第340話 人、それをトラウマと呼ぶ

 ――許せない。

 目の前の全ての相手を集めたとしても、それでも自分は勝てるだろう。全部を滅茶苦茶にして、全部を放り出しても、生きていける力もある。それであれば何も恐れる必要は無い。

 緊張からくる混乱で、亘は力で物事を解決することしか考えていない。それは恐怖と不安の裏返しなのだろう。それをすればどうなるか、簡単な予想も出来ない状態になっている。

 浅はかな子供のように力の優劣だけを、思慮の足りぬ者のように視野狭窄に、失うもののない大人のように自暴自棄に。

 これまで亘が亘であるため、無意識に抑えていた心の枷が軋んだ。

「…………」

 硬い顔の眉が弛み、目が大きく開かれ、きつく結ばれていた唇の口角が上がった。

 意識が戦闘状態に切り替わったのだ。鼓動に併せ身体中に力が行き渡って、頭の中が熱くなっていくと、緊張は瞬時に消え去ってしまう。人が倒すべき悪魔のように見えてきた。

 殺る気のやる気に満ちた目をすれば、早くも変化を察知した狐の一族や雨竜くんは、トラウマで震えあがった。一部の勘の鋭い従魔は怯えて騒ぎだすのだが、勘の鈍い人間たちは理由も分からず、訝しんで叱って宥めようとするばかりだ。

「ちょっ、兄貴? そういうのダメっすよ、いやマジで……」

 チャラ夫は流石に険呑な雰囲気に気付いたが、それが自分のせいとは少しも思っていない。亘はチャラ夫は気にせず、戦いに意識を寄せ興奮状態に移行した。

 神楽が七海の肩から飛び立って、会場全体を見回した。そこに顔見知りや仲良しの人間はいたが、しかし一番大事な存在が本気でそれと敵対するならば、全ては敵でしかない。既に人見知りなど、吹き飛んでしまっている。

 半分寝ていたサキの目が大きく見開かれた。瞳の緋色が強く濃くなって、喉の奥から低い唸りが零れだす。やはり周りを敵と認識しだし、椅子を蹴って大きく跳んで、その敵たちと戦うために最適の位置をとった。

 半分震えていた雨竜くんの目が大きく開かれた。円らな瞳に涙が盛り上がって、喉の奥からか細い悲鳴が零れだす。周りに恐ろしいことが起きたと認識しだし、椅子から転げ落ちて、腰砕け状態で這ってイツキの側に行った。守ろうとしたのか助けを求めたかは不明だ。


 ここでようやく、勘の鈍い人間たちも異様な雰囲気に気付いた。肌を逆撫でするような嫌な雰囲気に不安を感じ、不穏な空気を察知し怯えだしている。

 亘は無言の圧を強めた。

「…………」

 視界の端で動きを捉え一瞥した。会場警備のNATSや防衛隊が、慌ただしげな動きをみせ、銃器を手に集まろうとしている。どうやら、こちらを止めようと制圧するつもりらしい。

 ――いつもそうだな。

 亘は心の中で嘲笑った。

 世の中の多くの者は口では弱者を守ると言いながら、弱い立場の者を踏みにじって生きている。それでいて、弱い者が少しでも反抗しようとすれば、かさに懸かって抑え込もうとする。パワハラでも格差でも何でもそうで、強者は強者のままでいようと、弱者を決して逃がすまいと力で抑えてくる。

 亘は不愉快さを込め睨んだ。

 とたんに銃器を手にした者たちの動きが止まった。青冷めた顔が妙に面白い。

 ――人生は大人しい者が損をする。

 世の中は、自己主張が強く口が達者で気の強い者が有利なのだ。熟考して控え目に、そして丁寧に優しく生きる者が不利となる。面倒事を避けて大人しくしているだけでも、それを周りはバカにしてくる。

 あの偉そうな理想論を垂れた橋詰政務官の姿を見つけた。こちらを見下してバカにしていた顔が、今はすっかり引きつっている。目が合った途端に、子供のように泣き出しそうな顔になっている。

 ――最高じゃないか。

 亘は愉快になってきた。

 どんどん圧を高めていく。

 会場の中で恐怖のざわめきが膨らんで、ついには泣き出した子供さえいる。それでも誰も逃げないのは、これまで経験したことのない恐怖に、どうすべきか分からないのだろう。もし誰か一人でも逃げだせば、残りも一斉に逃げだすかもしれない。しかし、皆が同調して互いの動きを封じているため、最初の一人が出ないのだ。

 震えるばかりの者を、やはり嘲笑する。

 ――こんな連中が戦うとかバカバカしい。

 しかし大宮たちを見れば直立不動で整列して、しっかりと視線を受け止めてくるではないか。木屋も簀戸も近村もスナガシも同じで、いずれ劣らぬ姿で背筋を伸ばし堂々と立っていた。何か指示すれば即座に動ける態勢だ。やはり実戦を経験した者は面構えが違う。

 講習会の指導方法に他から文句を言われもしたが、こうしてみれば、誰の指導が正しかったかは一目瞭然ではないか。気分の良くなった亘は、さらに自分の力を誇示せんがために、身体に蓄えられたDPを暴走させた。


 何もしていない。

 ただ立っているだけだ。

 しかし細かな紫電を纏いだした姿を見た瞬間に、会場の人々は思ってしまった。存在が違うと。先程まで泣いたり騒いでいた連中も、一斉に押し黙った。もはや足が竦んで動けない。下手に動けば死ぬと本能が告げていた。

 既に経験していた大宮たちは、むしろ動かない方が良いと意図して動きを止め、気圧されながら必死に耐えている。NATSや防衛隊など、洗礼を受けた一部も同様だ。雲林院など心得のある者は気合いを入れ対抗していたが、それだけで精一杯で身動きもとれない。狐の一族は無駄な抗いは止めて、さっさと正体を現して狐の姿で小さくなっていた。

「これ、どないするんや?」

「流石です。びりびりする力が素敵なんです!」

「そーいう問題やないと思うやけど」

「いえ、そういう問題なんですよ」

 うっとりするヒヨにエルムは呆れ気味だ。その横でイツキは頑なに側を離れない雨竜くんに、ちょっとだけ手を焼いていた。

「大丈夫なんだぞ。だって小父さんなんだぜ、別に恐がる必要なんてないんだぞ」

 それぞれが平気な理由は、イツキの言葉に尽きる。自分たちが襲われることはないと理解しているので、恐がる理由はないのだ。そうとは言えど、この状態をどうしたものかと手をこまねいている。

 諸悪の根源のチャラ夫も同じ理由で――しかし自分が少しも悪いとも思わず――どうしてこうなったと頭を抱えている。あげくに能天気なだけに、ただ単に亘が皆を脅かしているだけと思っているのだ。

 そして七海は、静まり返った中を進んで壇上にまで来ていた。

 誰も恐くて近寄れない相手を心の底から信じきって――それどころか攻撃されても気にもしないに違いない――恐いなど欠片も思わずに近づいていく。

「そういうのはダメです、五条さんらしくありませんよ」

 軽く注意するような口ぶりには、促し示すような色がある。

 七海の手がそっと触れた途端に、亘の混乱は瞬時に解除された。

「むっ……」

 我に返った亘は、自分がやろうとしたことに気付いた。

 同時に猛烈に恥じ入ってしまのは、自分がされて嫌だったことを自分がやろうとしていたからだ。力を誇示して威張ったり、または他人を嬲ろうとするなど最悪だ。それが堪らなく自己嫌悪を掻き立ててしまう。


 ざっと会場を見回す。

 棒のように立っている者もいれば、床に座り込んでいる者もいる。殆んど全ての者が下を向いてしまって、どんな表情をしているかも見えやしない。

 ――これはマズいぞ。

 この場をやり過ごす方法を考え、手に持ったままだったマイクを口元に運ぶ。

「えー、頑張りましょう」

 ひと言だけ告げると、何事もなかったかのように礼儀正しく一歩下がって一礼。うっかりマイクを持ったまま歩きかけると、七海がそっと受け取ってフォローをしてくれる。

 チャラ夫が追いかけるようにして並んで声を潜めた。

「兄貴、これはちょっとやり過ぎっすよ」

「うるさい、黙れ。後で一対一の戦闘訓練だ、覚えていろよ」

「ちょっ!? 俺っち何か悪いことしたんすか!? 酷す!」

 声を潜めて騒ぐチャラ夫を置いて、そのまま端まで行った亘は国旗に一礼、壇上の来賓に一礼。短い階段を一歩ずつ降りて、その先にいる来賓たちへも一礼。

 七海と一緒に歩きだしたところに神楽が飛んできて、頭の上に着地。サキも走ってきて、飛びつくようにして手を繋ぐ。更にエルムやイツキにヒヨまで合流してくるので、そのまま一緒に、ゆったりとした足取りで――実際には走って逃げたい気分を抑えて――会場を後にしてしまった。

 残されたチャラ夫はそれを見送り、困った様子で頭を掻き、演台に行ってマイクを手に取った。

「えーっとっすね。兄貴からのありがたーい、お言葉を頂いたっす。この頑張りましょうという言葉はつまり、あれっす。あれ。何事につけても頑張るのが一番ってことっすね。もちろん戦うのも休むのも、全部が全部ってことっすよ。うーん、深い言葉っすよね。いやぁ、素晴らしいっす」

 チャラ夫は何とかフォローしようと、一生懸命に語っている。

 だが会場で棒のように立っていた者たちは、チャラ夫の言葉を契機にしてか、一人倒れ二人倒れ地面の上に崩れると放心状態となった。

 お偉方は椅子に座ったまま気絶しているが、土の地面はさておき、壇上の床には異臭のする水溜まりができていた。橋詰政務官など一部は、もっと凄い事になっている。凄い惨事だ。

「これ、どーしたらいいっすかぁ!? 衛生兵ー! というか清掃員ー! 誰かオムツ持って来てあげてー!」

 ただ幸いであったのは、あまりの恐怖に大半の者が意識の防衛反応で、この時のことを頑なに口にしようとしなかったことだろう。

 人、それをトラウマと呼ぶ。

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