第342話 凄く傷つきやすくて拗ねやすくて繊細
本部の駐車場に車を駐め歩きだしたところで、亘はすぐに荒々しい声に気付いた。
太陽はビルより低い位置にあって、赤さを加えた光がとても眩しい。思いのほか外出が長引いてしまったのは、仲間との会話が楽しかったからだ。たわいもない話に笑い声、主には聞き役だっただけに、亘の心にはそれが残り香のように漂っている。
だから気分はすっかり良く、やや御機嫌だ。
そよそよと吹く風に、食堂からの食欲を刺激する匂いが混ざっている。肩に腰掛ける神楽がそちらを気にしていて、手を繋いでいるサキも同じだ。付近では夜に備えて、慌ただしく人々が行き来している。
同じように亘にも、ひと仕事ある。
七海たちを玄関先で降ろしたのは、外出許可の事後承諾と報告を、上司である正中にする事だ。それを片付ければ、また合流して一緒に夕食となる。想像しなくとも楽しい気分であった。
「だからなぁ! さっきから何度も説明してんだろが」
荒々しい声に、亘は反射的に警戒の目を向ける。
大人と言える年齢になって随分と経つが、荒い言葉を恐れる子供時代の習性は今も残っている。それどころか、社会人生活での叱責やら理不尽な環境で、むしろ悪化しているかもしれない。
だが亘は臆病心を抑え込んだ。
それが自分に向けられた言葉ではないからである。そっと窺うと、荒々しい声は、腰高の植え込みを挟んだ向こう側の、ちょうど看板が死角となった辺りから聞こえていた。そっと覗いてみる。
「だから何度も説明してるだろ。なんで分からないんだ、バカじゃねえの?」
防衛隊の士官が女性に詰め寄っていた。
亘が軽く眉を寄せたのは、詰め寄られているのが女性で、しかも少しだけ見覚えがあったからだ。NATSの支部の職員で、名前は知らないし、特に会話をしたこともない。時々本部に書類を持って来た時などに会釈程度の挨拶をするような、ぎりぎり顔見知りといった相手だ。
「そうは言われても、急にはどうしようもありません!」
「なるほど分かった。そっちがそう言うなら、こっちは勝手にやらせて貰う。倉庫の資材は必要なだけ持っていく。俺はお前に伝えた、後はお前の責任だ!」
「そんなっ! 勝手言わないで下さい!」
「だったら何とかしろっての! 俺らには、その資材が必要で。生きる死ぬに関わるんだぞ! 俺らに死ねっていうのか!?」
「言ってません! でも数量が管理されてます。だから勝手にはダメです!」
「へぇ? 管理しているというのに、その資材を使うなと? NATSは、資材を溜め込んでいるだけなのか。バッカじゃねぇの使えよ。あんたら、やる気があるのか、ないのかどっちなんだよ?」
防衛隊の士官は口が悪くポンポン言う。しかしNATSの女性職員も、上手くやりすごせばいいものを、正面切って言い返している。気の強い者同士が言い合うと、どうなるかという見本のような状況だ。
顔を引っ込めようとした亘だが、その前に女性と目が合ってしまった。こうなると、逃げたように思われたくないがため口を挟むしかなくなる。
「何があったんですか?」
割って入って言うと、相手の士官は一瞬訝しげな様子をみせたが、直ぐにジロリとした喧嘩腰の目を向けてくる。
「なんだお前は……お前、五条!! いえ、五条殿!」
目が大きく見開かれ口が半開きとなって、顔から血の気が引いていく。飛び上がるようにして姿勢を正すと、震える手で敬礼までしてみせた。その額には珠のような汗がびっしりと浮かんでいる。
「お騒がせして申し訳ありませんです!」
「あの、何か揉め事です?」
「いいえ、はい! 何も問題ありません! 資材の件で相談がありましたが、それにつきましては誤解があり。鋭意努力しまして対処いたします」
「でも困っているなら、NATSでも対応しますけど」
「ありがとうございます! ですが、当方で適宜対応してみせます!」
士官は急いで言った。回れ右すると振り返らず、戸惑い訝しむような亘の目から、逃げるようにして早足で去って行った。何がなんだか分からない。
「大丈夫でした?」
「げっ!」
今度はNATSの職員に目を向けると、その女性は表情に露骨な恐怖を浮かべ、変な声をあげた。さらに身を仰け反らせ、大袈裟なまでの様子で後ずさり。ついには、小動物のように走り去ってしまった。
「……あれ?」
亘は差し出した手の持って行き先が無くなって、しばしそれを見つめたあとに、元に戻した。なんだか凄く寂しいような、侘しい気分だ。折角の楽しい気分に水を掛けられた感じである。
頭上で動く気配があった。
「ちょっと何なのさ。なんだか、すっごく失礼な感じ! ボクのマスターのこと避けてるみたいな感じだよね。表情とかぶすっとして、見た目が話しかけにくい感じなのは分かるけどさ。ああいうのはないよね。マスターって、凄く傷つきやすくて拗ねやすくて繊細なんだからさ。失礼な態度は止めて欲しいのに」
「…………」
頭上で騒ぐ神楽の声に、亘は目と意識を上に向けた。むしろ神楽の方が失礼な気はするが、しかし信頼して大事に思ってくれていることは伝わる。サキも背中をよじ登ってきて、そのまま張り付くように載ってくる。重くて邪魔だが慰めているのだろう、多分。
「まあいいさ、別にどうだっていい」
不満げな顔でふわふわ飛ぶ神楽を促し、サキを肩に載せ歩きだす。
しかし、亘は面白くない気分になる一方であった。面白くないという言い方を正確に言い表すと、少し拗ねてふて腐れた軽い怒りを加えた状態である。
なぜそうなったかと言えば。
すれ違いそうになった相手に飛び退かれて壁に張り付かれたり、目があった途端に道を変えられたり、露骨に驚き恐れの顔をされて回れ右されたり。あげく小さな子などは目が合った途端にガタガタ震えだし、声すらあげずボロボロ泣いたりするのだ。
何がなんだか分からない。
しかし自分が恐がられている事は分かった。
「…………」
「あのさボクさ思うんだけどさ、気にしたらダメだよ。うん、ちょっとした誤解とか何かがあるんだよきっと」
「誤解か……なんで誤解されたんだ」
「さあ?」
「式典で少し脅かしすぎたか?」
「別に、あれぐらいフツーだって思うけど」
神楽は腕組みして首を捻るが、亘は自分の行動を振り返ってみた。今日の式典でちょっとだけ――本当にちょっとだけ――皆を襲うつもりになったことが原因のような気がした。
もちろん気がするどころでなく、間違いなくそれが原因だった。
しかし認めたくないものだ、自分自身の愚かさ故の過ちというものを。
「まあいい。さっさと報告して、夕食にしよう」
「そだね! ご飯大事だよね!」
階段をあがって廊下に出て、少し進んでドアを開ける。ノックなどしないのは、そこがNATSの本部だからだ。そこにいる皆は、ありがたい事に恐れるような態度はとらなかった。
だがしかし、なぜだろう。皆が恨みがましい目を向けてくる。
「……?」
亘は知らない。自分が立ち去った後の会場の、いろんなモノが垂れ流されて、
嗅覚の鋭いサキは残り香を感じて嫌そうな顔になり、亘の服に顔を埋めた。そうして吐息が肌に触れると、湿気を含むため熱くこそばゆい。
「えーと、何かありました?」
「何か? ほほう、君は何かと尋ねるわけかね」
正中が常とは違う様子で片頬をあげ、鼻息も荒く笑っている。この冷静な人物にしても、やはり臭う作業は心にきているのだった。
「君は自分が何をやったか分かってないのかな」
「皆の前で話をしましたが。いきなりですよ、事前の調整もなにもなしで。いきなり呼ばれて。なかなか大変でしたが、まあ何とか? 何とかなった感じですか」
「何とか。そう、何とかなったね。お陰で悪魔の脅威というものを、皆様が身を持って経験してくれたよ。危機感が高まって悪魔恐いと、かつてない意気込みだ。これはもう万々歳だよ」
「そうですか。それは良かった」
「だからと言って、あそこまでやる事はなかったと思うがね」
正中は荒々しい声で言った。お陰で亘は少し怯んだが、拗ねてふて腐れ気味な気分であることに加えて、相手が気心知れた正中であるため、萎縮することはなかった。
「そんなに怒らなくても」
「これが怒らいでか! ふふふっ、相応の懲罰を覚悟したまえよ。これは、始末書程度ではすまないかもしれない」
亘は怯んだ。組織に所属する人間として懲罰という言葉は心に堪えるものがある。公務員がクビにならない時代は既に遠い過去で、今は普通にクビになる時代で安定神話は崩壊している。
だがしかし姑息に思考を巡らせれば、今は戦力を一人でも減らしたくない状況だと踏んだ。もちろん自分が戦力の要とは少しも思っていないが、きっと大丈夫だろうと予測し精々が降格程度だろうと考えた。そして、それはむしろ望むところだ。
「懲罰ですか。どうぞどうぞ、降格して貰えるなら万々歳ですよ」
「なるほど……」
正中はかつてない邪悪な笑みを浮かべた。
「宜しい。それでは、私の権限で君に懲罰を下させて貰おう。懲罰昇進だ!」
「えっ? 懲罰……え、昇進?」
亘は聞き慣れない言葉に目を何度も瞬かせるが、意味を理解した途端に狼狽えた。
「ちょっと待って下さい。そういうのは、ないでしょう」
「君も組織関係の苦労を知るべきだ。部下の問題で各方面に頭を下げて調整して、謝罪行脚する苦労を味わうがいい」
「冗談ですよね。昇進なんて止めて下さいよ」
「うるさい、私はやるぞ。やると言ったやる! 昇進してしまえ」
「止めて下さい。そういうのは本当にダメですって」
NATSの本部で不毛な言い争いが繰り広げられ、ついには亘は誤魔化し逃げ出した。その情けない姿が式典での恐ろしい姿を緩和し、これまでの付き合いなどもあって、亘に対して仕方ないというぐらいに収まったのは事実だ。
そして亘は食堂に行って、仲間に愚痴をこぼした。
だが、懲罰昇進という聞き慣れない言葉に皆は困惑。七海ですら返事をどうすれば良いか困ってしまった。
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