閑62話 我々は要求するしかない

「?」

 ざっと室内を見回した亘は、まず訝しんだ。

 NATSの執務室に使用されている場所はワンフロアを胸高の棚で区切り、そこに幾つかのデスクの島がある。古びたスチールデスクでPCとモニターがあって、それぞれの性格を表すように紙が積まれている。

 そんな執務室が、どうにも忙しい雰囲気だった。

 忙しいとの言葉を聞けば、大きな声が飛び交い慌ただしく走り回る光景を思い浮かべる人もいるだろう。しかし、実際の忙しい状況とは必ずしもそうはならない。

 場合によっては、むしろ静かになる。

 静寂の中に本来は耳に付かないような音が大きく響き、それは紙をめくる音であったり、キーボードやマウスの打音であったり、ペンの転がる音であったりする。

 今回の場合はまさにそれ。室内のあちこちで分厚い書類の頁が捲られ、それを見ながら身を乗り出すようにパソコンを操作。複合機の元へ行って印刷した用紙に文字を書き入れ、渋い顔でペンが机上に投げ出され貧乏揺すりの音が響く。

 呻きや苦悩の声や低い独り言があちこちから響き、亘は自分の職場の修羅場を想起して思わず後退ったほどだ。

「五条君か、ちょうどいい」

「すいませんが用事があるので……」

「君に書類仕事を頼もうとは考えてないよ」

「あっ、そうですか」

 素直に喜ぶ亘に、正中は少しばかり口元を歪める事で気持ちを表明してみせた。たぶんきっと友好的な苦笑に違いない。

「何かありました? 問題でも起きましたか」

「いや、そうじゃない。補正予算の計上作業で忙しいんだ」

「ああ……それはそれは……予算が降ってきますか」

「今はまだ厳密な作業値は来ていなくてね。」

「ははぁ、頭の準備体操の段階ですか」

 亘は呻くような声をあげた。

 脳裏にトラウマのように追加執行可能額の調査物が蘇る。上部機関の大好きな、頭の準備体操という言葉一つで作業値を――つまり億単位の使い道を――ひねり出さねばならない。その年の予算すら、どうやって消化すべきか頭を悩ませるところへの追加。結局は来年やる予定の作業を先食いするしかなく、次の年になれば予算をどう使うかで苦悩する逆自転車操業の始まりとなる。


 しかし、トラウマから我に返った亘は深く訝しむ。

「あれ? こんな状況下でも補正予算が付くのですか」

「もちろんだよ。今回の補正だけで百兆円。補正としては異次元の予算規模感だよ」

「それはまあ……貨幣経済としては大丈夫なんですかね」

「大丈夫とは何かな?」

 正中のような頭の良い人は、曖昧な言葉を嫌う。または疑問に思った部分があると、すかさず確認をしてくる。それは正しいとは思うのだが、一方で会話としては厄介だ。つまり迂闊なことが言えないため面倒さが強い。

 あまり考えずに、曖昧に言っただけの亘としては軽く困ってしまう。

「えーと、つまりですね。貨幣の流通はどうなのかとか……貨幣があっても使い道がないと言いますか。まあ、そういう感じですよ」

「貨幣の流通? また奇妙なところを気にするね」

 正中は感心したように笑っている。

「貨幣の価値と流通ということであれば問題はないだろうね。たとえ何があろうとも、人が存在し社会生活がある以上は貨幣経済そのものはなくならない。たとえ貨幣の流通があろうとなかろうとね」

「はあ……?」

 亘は呟きながら、ふと思い出していた。

 高額な品を購入――つまるところ趣味の刀剣――する時に、現金で支払おうと銀行に行って預金を引き出そうとしたことがある。しかし、そこには引き出せるだけの現金が置かれておらず用意ができなかった。仕方なく振り込みにしたのだが、通帳に打ち出された数字を見て奇妙な感覚に襲われのである。

 自分の通帳に記された数字が減り、振り込まれた刀剣店側で数字が増え、間違いなく貨幣という現物は動いていなかった。

「なるほど、つまり百兆円という数字があちこちに広がると」

「人々は数字を得る為に働き、得た数字と引き替えに安全や食糧を手に入れていく。そこに貨幣というものは必要とされない。しかし貨幣という名の数字は人と人が存在し、そこに何らかの需要と供給が生じるのであれば必ず必要とされるものだよ」

「…………」

 少し恐いと思った亘であったが、しかし自分がその枠組みから逃れて生きていけないことも理解していた。その数字の動きによる価値感や仕組みは、強く深く世の中に組み込まれているのだから。


「それはそれとして、うちだけでも百億の規模感で積まねばならん」

 正中が鉛筆で側頭部を叩き顔をしかめるのは、その額の使い道をどう示すか、示した内容が本当に実行できるのかで苦悩しているからだろう。

「そりゃまた大変。百億が自分の懐に入るなら嬉しいのでしょうけどね」

「ふふっ、確かにね。でも、ありすぎても使い切れずに困ってしまうだろう。仮にこの十分の一だったとしても困ってしまうよ」

「まあ、確かに」

 亘は自分の趣味の刀を思い浮かべた。名品レベルの品であれば四十か五十本で充分にお釣りがくるだろう。だがしかし四十本もあったら保管場所に困るだろうし、鑑賞するのも苦労するだろう。

「それは困りますね」

「何事もほどほどが一番だよ」

 互いに冗談めかして軽く笑った。

 亘が嬉しかったのは、こうした話題を話せる相手がいなかったからだ。神楽やサキは当然として、七海やチャラ夫にしても仕事に関する話題にはついてこれない。やはり仕事の話は、同じく仕事をしている相手でないとできないのだ。

「いつも思いますけど。こういう要求は、本当に必要な分だけになりませんかね」

「私もそれはそう思うよ」

「正中さんぐらいの立場でなら、文句を言えば通るのでは?」

「そうでもないよ。実は多少は喧嘩して、文句を言ってみたよ」

「どうなりました?」

「相手の回答はだね、別に要求しなくてもよいとのことだ。ただしこう言われたよ、補正で要求しないのであれば予算が必要ないと言うことだから来年以降の予算もそれ相応の扱いになるが構わないんだな、とね」

「また、その手の脅しですか。嫌ですね」

 会話の間にも正中は持ち込まれた資料を確認し、素早く指示をしたり了解の返事を出している。亘は雑談で邪魔している気になったが、しかし正中としては丁度良い気晴らしなのかもしれない。一度に二つ三つの思考を使い分けるぐらいは容易い事務処理能力を有しているのだから。

「仕方なかろう。上は上の面子があって、予算を計上せねばならないからね」

「そのために無駄遣いをしろと?」

「無駄遣いではないね、必要なことだよ。これだって景気刺激対策の一環になる。既に政府は復興期を見据えて動いているからね」

「復興って、それは早すぎませんか」

「先を考えれば遅いぐらいさ。復興というものは始まる前から始まっているのさ」

「そんなものですか」

「そんなものさ」

「なるほど……」

 言いながら、亘はまたしても自分の趣味を思い浮かべていた。

 確かに良い刀を買おうとすれば、いきなり店に行っても無駄だ。何度か足を運び幾つかの品を買い、お金を落として上客と思わせた頃に良い刀が紹介される。つまり良い品を買おうとすれば、買う前から買わねばならないのだ。

 きっと、そういうことに違いない。


「しかし、インフラ整備で五兆円を積めと言われた部署は悲惨とは思うがね」

「この状況でインフラ整備? それなら今回の件で苦しんでる人の為に使うべきじゃないですか。それに最前線で活動する人の設備とか装備を増強するとか、医療従事者だって限界が来てると聞きますよ。まずは、そこに資金を投入すべきでしょうに」

「そうは言うが、インフラは国の血肉だ。しかも、整備を行うことで雇用の創出もできて多くの人に恩恵があるじゃないか」

「現場を分かってませんね」

「ん?」

 不思議そうな顔をする正中の前で、亘は窓の外を指し示した。

 目の前に広場が有り右方には避難テントが立ち並んでいる。しかし指し示したのは、左方の破損した家屋やビルなどが建ち並んでいる辺りだ。

「あそこで崩れているビルを撤去し、新たな設備を整備するとしましょう」

「ふむ」

「その為には測量設計、地権者と所有者に承諾を得て用地幅杭を打つ。ここまでで普通は早くて一年。それから補償のために権利調査と用地交渉で、さらに一年。建物内部に残った資産の確認と補償の交渉があれば、もっと時間がかかる。インフラ整備の予算が付いても、そのお金を使えるのは一年二年先が現実ですよ」

「……そうした作業を進めることも含めたお金じゃないか」

「じゃぶじゃぶ金があっても、手間と手続きの時間は解決しやしません。超法規的措置で一般国民の所有権を無視できたとしても、測量や設計は必ず必要ですよ。絵や図面や計画なしで、作業がやれると思いますか」

「まあ無理だろうね」

「そうすると、数字遊びの予算が与えられても現実の事業はストップですよ」

「だが、我々は要求するしかないのだよ。たとえ行く先が辛かろうとね」

 正中は軽く肩を竦めてみせた。

「これまでも、それで物事は進んでいた。これからも、きっとそうなる」

 ちらりと顔を過ぎった困った様子を確認し、亘は会話の引き際を察知した。

 結局のところ組織の末端が何を言おうと意味が無く、正中が先程言ったように上は上の面子があるため拒否することは許されない。どこかに全てのキーマンが存在するのかもしれないが、ひょっとすると組織の誰もが互いに牽制や忖度をしあっているだけかもしれない。

 だが確実に言えることは、今ここで何を言おうと、どうしようもないことだ。

 それで折角の話相手を困らせ、嫌われてしまうことだけは避けたい。ただの雑談という範疇でいられる間に、亘は話を終えることに決めた。

「まあ、結局はそうですよね。余計なことは考えず、悪魔退治に出かけますよ」

「すまないが、よろしく頼むよ」

「現場で目の前の悪魔さえ倒していれば楽なもんですよ」

 わりと本気で言って、亘はそそくさと忙しげな部屋を後にした。それを見送った正中は表情を引き締め書類に目を落とす。

 室内では静かな戦いが繰り広げられるのだが、その敵が何かは誰にも分からない。

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