鑼の音のようにも思えた。

 しかも、そのオオムカデ君とやらは頭部を上下に動かし頷いている。

「…………」

 正中は悟った。目の前の女性は何故だか分からないが、この大きな力を秘めた悪魔を完全に手懐けているのだと。応対するのに、お茶だけでなく羊羹もつけねばなるまい。果たしてオオムカデ君は羊羹を食べるか、と正中が馬鹿な事を考えていると、玄関外に防衛隊の車両が急停止した。


 見るからに慌てた様子で、車両のドアの開閉音がする。

 自動ドアの硝子越しに見えたのは五条亘の姿だった。正中にとっては救世主の到来に思えた。だが、五条亘は困ったような疲れたような顔で、何か様子がおかしい。しかも見覚えのない一人の女性を丁寧にエスコートしている。

 何故かオオムカデ君は、美佐子の後ろにそそくさと隠れてしまった。

「あらま、アマクニちゃんを連れてきたのね。うちの息子も、しっかりしているわ」

 どやどやと足音を響かせ入った五条亘は丁寧に、それこそ見た事もないぐらいに丁寧かつ礼儀正しく女性を案内している。

 正中は心がびりびりした。

 人が持つ本能として、その女性が畏怖すべき存在だと告げている。心が気圧され自然に頭を下げたくなるような気持ちが込み上げてくる。その女性の姿は雅味があって雰囲気からして美麗、顔立ちは整い壮麗で、眼差しは神秘的な叡智を湛え冷然として澄んでいる。

 その女性は軽く手をあげた。

「ちーっす」

 正中は己の耳を疑った。

 そこらの馬鹿な子供が言いそうな言葉を、存在が典雅な女性が言ったとは信じられなかったのだ。

「ちょいとアマクニちゃん、そんな挨拶はおよしなさいよ」

「そうは言うがね。これはチャラ夫言語というものの、省略挨拶らしいんだよ」

「まったく!」

 美佐子は目を怒らせ、じろりと睨んだ。たったそれだけで、五条亘を震え上がらせるという偉業をなしとげている。

「あんたね、アマクニちゃんに変な事を教えたのは」

「ちょっと待って、それは誤解だから」

「お黙んなさい。あんたときたら、ちょっとは大人になったかと思ってたのに。相変わらず子供みたいに馬鹿なことをして。折角見直していたのが台無しだわ」

 喧々囂々と叱る声が静かなロビーに響き渡り、女性は不思議そうに、しかし楽しそうに、その姿を眺めている。

 正中は新たな胃痛の種の訪れを確信していた。

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