第302話 楽しみが抑えきれない
「実は私、運転ができてしまうのです」
言ったヒヨは、なんだか得意そうだった。
二十代半ばだが童顔で小柄なため、もっと幼いように見えてしまう。それが頼れる女っぽい態度をするのだが、指先に引っ掛け回転させていた車のキーを飛ばしてしまうので、親しみを持てる感じで面白い。
そこは本部建物の職員用通路となる裏口。
ただでさえ狭い場所に下駄箱や傘立てが置かれるので、狭っ苦しいだけでなく薄暗く乱雑な雰囲気だ。壁にある画鋲の穴だらけの掲示板と、そこに張られた組合活動や安全標語の色褪せた紙。足元で汚れの残った菱形模様の泥落としマットが置かれており、どこか時代に取り残された昭和テイストな裏口だった。
「えーっと取れません。あとちょっとなのに」
ヒヨは傘立ての下に入り込んだキーを取るため四つん這いになり、埃や蜘蛛の巣にも負けず手を伸ばしている。亘はそっと息を吐き、うら若き女性のあられもない姿から視線を逸らしておいた。
何故ヒヨが車のキーを持つに至ったかと言えば、チャラ夫が軽んじられぬよう鍛えようと思ったことが発端だ。移動すべき場所は遠方にあって、亘一人であればサキに乗って移動ができる。だが、サキは亘以外の男に跨がられるの嫌だと断固として拒否。
そうなると移動には車を使わねばならない。
ところが亘は車を全損しており、車両管理の事務担当とは一悶着から確執がある。したがって誰か別の車の運転が出来る者を探していたところ、この一文字ヒヨが名乗りをあげたのだ。
壊れた傘を使い車のキーを取り出すヒヨを見やり、再び息を吐いた。
――どんどん事態が悪化している気がする。
たまに仕事であるのだが、前にした自分の行動が巡り巡って厄介な問題や面倒という形になって戻って来ることがある。今はその負のスパイラルに嵌まった気分だ。
ヒヨが頭に蜘蛛の巣をつけながら立ち上がり、車のキーを掲げてみせた。
「すみません、お待たせしました! はい、車の運転はこの一文字ヒヨにお任せ下さい」
「別に車さえ借りて貰えば、後はこちらで運転して移動するけれど」
「えっ、いえいえそれはダメですよ。これは私が借りたので、やっぱり私が責任を持って運転すべきだって思いますもの」
ヒヨは人差し指を立て身を乗り出し、亘は軽く怯んだ。
なんとなく、このところ態度が妙だと感じていた。
以前は暴言にも等しい失礼なことを言われたが、最近は何かと役立つアピールをする。さらに積極的に話しかけてくるし、話すときだって目を見て身を乗り出してくるし笑顔でもある。
これが自分でなければ好意を持たれていると勘違いしそうだ、と亘は思っていた。
「まあ、やる気なら任せる」
勘違いはしないが、それでも多少の親しみを感じだしている。だから亘も敬語っぽい話し方は止めている。仲間とまではいかないでも、準仲間という感覚だ。
「これまで車をぶつけたりとか、事故をしたりはないよな」
「ふぇっ、どうしてです?」
「知り合いにな、普通に走らせても車がデコボコになるぐらいの下手な奴がいるんだ」
「えっ、そんな人がいるんですね。そんな人にも運転の免状を与えるというのは、ダメだって思います。皆の迷惑ですから取り消しすべきですよ」
優しい亘は、その皆の迷惑が誰なのかは黙っておいた。
「あっ、でも私は大丈夫ですよ。今まで一度も事故どころか、車を傷つけたことだってありません」
「それなら安心か。じゃあ任せるか」
「はい、免許を取ってから初めての運転ですから腕が鳴ります」
「…………」
亘は猛烈な不安に襲われた。
悩んだが、しかし亘は覚悟を決めた。任せると言った以上は、そうするしかないではないか。相手が自信満々でやる気になっているのであれば、自分が我慢し茨の道を選ぶのが亘の生き方だ。ただし、相手に何も言えないという気の弱さが原因であるのだが。
自信ありげなヒヨだが、髪の毛には車のキー捜索でついた汚れがある。しかも少しも気がついていない。その姿はサキが野原を駆け回り蜘蛛の巣だらけで戻って来た姿を連想させてしまう。
「ああ、髪に何かついている」
「えっ髪にですか。もしかして芋けんぴでも付いていますか?」
「…………」
何故ここで芋けんぴなのだろうかと、亘は理解不能な言動に戸惑った。その思考に不安を抱き恐れをなしてしまうぐらいだが、ある意味では感心してしまう。
ひょいと手を伸ばし取ってやった。
「いや蜘蛛の巣だ。ほら、この通りに取れた」
「ふえぇぇっ。かっ、かたじけなし。じゃなくて、ありがとうございまする」
ヒヨは顔を真っ赤にさせ言動おかしく挙動も不審。果たしてこれに運転させるべきか否か、大いに悩む亘であった。
◆◆◆
ヒヨの運転は意外にも普通だった。
何にせよ人は他人の運転には不満を抱くものなので、若干速度が遅いとか、カーブでブレーキのタイミングが遅いとか目につく点はある。しかしもっと最悪を知っているので気にもならない。
「あっ、悪魔ですね」
アクセルが踏み込まれ、悪魔は跳ね飛ばされた。
「…………」
その躊躇なさに、亘は女って恐いと思ってしまった。
確かに自分自身も悪魔を倒している。倒しているがしかし、それとフルアクセルで跳ね飛ばすことは何となく違うと思うのだ。しかし助手席の神楽とサキが大喜びしている様子が一抹の不安をかき立てる。
「いやぁ、ヒヨさんも意外とワイルドっすね」
「ワイルドの定義が分からん」
「分かんないっすか。つまりワイルドというのはワイルドなんすよ」
「あっそう」
亘とチャラ夫は後部座席に並んでいた。目的の場所まで、まだまだかかる。
「しっかし、こうやって出かけるの楽しいっすね!」
「そうか?」
「やだなー、こうして兄貴と一緒に出かけるのが楽しいってことなんすよ。みなまで言わせないで欲しいっすよ」
「ふうん、そういうものか」
さり気なく言いながら、亘は照れ隠しに鼻の下をこすった。ここまで素直に好意をぶつけられると恥ずかしいぐらいだ。しかもお上手で言っているのではなく、本気で言っていると分かるので尚のことだ。
「で、どこ行くんすか。いやいや別に兄貴となら、どこでも行くっよ。でもほら、俺っちに見せたいものがあるって話じゃないっすか。なんか良いものだと嬉しいなーって、楽しみが抑えきれないんすよね」
「ああ、そう言ったが。実は違うんだ」
「はぁ?」
「これからするのは特訓だ」
亘は頷いた。これは七海の助言で、最初は特訓と言わずにおいたのだ。
「特訓っすか?」
「特訓だ」
「誰の?」
「チャラ夫の」
「いやー! 帰るーっ! 俺っち帰る! 帰して帰して!」
騒ぎだしたチャラ夫は、走行中にもかかわらず車のドアを開けようとした。しかしドアは、これまた七海の助言でチャイルドロックにしてある。だから出られない。
それでも無理矢理開けようと暴れ、驚いたヒヨがハンドル操作を誤って車は激しく蛇行した。だが、そのおかげでチャラ夫は大人しくなった。きっと、自分の姉の運転を思い出したに違いない。
ヒヨがバックミラー越しに睨んだ。
「こらっ、ダメじゃないですか。運転中に暴れてはいけません!」
「いや、そう言われましても。兄貴の特訓とか俺っちに待つのは死の運命なんす」
「死ぬとか、大袈裟ですね。特訓じゃないですか」
「特訓だからっす!」
「軟弱者ですね。いいですか、特訓というのは特別厳しい訓練をするからこそ、特訓と言うのですよ。普通の訓練では特訓なんて言いません」
ヒヨは口を尖らせ、相変わらずバックミラー越しに睨んだ。それでも前方不注意にもならず、しっかり運転をしている。どこぞの超がつくほど運転の下手な者は、前を見ていても運転を誤るが、それと大きく違う。
助手席のシートにしがみつく神楽とサキに見られながら、チャラ夫は必死だ。
「それは違うっす! この場合の特訓ちゅうのは、つまり特別死ぬ特訓なんす!」
「ああ、そうですか。はいはい死ぬ気で頑張りましょうね」
「分かってないっすよ。本当に分かってないっす」
上手く伝えられず、また理解して貰えずチャラ夫は頭を抱えた。
そして亘は哀しかった。チャラ夫のためにと行動しているのに、こんな反応をされたのだ。あんまりではないか。
「そう言うなよ。死ぬとか、あるわけないだろ。大丈夫だからな」
「本当っすか。いやいや兄貴のことを信じてないわけじゃないっすよ。でもほら、兄貴のする特訓ってのはね。これまで全く大丈夫じゃないわけっすから」
「失礼なやつだ。死ぬわけないじゃないか」
「本当っすよね。嘘は嫌っすよ」
「神楽が治癒の魔法をかけ続ける。だから、そう簡単には死なない」
「ほらー! やっぱりー! そういうのじゃないっすか! いやああああー!」
「騒ぐなよ。冗談だよ、冗談」
場を和ませるつもりが、過度な反応をされてしまう。亘は冗談とは難しいものだと改めて思った。
「ううっ、騙された。本当に騙された」
「うるさい奴だな。あんまり煩いとな、本当に死ぬような目に遭わせるぞ」
「俺っちは何も言っておりませんです。兄貴の特訓、楽しみっす」
いま車が走っているのは、キセノンヒルズが遠くに見える幹線道路だ。住宅が建ち並び、背の低いビルも交じっている。もう直ぐに到着で、真っ青な雲一つない空に、太陽が眩しく輝いている。
テングの群れにチャラ夫を挑ませるには、程よい天気であった。
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* 【特別賞、受賞の御礼】 *
* 『厄神つき下級騎士なれど、加護を駆使して冒険者生活!』 *
* 第2回ドラゴンノベルス小説コンテストにて特別賞を頂きました。 *
* 応援して下さった皆さんのお陰です。心より感謝申し上げます。 *
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