閑61話 猫じゃなくて虎
遠く黒い山影の向こうに眩い塊が姿を表した。
見つめることも出来ぬ純白を黄金色が囲み、そこから放射状の光が広がり、既に白んでいた空に青さを与え、大地には朝をもたらす。
微かに湿気を含む空気は清浄そのもので、空色をしたシャツに白い半ズボン姿のイツキは深く大きく深呼吸をした。少年のような格好だが、胸元のふっくらさと柔らかな線で出来た身体つきで少女だと分かる。
「朝だ、朝だー」
イツキは楽しげに歌い元気よく体操をするが、まだまだ子供といった様子だ。
その横で鰐のような顔をした寸胴の生き物が同じ動きをしている。なお、まだ体操の動きを理解していないらしく、隣を観察しつつ動きを追いかけるのに精一杯だ。
「よっし、体操終了! 俺は軽く走ってくるから、雨竜くんは待ってるんだぞ」
言ってイツキは軽やかに走りだした。
途中で顔なじみになった人達と元気よく挨拶をしていくが、炊事担当や清掃担当や、夜間警備で夜を過ごした人たちだ。多くの人が眠りにつく中で、その生活を支える人への感謝を忘れないための挨拶であった。
今では皆もイツキに手を振り、声を掛けてくれるぐらいだ。
階段を駆け上がり車の上を跳んで越え、ビルをよじ登って反対側の足場を軽々と降りる。木々の間を左右に避けつつ駆け抜け、フェンスの上を一直線に走り抜け、平らな道路を全力で進む。最後は巡視で走っていた車を抜き去りながら手を振り、そのまま門から入ってラストスパート。
最後に軽く跳んで両足を揃えて着地で、元の場所に戻ってきた。
「はい、朝の鍛錬終わりっと……あれ?」
しかし、走り出す前の場所に雨竜くんの姿はなかった。
大抵は律儀に待っているのだが、偶に馴染んだ人たちに呼ばれ、力仕事などを手伝っていたりするのだが……辺りを見回すと、今日はそうではなかったらしい。
少しばかり離れた場所で、猫と一緒の雨竜くんの姿があったのだ。
白地に黒の縞模様が入った白縞猫は、目付き顔つきが険しく堂々としている。猫にしては少し大柄だが、どこか風格のようなものがあった。
「そいつ雨竜くんの友達なのか?」
鰐のような頭が何度も上下する。
お人好しとしか言い様のない雨竜くんは、戦う時は全力で戦うが、しかし基本的に争いは好まない。戦いの空しさや、敗れし者の哀しみや辛さを熟知しているかのように穏和な性格だ。
「そっか友達か」
近寄ったイツキに白縞猫は警戒の色を見せていたが、しかし雨竜くんが何かを言ったらしく、途端に警戒度合いを半減させた。
「こんにちは。その毛並み綺麗だな、触ってもいいか?」
しゃがみ込んだイツキに対し白縞猫は戸惑いをみせ、それから差し出された手に軽い頭突きの挨拶をしてみせた。背を撫でられると尻尾をピンッと立て、首周りや顎下を掻かれると目を細めている。
白縞猫が地面に横たわり身体をくねらせ催促すると、イツキは楽しげに笑いながら両手で梳くように撫でていく。
「なんだもっとか、仕方のない奴だなぁ。ほらほら、これでどうだ」
すっかり夢中になっていたせいか、近づいて来る足音に気付かなかった。ただし気付いた後も、相手が誰かを瞬時に判別したので気にもしなかったのだが。
珍しく早起きした亘は朝の散歩をしていた。
ただし目が覚めたのは、寝ぼけた神楽が顔に張り付いて息が出来なかったからだ。そのため微妙に不機嫌だ。恨みがましい目で横に居る小さな姿を睨む。
「危うく窒息するとこだったぞ」
「ボク悪くないもん。わざとじゃないもん、仕方ないもん」
「もんもん煩いぞ」
「なにさそれ、もんもんなんて言ってないもん」
言いながら神楽は、辺りに漂う調理の匂いが気になり動きを止めている。サキなどは匂いに誘われ、ふらふらと行ってしまったぐらいだ。
亘は深く息を吐き、小広場の隅にしゃがみ込むイツキの姿を見つけた。しかも雨竜くんも一緒で、もうこれでは誰の従魔なのか分からないぐらいだ。
「あいつ、なにやってんだ」
どうやら猫と戯れているらしい。すっかり夢中な様子だったが、流石はイツキで近づいてみると顔も向けないまま当然のように話しかけてきた。ただし、雨竜くんは今気付いたらしく口を開け驚きの顔をしている。
「小父さんも、やってみるか」
「猫か、可愛いな。この辺りにこんな猫はいたかな」
「俺も初めて見る子なんだぞ。でもな、こんなに綺麗な毛並みは初めてなんだぜ」
「毛並みはいいが、この顔つきは野良だな。これは世間の荒波を知ってる顔だ」
亘が手を伸ばした瞬間、しかし白縞猫は身を翻し避けてみせた。それでも逃げてしまわずイツキの側に行く。あげくにイツキが手を伸ばすと、顔だけでなく全身を擦り付け、最後には尻尾まで絡めているぐらいだ。
「…………」
この可愛くない態度に、亘は軽くムキになった。相手に反応を与えるより早く手を伸ばし、腹の下にから持ち上げてしまう。そこは四足歩行ならではの悲劇とでもいうべきか、もうこうなると逃れられない。
「どうだ参ったか」
「小父さん、大人げないんだぞ」
「そうか?」
「うん」
「まあいい。よしよし可愛いな」
亘は白縞猫の頭を撫でてやるのだが、しかし喜ぶどころか明らかに不機嫌となっていく。ついには身を捻り自分を拘束する手に噛みつき、蹴りを入れだした。
しかし亘が平然としていると、攻撃の通じない白縞猫は呆然としている。
「マスター、どしたのさ」
神楽が亘の腕に降り立った。
ひょいっ、と腕に跨がって興味津々で白縞猫を見つめている。一方の猫は顕れた神楽の姿に耳を伏せ、いわゆるイカ耳になってしまった。
「怯えてるな」
「そだね」
「もしかして、神楽が何かしたのか?」
「何かって何さ」
「追い回したとか?」
ついさっき猫を大人げなく掴まえた者の言葉とは思えない。
「ボクそなことしないもん!」
「ふむ、しかし猫は怯えている。その理由を推理してみるとだな……この猫が楽しみにしていたキャットフードを、いきなりやって来た神楽が知らずに奪い取って食べ尽くした、とか?」
「マスターはボクをなんだと思ってんのさ。欲しかったら、ちゃんと頼むもん」
どうやら食べることは食べるらしい。
亘としては食事代の軽減にキャットフードを導入すべきか少し悩む所だった。
白縞猫はイカ耳状態のまま、尻尾をタヌキかキツネかというぐらいに膨らませ、盛んに威嚇の声をあげ続けている。周りでは雨竜くんがオロオロと動き回っている。
「しかし恐がり過ぎじゃないか。やっぱり何かあるのか」
「それ、チビ悪魔が悪魔だから恐がってんだと思うぞ」
「なるほど猫はそういうのが分かるのか」
「ん? さっきから小父さんって猫、猫言ってっけど。そいつ猫じゃないぞ」
「猫だろ」
「違うぞ」
否定された亘は、視線を戻し神楽を見やる。イツキの言葉を疑うわけではないのだが、それより何より信頼している神楽に確認することが一番確実なのだ。
「違うよ」
「なるほど」
猫ではなく悪魔なら話は別だ。
亘が目を細めると、その猫のような悪魔は殺気のようなものを察したらしい。しかも、それで実力の差も理解したらしい。もはや威嚇の声すら出なくなり、スマホのマナーモード並に震動しだしている。
「猫の姿で油断させ忍び込んでいたのか。危ない所だったな」
「その前にさ、ボクに何か言うことあるんじゃないの?」
「日頃の行動が大事ってことだな」
「マスターってば本当に失礼」
神楽は軽く飛んで亘の頭をゲシゲシと蹴りだした。
いきなり始まった争いに――ただし当人たちはじゃれ合い――猫悪魔は完全にパニック状態。全身全霊で暴れ身体をくねらせると、ついに亘の手から逃げだす事に成功した。そして矢のようになって一目散に逃げだす。
だが、世の中には間の悪いと言うべきか運の悪い者が存在する。それが、この猫悪魔であった。逃げる姿を追いかける影が一つ。
サキだ。
逃げる者を追う習性でもあるのか、先回りしては逃がさないように追い込んでいる。それは遊んでいるのだが、遊ばれている側の猫悪魔は必死だ。人間で言うなら猛獣に追い回されるような感じなのだろう。
隅に追い詰められ、尻尾の毛を逆立て腰を抜かしながら威嚇の唸りをあげている。
「そういうのするから、悪いキツネなんだぞ。小父さんからも言ってやってくれよ」
「確かにな。いくら悪魔でも遊びで追い回すのはよくない」
「そうだそうだ、もっと言ってやって欲しいぞ」
「やるならサクッとやれ」
「酷いぜ。そういうこと言うと、小父さんのこと嫌いになっちゃうぞ」
「…………」
亘としては素直に言ったつもりで他意は全くなかった。それだけに余計に質が悪いのかもしれないが、何にせよイツキの言葉に落ち込んでしまった。その心情を察したサキは、そそくさと猫悪魔から離れ、自分は悪くないと言いたげに空を見ている。
「あっ、今のなしだぞ。別に嫌いになったりしないかんな」
ニカッと笑ったイツキに亘は安堵して、そっと息を吐いてみせた。
すっかり手玉に取られていると思った神楽であったが、とりあえず何も言わずに黙っている。流石にそれを言っては悪いと思ったのだ。
「おいで、さあ。ほら恐くない恐くないんだぞ」
イツキは怯えきった猫悪魔に近寄った。
青き服を身につけ、金色の日射しに照らされた地にしゃがみ込む。失われた悪魔との信頼を結ぼうと、優しく手を差し出し導かんとしている感じだ。
なかなか綺麗な光景と思って亘は見つめていたが、それも猫悪魔がイツキの指先に噛みつくまでだ。その瞬間、怒りをみせ動こうとした。
だが、イツキはそれを手を挙げ静かに制した。
「怯えていただけなんだぞ」
気付けば猫悪魔が謝るように、噛んだ指をなめていた。もちろん、既に亘の命によって神楽の治癒が乱発され、傷など跡形もなく治されていたのだが。
「なんていうかさ、労りと優しさだよね。白虎が心を開いてるじゃないのさ、ああいうのマスターもしっかり見習って欲しいよね」
「……白虎? 猫じゃなくて虎なのか」
「そだよ」
「そうか虎か」
あまり強そうじゃないという言葉を、亘は呑み込んでおいた。
なお、この後で白虎はすっかりイツキに懐いて側にいるようになるのだが、それを見た一文字ヒヨなど一部の者が悲鳴とも驚愕ともつかぬ声をあげるのであった。
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