閑47話 ドラマの女優に見えてくる

 長谷部はせべ志緒しおはけたたましいアラームに目を覚ました。

「ぅんっ……」

 薄く開けた目に室内はまだ暗いが、まだ日の出前の時間帯のためだ。

 日頃の疲れもあって全身が気怠く眠気は非常に強い。このまま寝ていたいという誘惑は非常に強いがしかし、強い責任感を持って簡易毛布をはね除けた。

 昨日もかなり遅かった。

 NATSの主戦力の一人になるため、日中は悪魔退治に出動し、危険と隣り合わせで神経を磨り減らしながら戦闘。かつての最悪な地獄の特訓が今に役立っているが、少なくとも感謝する気は少しもない。

 夜間戦闘は危険のため日没前に帰還。

 だが、ある意味で戻ってからが一番大変。対悪魔戦闘マニュアル作成の基礎資料として出現した悪魔の種類に数、行動パターンや効果のあった戦闘方法などを確認地点毎に記載し、まとめねばならない。作業に使用するパソコンは限られ電力供給は乏しく、作業は遅々として進まず、結果として就寝は日付を跨ぐ頃となる。

「今日も頑張らないと」

 水道供給が停止しているため、汲み置きの水を口に含む。すっかり温くなっているが、それで意識を覚醒レベルに持って行く。鏡の前で頬を叩き気合いを入れるだけで、朝のスキンケアは特にしない。化粧品は手元になく、入手も困難な状況だった。

 しかし、志緒の肌はとても綺麗で状態が良い。

 むしろ世の中がDP飽和という現象で滅茶苦茶になる以前よりも良いぐらいだ。その理由が、先程まで寝ていた枕元に蠢く透明な存在のお陰であった。

 赤と青の線が浮かぶ透明なそれは志緒の従魔だ。

 リネアと名付けたこのスライムは、思いも寄らぬ特殊能力を持っていると最近知った。それが――。

「今日も綺麗にしてくれたのね、ありがとう」

 様々な汚れを食べてくれるのだ。

 枕元に畳んであった服は、ここ数日着っぱなしだがクリーニングしたてのように綺麗だ。もちろん志緒自身も入浴が殆ど出来ない状態でも清潔な状態にある。

 なにせリネアが寝ている間に全身の手入れをくまなくしてくれるおかげだ。

 おかげで肌の状態だけは頗る良い。

「おいで」

 呼びかければリネアは跳ねながら寄ってきて、さらに大きく跳び上がると志緒の肩に乗っかった。以前はぶよぶよした感触が苦手だったが、今ではすっかり慣れた。DP飽和という状況で昼夜を共に過ごしたおかげだった。

 ぷるぷると震えるが、それは喜びの仕草だ。

「さあ行きますか、今日も頑張らないと」

 志緒は部屋を出た。

 そこは等間隔にドアが並ぶ長い通路。それぞれ四畳半の個室となっているが、元はどこかの省庁の研修棟だったらしい。今はNATSが使用し宿舎代わりに使用している。

 廊下には女性職員が何人か待機しており、志緒の顔を見るなり突進してきた。

「おはようございます長谷部係長。さっそくですがリネアさんを貸して下さい」

「お願いします、昨日もお風呂無理だったんです」

「こんなんじゃ人前に出られません。どうかお願いしますー」

「お肌が緊急事態で死活問題なんです!」

 この階は女性専用で、皆それなりに身嗜みには注意している。それでも連日の泊まり込みに入浴制限もあるため、実を言えば結構臭う。

「会議の間だけよ。それから一人五分で喧嘩せず順番にね。ただしリネアが飽きて移動しだしたら、その時点で終わりよ」

「はーい!」

 嬉しそうな返事を聞きながら志緒は会議に向かう。

 親切心から貸し出したのではない。こんな状況で自分だけ特別でいれば、何かとやっかまれる。しょうもない事で足を引っ張られたくはないではないか。

 一日が始まり、今日も間違いなく疲労困憊するまで働かねばならない。

 やり甲斐もあるし嫌でもない。それでも、この一連の騒動が終わったらスライムエステでも始めようかと、志緒はバカな事を考え気を紛らわせていた。


◆◆◆


 全体情報共有会議は日の出前から行われる。

 音頭を取るのはNATSのため、前方のひな壇には正中を中央として志緒も並ぶ。この時間の会議開始と時間節約で朝食を食べながらという事は戸惑いもあったが、今はもう慣れた。

 とにかく、この会議は重要なのだ。

 NATSにDP飽和対策総合司令部が設置されてはいるが、政府の悪魔災害対策本部が上にある。さらに協力体制にある各省庁組織全てにもそれぞれ対策本部が存在し、省庁の下部組織にもそれぞれ対策支部が設置されている。もちろん国の機関だけではなく活動可能な地方公共団体も同様に何らかの対策本部が置かれていた。

 馬鹿馬鹿しいぐらいに対策本部が設置されているのが現実だ。

 もちろん効率的に運用すれば活動効率は高いが、船頭多くして何とやらになる可能性も高い。そのため、全体情報共有会議を行い今日の基本方針を定めつつ情報を発信し調整を行う必要があるというわけだ。

 この会議で日本の全てが決まり動かされると言っても過言ではないだろう。

 重要でもあるし限られた時間で必要な物事を決めねばならない。それだけに各所属の切れ者が勢揃いしており、交わされる言葉は矢継ぎ早で、少しでも気を抜くと着いていけないほどだ。

「燃料は非常時の供給連携計画が発動した事で何とかなった。だが継続供給施設の防衛と供給体制の確保に課題があるため、安定供給への体制構築を行うフェーズには難がある」

「防衛隊の人員配置は現状で手一杯だよ。民間の警備会社も活用する方向でいこう。民間徴用ではなく、あくまでも非常時における協力体制の構築という建前でいけば問題なかろう。後で法務に文案をまとめさせておく」

「待った、警備会社の人員は大半が高齢者だから気休めにしかならんぞ。消防団と水防団も加え補強しておこう。たが、それでも人が足りないが」

「いかんせん悪魔災害が全国規模だからなぁ。防衛隊は最大動員で広域に部隊を編成してはいるが……仕方ない、地域の反発はあるだろうが被害の軽微な地域から応援を派遣させ、人員をやりくりするしかないな」

「混乱期は過ぎた頃合いだからな、被害状況調査もある程度は可能か。分かった、うちの組織で本省課長名義で調査をさせよう。明日までには用意する」

 食べながらの議論。

 ただし朝食は僅かで簡単なもので、バナナ一本に牛乳パック一つ。

 最初の数日は、小さいながらパンがあったが今はない。次はバナナが消えるのが先か、牛乳が消えるのが先かといった状況だ。全ては避難民に対し優先配布されている。

「この食糧事情をなんとかせねば、我々が先に参ってしまいそうじゃないか」

 誰かの冗談に苦笑が広がった。これがあながち冗談でもないのだ。

「だがまあ、あながち冗談とも言えない。少し距離はあるが、輸入大豆を貯蔵した倉庫があったはずだ。悪魔退治をその方面に向けてはどうだ」

「確かに。我々の食事の問題改善の為もあるが……協力者たちのためもある」

「大豆があれば豆腐ができて、揚げがつくれるか」

「長谷部係長の弟さんは何か言っていたかな。その狐の方々が、揚げについてどう考えているかを。たとえば輸入大豆だとダメなのかなど」

 突然話を振られた志緒は身を強ばらせた。

 ちょうどスプーンを使い、バナナの皮がぺらぺらになるまで意地汚く削っていたのだ。やっているのは志緒だけでなく全員だが、恥ずかしいものは恥ずかしい。

 急ぎ取り繕いすまし顔をすれば、ドラマの女優に見えてくる。特に周囲がくたびれて薄汚れた状態ばかりなので効果は抜群だ。

「えっと、はいそうですね。弟から聞きましたところ、素材よりは心を込めて揚げられるほど美味しいのだとか。ですから機械より手揚げが一番だそうです。そういった意味で、稲荷寿司もお気に入りなのだとか」

 気付けば会場の全員が志緒の話に耳を傾けていた。

 なにせ狐たちの協力は日本の命運を握る状況であり、その対応には細心の注意を払わねばならない。お揚げでの出来が生命線という、馬鹿げた状況であっても真摯に対応する必要があるのだ。

「少し前に救助した人々の中で、稲荷寿司が上手なご婦人方がいたな」

「何か知らないが強力な悪魔から魔除けを授かっていたというご婦人方か」

「アマテラスの術者が匙を投げたという、あの魔除けかぁ。ちくしょう、あれが解析できて再現できていたら悪魔対策が大きく進捗しただろうに」

「それは言っても仕方ないさ。とにかく、そのご婦人方に稲荷寿司を依頼しよう」

 一時間きっかりで会議は終わり、それでようやく日の出直後の時間帯だ。

 日が出れば明るくなって視認性が良くなるだけでなく、若干だが悪魔の活動が大人しくなる。これでようやく戦闘班の出動可能な態勢となったのだ。

 全体情報共有会議の中で決められた方針を元に、即座に出動地域が定められる。

 志緒は気合いを入れ立ち上がった。

 報連相は非常に大事なため、戦いの場に赴く前に上司の正中へと報告する。

「それでは長谷部志緒、行って参ります」

「言わずもがなだが、充分に注意してくれ。もう少しだ、もう少し態勢が整えば彼を迎えに行ける。あの男さえ来てくれれば、事態は一気に変わるはずだ。すまないが、もう少しだけ頑張ってくれ」

「課長、いえ今は室長でした。正中室長こそ無理せず少しは休んで下さいよ」

「今無理をせずいつ無理をする……と、言いたいが分かっているさ。もちろん休むよ、ただし彼が来てくれたらだがね」

 正中の頬は痩け、全身から疲労が漂っている。それで目だけギラギラと力があるため別人に思えてしまうぐらいだ。今も笑ったつもりなのだろうが、まるで疲れきった老人が自嘲する姿にしか思えなかった。

 何も言えない志緒は黙って頷くと会議室を出る。

 とりあえず今日は輸入大豆確保の為に頑張らねばならないのだ。どんな班構成にするか、頭の中で考える。ふと、横から光りが差し込む。

 日の出だ。

 太陽の光を浴びると妙に安心出来る。そして深々と心の底から息を吐く。

「はあっ……七海さんの電話だと、どうにも動く様子がないのよね。とても課長、じゃなくって室長には言えやしないわ。チャラ夫が電話しても言いくるめられただけだし、直接会いに行って頼み込むしかないわね。そうなると私が行くしかない……一人だと不安ね」

 その決意と共に移動する志緒だが、まずはリネアの回収に向かうのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る