第341話 雲の散った青空のように
灰色をしたコンクリートの建物は、その殆どの壁が崩れてしまって、形としてはまだ残っているものの、とても人が住めるような状態ではなかった。辺りの地面には、その瓦礫が転がっている。周囲に広がる町並みのあちこちに、似た状態の家屋が幾つもあって、ここで大きな騒動があった事を強く想像させた。
侘しげな景色を眺めながら、亘は襲って来た悪魔を片手で殴り倒し、そのままアスファルトの道路を進んだ。足元はやはり様々な種類の瓦礫が散乱して、車が通行するには難しい状態だった。
爽やかな澄んだ青色の空には白雲が多く、昼時の一番日射しが強くなりそうな頃合いだった。だが、大きく厚めの雲を通して柔らかめの光が差し込んでくるため、熱いとか眩しいといった感覚はない。
亘は逃げようとした牛に似た悪魔を捕まえ一撃を加える。手応えからすると、5DPぐらいの強さに思えた。
「…………」
目の届く範囲では、やはり悪魔と戦っている少女たちの姿がある。それは式典の会場から一緒に来た七海たちだ。目の届く範囲にいるよう言ったことを、しっかり守ってくれているらしい。
動きを止めたままぼんやりと、少女たちの華やいだ動きを眺める。
何と言うべきだろうか、そこには目を惹きつけるものがあって、自然と視線が吸い寄せられてしまうのだ。改めて自分の思考を精査してみても、イヤらしさや下心はないが、ついつい見つめてしまう。強いて言うのなら、存在が気になる感じだ。
ちょっとだけ癒やされて、しかし直ぐに憂鬱な気分の原因を思いだしてしまって、亘は肩を落とし僅かな仕草で頭を振った。目線も自然と足元を向いてしまう。
「……ふぅ」
今の気分は、声に出して息を吐いてしまうほど、落ち込んでいる。
式典会場で無様をさらした。
それもひどく。
人前ですっかり緊張してしまって、頭が真っ白になったあげく、そこから他人を害しようとさえ考えた。あの時は完全に人が悪魔に思えて、仲間を除いた全員と戦う気にさえなっていた。それは完全な失態であるし、言い訳のしようがない事だった。
これが気落ちの原因の一つだ。
一つということで、他にも理由がある。
自分の一貫性のなさも情けなく思えている。人の上に立つのは嫌だ、世界の支配者はバカバカしい、そんなことをチャラ夫に語って――しかも偉そうに――みせたくせに。それがもう気分一つで、あっさり引っ繰り返してしまった。信念や芯と言うべきものを持たず、その場しのぎで生きている自分が、ひどく薄っぺらく思えてしまう。
他には緊張して声が詰まったことや、茫然と立ち尽くしたことや、まともな事を喋れなかったことなどなどを皆が笑っているだろうと思えた。その想像は、亘の気持ちをますます重くした。
こんな時に人は布団にくるまり悶えるのかもしれない。しかし亘の場合は、今が日中という事もあるが、外を走り回って悪魔を倒し憂さ晴らしをしている。
これは歴とした理由もあった。
嫌な事に遭遇した場合は、記憶が新しい間に、多くの情報で上書きするのが一番なのだ。これがもし一晩寝てしまうと、脳が情報を整理してしまって強く記憶されてしまう。だからその前に本を朗読するとか、歩き回って景色を見るとか、過多な情報に身をさらすべきなのだ。だから、そうした理由で悪魔と戦っている。
これまで嫌な思いを何度もしただけに、それを軽減する方法も自然と身に付けているのだ。けれど今回は、ちょっと出来事が重たすぎて、記憶の上書きは簡単そうではなかった。
「どないしたん?」
不意にエルムの声が、亘の考えを断ちきった。いつの間にか側に来ていたようだ。
はっきりした目鼻立ちの明るい顔立ちに、悪戯でも企んでいるような色を浮かべ、覗き込むように見上げている。その黒い瞳の中に自分の影を見つけて、亘は少しだけ照れるような気持ちを感じた。
「もしかして疲れたん?」
「まさか、そんなはずない。これぐらいは平気だ」
亘は眩しいものを見たように視線を逸らした。向こうではイツキが張り切った様子で走り回って戦って、その素早い動きの後ろを、雨竜くんが短い手をふりふり追いかけている。たぶん良いコンビだ。
「もしかしてなんやけど、さっきの会場でのこととか考えとったり?」
「…………」
「あっ、図星やったんな。うちも、五条はんのことがちっとは分かるようになってきたんな。でもまっ、ナーナには敵わんのやけどな」
言ってエルムは、にししっと楽しげに笑って背中をばしばし叩いてくる。
元気だ、今の亘の落ち込みを加速させるぐらいに元気だ。しかし、軽く抱きつくような仕草から感じる体温が、亘の中にわだかまる嫌な記憶を急速に削っていくのも事実だった。男という生物はとても単純だ。
「うちも思うけど、やっぱああいうの。やっとかなあかんよね」
エルムは頷きながら言った。
しかし亘は返事をしない。沈黙は金と言うが、まさにそれで、エルムの言葉の意味が分かるまで迂闊な発言を控えているのだ。
「ちょーっと、やりすぎって感じもあるかもしれんけど。うちは、ええと思うよ」
「……ん?」
「男は黙って何とやら。あれで皆も気合い入ったんとちゃう? 知らんけど」
「まあ気合い、気合いかぁ」
エルムがどんな意図か分からぬので、亘は返事ともつかない曖昧な言葉をした。相手の言葉を拾って意味深に呟き反応を誘い、言葉を引き出し意図を把握するという、社会人生活で培った姑息にしてささやかな小細工だ。
たいてい上手く行く、そして今回も上手く行った。
「そうそう、気合いやん。うちも思っとったけど、皆って凄い浮かれとったやら。言い方悪いけど調子にのっとって、そんで自分は特別やって思って、これから悪魔と戦うって気持ちは少しも感じんかったやら。あのまんま戦いに出とったら、最悪の結果になっとったかもしれん」
「ふむ」
亘は自分の顎を撫で、ふむふむと頷いた。
なんとなくではあったが、エルムの思っていることが見えてきたのだ。
「でもな。そこで五条はんがガツンッとやって、チャラ夫はんが言っとった戦いの心得ってのをバシッと示してくれたやら。これで、ばっちり引き締まったんな」
保身思考の巡りは素早い。
どうやら緊張していたとは思われていなさそうだ。黙って立ち尽くしたことも、理由あってと思われているようだ。そして何より戦闘態勢になったことが、むしろ良い事として好意的に捉えられている。
そう思ってみると不思議なもので、自分でもそんな気になってくる。気分は晴れやか清々しく、心の澱は綺麗さっぱり隅へと追いやられていく。だがしかし亘は用心深い。これはエルムの意見だけで、他の者まで同じとは限らない。
ヒヨが来た。
うきうきと少女のような歩きをして、少女と呼べる相手の隣に並ぶ。
「ですねー、びりびりする感じが最高だったんですよ。あれいいですね、闘魂注入なんですよ! 私が思うに、今度からアマテラスの皆にも受けさせるべきですね。体験学習というやつです」
「ヒヨはん、そら臨死体験させるようなもんやって」
「そうです? でも私は良いと思うんですよね。だって、さっきの皆さんだって、あのまま戦いに出てましたら本当に全滅すると思いますもの。だから、先に死ぬような体験できて良かったですよね。あっ、ちなみに全滅とは全体の五割が損耗した場合らしいんですよ」
人差し指を立てたヒヨが、豆知識を披露してみせる。
そうして足音がして、七海とイツキがやって来た。その護衛につけておいた神楽と雨竜くんも一緒だった。
サキは辺りを走り回っている。
ただし何か目的があってではないらしく、縦横無尽に辺りを走っているだけだ。例えるなら、しばらく外で遊べなかった子供が全力で走り回っているような状態なのだろう。呼べば即座に来るのは間違いないので、亘は好きにさせておく事にした。
「マスターってばさ、ボクがいないと寂しかったでしょ。そだよね」
「別に」
「またそーいうこと言うんだから」
神楽は文句のような言葉を口にした。それでいて、さっさと亘の頭に載っかって適当に髪の毛を踏み分けて、ずっとそこに居たかのように寛いでしまう。軽く頭を揺らしてみるが、嬉しげな声をあげるばかりで効果がない。
揃って立ち話もなんなので、壊れた道路の縁石に腰を降ろした。後ろからイツキが抱きついて来て、頭に顎をのせてくる。それに神楽が領有権を主張するような事を言っているようだ。
そちらをどうするか考えていると、七海が目の前でしゃがんだ。女の子らしい座り方で両手を頬に当てている。そんな事をされると亘の目線は下に――具体的には足の間に――注がれそうになってしまい、これを上にあげると僅かに開いた胸元に向きそうになり、しかし顔を見つめることも出来ないので、結局は肩越しに景色を見ねばならなかった。
だが、七海は真正面から亘を見つめてくる。
「五条さん。今日はちょっと、やり過ぎでしたよ」
「えっ? ああ、まあ……そうだったか」
「そうですよ。それにああいう時は誰かを、たとえば私とかですと嬉しいですけど、見て欲しかったなと思います。そうすれば気分も違ったはずですから」
「…………」
亘は七海の言葉に懸念を覚えた。その言葉ぶりから、自分が緊張していたことを気付かれていたのではと思ったのだ。心の中に不安が再燃してしまい、もちろんそれは毛ほども顔には出さないが、また気分が低迷してしまう。
ふいに七海が軽く手を振った。
「あっ、別に変な意味ではないですよ。つまりですね、私を見て貰えば……そうです、皆を脅かす時にですね。どれぐらいが頃合いなのかとか、そういうことを合図できるのではないかという意味なんです」
「そうか……?」
「はい、そうですよ。そういう意味です」
「……気を使わせてすまない」
どうやら気付かれていないようで、亘は安堵して空の白雲を見やった。既に雲は散りつつある。そちらに気を取られ、七海が安堵する様子を見る事はなかった。ついでに言えば、七海の眼を過ぎった怒りの色も見ていない。
「ところでですが、チャラ夫くんはどうしますか。もちろん言われたように、しっかり一対一で戦闘訓練するのですよね」
「ああ、そういえばそんな事を言ったな。だが、まあ――」
「ちゃんとやりましょう。ええ、絶対にその方が良いと思います。なんでしたら、私も五条さんに協力しますよ。そういうのを、とってもやりたい気分ですから」
「七海にしては、やけに積極的だな。だが、それもいいな」
亘は呟いた。
ようやく嫌な記憶は薄らいでいるが、しかしチャラ夫への恨みが消えたわけではないのだ。なぜか頭上で震えている神楽を不思議に思いつつ、亘は軽く笑った。雲の散った青空のように、心のわだかまりは隅に行き、気分は晴れやかだ。
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