第249話 のんびりした田舎の空気

「志緒さん志緒さん、お腹が空きました。本当にお腹が空きました、お握りが飛んでる姿が見えてしまうぐらいなんです」

 一文字ヒヨが両手を握りしめ力説すれば、長谷部志緒は呆れた顔をした。

「ちょっとヒヨさんってば、そんなこと言っても仕方ないでしょ」

「分かってますよ。でも、今だけは言わせて下さいよ。せーっかく、周りに煩い人たちが居ない環境なんですから」

 二人は防衛軍の所有する機動車両に乗車中だ。エンジン音はうるさく、ガタガタ細かな振動はお尻が痛くなるほど乗り心地が悪い。お世辞にも快適と言えない車内、しかも運転席と助手席には防衛官がいる状態。それでも後部座席で並べば気心の知れた二人っきり気分なのだ。

 DP飽和が発生して以降は目の回るような忙しさ。襲い来る悪魔から人々を救い、食糧確保に東奔西走。二人とも重要人物に認定されているため、常に誰かが側にいる。

 一人になれる時間は睡眠時ぐらいという体たらく。

 こんな時に愚痴をこぼしてしまうのも無理なからぬものだろう。

「毎日毎日非常食……ええ分かってますよ。それでも食糧があるだけマシだって事は。でも、お米が食べたいとは思いませんか!? 炊きたて熱々の上に納豆! 焼きたて塩鮭! 玉子かけご飯! 昆布の佃煮か葱味噌も捨てがたいですね」

「私はそうね、焼き肉が食べたいわ。それからステーキとかハンバーグとか」

「志緒さんは肉食系女子なんですね」

「それ意味が違うわよ」

 などと雑談する間に、車の速度が落ちていく。

 NATSの本部を出てほぼ半日、どうやら目的地に近づいたらしい。

 距離もそこそこあったが、なにより途中の橋が落ちていたり放置車両で道が塞がれていたり。はたまた悪魔が出て戦闘になったりと、想定していた以上の時間がかかってしまった。


 助手席の防衛官が振り向く。中年の精悍な顔立ちの男だ。

「ほぼ目標地点に到着しました。しかし、ちと手前の橋はこいつでは厳しいと思われます。迂回したところで、徒歩とさして変わらないでしょうな。ああ、ちなみに私は明太子ですな」

「明太子! いいですよね」

「あはははっ、さてどうされます?」

 今や悪魔が跳梁跋扈する世の中。不注意に出歩けば、襲われ喰われかねない状況にある。しかし、防衛官の声には不安の色はない。後部座席の女性二人が悪魔対策のエキスパートと知っているのだから。

 明太子か焼きたらこか、どちらか悩みだした友人の代わりに志緒は頷いた。

「気を悪くせず聞いて欲しいですけど。この車の乗り心地を考えますと、出来れば歩きたい気分だわ」

「お気遣いなく。我々もそう思っておりますので」

「それなら決まりね。歩きましょう」

「了解しました」

 防衛官は頷くと運転席の相棒と合図しあい、本部への無線連絡をすると小銃を手に降車した。その動きは実にキビキビとしており、幾多の実戦をくぐり抜けてきた頼もしさがある。

 だが、この中で一番頼りになる存在はシートベルトの解除に手間取っていた。

「志緒さん……助けて下さい。シートベルトが放してくれません」

「はいはい、無理に動かないでね」

 志緒は手慣れた様子で手を貸す。それは同じように自分の弟を救助してきた経験によるものに違いない。

「とにかく気合いをいれましょ。ここからが正念場なのよ」

「五条さんとの交渉ですからねー」

「あの人も鬼ではないと思うけれど……ある意味、鬼の方がマシかも……」

「大丈夫ですよ。なんと言っても、今回は秘策がありますから」

 ヒヨは含み笑いをすると、横に置かれた大きなリュックを叩いた。

「見て下さい、この乾パンと非常食の量を。これさえあれば、きっと大喜びしてくれますよ。交渉の基本とは、相手の欲しがる物を用意し優位に立つことなのです」

「そうよね、今はどこも食糧難ですものね。きっと五条さんも苦労しているはずよ。ほら、特に神楽ちゃんとかいっぱい食べるものね」

「これだけあれば少しぐらい食べても……いえ、ダメですよ私。ここはぐっと堪えて我慢しないと。どれだけ、お腹が空いても耐えないと!」

 気合いを入れるヒヨをシートベルトから開放してやり、志緒は微笑む。

「五条さんなら、少しぐらい分けてくれるわよ。あれで案外、優しい人だから」


 遙々やって来たのは、もちろん五条亘を引っ張り出さんがため。

 本当はもっと早く来たかったのだが、様々な案件に忙殺され動くに動けず、ある程度の対悪魔体制が整い人員配置の目処がたってようやくだ。逆に言えば、これからこそ必要という事でもあるのだが。

「ああ、お尻が痛いです」

 ヒヨは車高のある機動車両から飛び降りると、スカートの上からお尻をさすった。それから両手を挙げ大きく伸びをする。それなりの年頃だが、深呼吸しながら身体を動かす様子は、素朴な田舎の子といったものだ。背中の大きなリュックが、その印象をさらに強めている原因だろう。

「ここ、なんだか神気を感じます」

「あらそうなの?」

「近くには盟主様のお知り合いの一柱がおわしました。きっと地域を見守っているのでしょうね」

「もし本当に居るなら、この状況をなんとかして欲しいものね」

「駄目ですよ。神様は基本的に人間と不干渉ですから。稲荷神のお狐様方が協力して下さるのは例外中の例外なんですよ」

 ヒヨの人差し指を立て、真面目っぽく言った。

 コンクリート製の橋を渡っていくが、その幅は小型の車両がなんとか通行可能な程度だ。防衛隊のゴツイ機動車両では渡る事は難しいだろう。

 川の近くは水棲の悪魔が出現しやすいため防衛官は警戒を強め緊張しきっている。しかし、サラサラと流れる水は澄んでおり、三面張り水路となった川に危険な影はどこにもなかった。

 対して、歩きだした志緒とヒヨは散策するように気楽だ。

「ここは本当に良いですね。ほどほどのんびりした田舎の空気と、少し町って感じが頃合いですよ。うん、お仕事全部を投げ打って、ここに住みたいかもです」

「あらそうかしら? 私ならもう少し都会の方がいいわ」

「志緒さんは、都会のお洒落が似合いますからね。でも私にはこれぐらいが、ちょうどいいのです。何にせよ、世の中が平和でないとダメなんですけどねー」

「でも五条さんが来てくれたら、平和になるかもしれないわ。ほんっと、あの人がここまでの重要人物になるとは思いもしなかったわ……でも、納得はできるけど」

 志緒はぼやくように呟いた。

 護衛として同行する防衛官の二人は訝しげだ。

 情勢も多少は落ち着いたものの、世間全体としてはまだ不安要素は数多い。それであるのに悪魔退治の有力者に数えられる二人が現場を離れ、わざわざ来る必要があるのか疑問なのだ。

「失礼ながら、その五条という彼はそれほどですか?」

「反攻作戦をするならね、違いなく主力になるわ。むしろ一人でもいいぐらい」

「まさかそれは大袈裟でしょう」

 防衛官は苦笑しているが、志緒は少しも笑ってない。いや、笑えない。

「防衛隊の中で、どんな感じで噂になってるのかしら」

「大型悪魔から隊員を救ってくれたと聞いております。ですが、大型悪魔であればあのチャラ夫氏が何度も退治されておりますし、そちらの一文字さんも倒されていたはず。そこまでの事とは――」

 ヒヨは手を振り遮った。

「あっ、それ認識違いです」

「はっ……?」

「私たちが可能なのは一度に一体。でも五条さんは、十体いても普通に倒しますから。もしかすると百体いても、何だかんだで倒しちゃうかもですね」

「まさか、あはははっ。冗談、あははっ……えっ、マジで?」

 素で尋ね返す防衛官に対し、女性二人はそっと視線を逸らし黙ってしまった。世の中には見なければ分からないものがあり、何とも言い様がないのだ。


 しばらくして、ヒヨは立ち止まると手をひさしに辺りを眺めだした。さらに軽く背伸びをして爪先立ちになり、キョロキョロと見渡すほどだ。

「どうかしたのかしら?」

「あそこ見て下さい。普通に人が出歩いてますよ、変ですね」

「……確かにそうね」

 今や迂闊に外を歩けない状況。もし外を歩くのであれば集団で武器を持ち、警戒しながらでなければ危険極まりない。

 それに対しここでは、そんな様子が見られなかった。進んで行くと、さらに不思議な光景が見えてきた。子供は無邪気に駆け回って遊び、大人は無防備に畑仕事に精を出しているではないか。

 少し前まで当たり前だった、そして今ではありえない光景だ。

「もしかして、やっぱり五条さんのせい? この辺りの悪魔を全部倒してしまったとか?」

「あははっ、充分にありえそうですよね」

 横で聞いていた防衛官は同僚と顔を見合わせ、なんだそれといった顔になった。

「五条さんの運用方法なら、あれよね。適当に悪魔の多いところに放しておくの。後は勝手に退治してくれて世の中は平和になる。どうかしら」

「それ、ありです。素晴らしいアイデアです」

 ますます防衛官二人は理解不能といった顔で黙り込んだ。

 志緒とヒヨが穏やかな陽射しの中を進んでいけば、田畑で農作業をする人々が手を止め珍しそうに眺めていた。

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