閑43話 つまらぬものを蹴ってしまった

 警官二人は避難する車を誘導していた。その車が通過すると、目の前に見たこともない姿の生物がそこに立っていた。

「え? 猫、いや豹?」

 直立した豹のような姿だった。

 マントを着けた姿はコスプレではないかと思える。だが、体毛の生え具合はどう見ても本物だ。悪魔が出没する状況下だが、実際にその存在を目の当たりにすることは初めてで、警官二人は貴重な時間を茫然として過ごしてしまった。

 豹の悪魔が素早く動くと、何かが宙を舞う。

 ボトッと音をさせ転がったそれを年配の警官が目で追うと、見慣れた同僚の頭が地面に転がり目を驚きに見開いたまま虚空を見つめていた。続いて鈍い音のした方を見ると、頭のない身体が倒れていた。

「あっ?」

 豹の頭に見据えられ、それでも警官は呆然としていた。背後で女性の悲鳴が響いた事で、そこでようやく我に返り腰の拳銃へと手を伸ばす。

 だが全ては遅かった。

 豹の腕がぶれるように動けば、同時に空中を大きく舞っていた。ぐるぐると回転する景色の中に頭のない身体が立っている様子が見え、それが自分の身体だと分かると同時にブツリと視界と思考がブラックアウトした。

 ペットの犬たちが一斉に吠えだし、遅れて人々の悲鳴や叫び声が連続する。

「よくも! 敵を討て!」

 仲間をやられた警官たちが拳銃を構え、悪魔へと向かおうとするものの、悲鳴をあげ逃げ惑う人々の動きが邪魔をする。動けないどころか、逃げる途中の男に邪魔だと殴られてしまう者までいた。

 そうこうする内に、悪魔に追いすがられた人々が次々と殺戮されていく。警官たちも、もはや人々を守るというより自分の身を守らねばならない程の距離に悪魔が接近していた。

「撃て! 撃て! 撃て!」

 誰が叫んだかすら分からぬまま警官たちが無我夢中で引き金を引いた。

 発射された弾は悪魔のみならずパトカーにも命中し火花を散らした。たとえ後になって、識者と称する者たちから賢しらに批判されようと構わない。そうせねばならなかったのだ。

 ようやく悪魔が地面に伏したが、よく見るとまだ弱々しくも動いていた。

「慎重に近づくんだ!」

 何人かの警官が拳銃を構えたまま、そろそろと近づき悪魔を囲む。頭部を狙いを定め、引き金を引く。乾いた音が響いた後、豹の悪魔は動かなくなった。

「やった……」

 警官たちはようやくホッと安心した。

 だが、次の悲鳴があがる。彼らの背に何かが飛びかかり、押し倒しながら首筋に喰いついたのだ。灼熱の痛みと失われていく命に悲鳴があがる。

 悪魔は一体ではなかったのだ。

「逃げろぉ! もうダメだ悪魔が来るぞ!」

 足を止め野次馬根性で様子を伺っていた人々は、再び逃げ出した。

 豹顔の悪魔が車の屋根を踏みつけ疾走する。それも一体だけではない、二体三体と数えるのも面倒になるぐらいの数だ。跳躍し追いついた人の背へと抱きつくように飛び掛かっていく。

 そして血飛沫があがり、思わず目を背けてしまう光景が繰り広げられる。

 駆けつけた警官たちが逃げ惑う人々を押しのけ発砲しだすが、それで倒されるのは何体かだけ。命中弾が少ない上に弾薬など皆無に等しい。たちまち銃弾を撃ち尽くすが、気が動転しているせいか銃を構えたまま引き金を引き続けるばかり。そこに悪魔が襲い掛かり、新たな犠牲者が発生する。

 この災厄の中でよく見られた惨劇の一幕であった。


◆◆◆


 校舎の中は混乱に満ちていた。

 窓ガラスを突き破り侵入した異形を前に避難した人々は悲鳴をあげ逃げ惑うばかりだ。どこが安全かすら分からないまま、狭い廊下の中を大勢の人々が一斉に走り出していた。

 足の遅い者を突き飛ばし、立ち竦んだ者を蹴倒し我先に逃げだしていく。消火器や椅子を構え悪魔に対抗しようとする人は少数で、大半はただ逃げ惑うのみだった。

 冬広は廊下に倒れていた。

 大人に何度も踏まれたが、背中のリュックサックのおかげで、大きな怪我はない。それでも足には激痛がはしり、簡単には動けそうになかった。

 現れた悪魔の姿に震え、涙が零れ鼻水が垂れ、助けを求めようとする声もかすれ上手く出せない。隣で苦しそうに呻く吉行を背後に庇うだけで精一杯だ。

「こ、こないでよ。こっち来んな……」

 何とか声をあげるが、もちろん悪魔に通じる筈もない。

 ゆっくりとした足取りの悪魔が近づき、歯をがちがちと打ち震えていると――目の前を誰かが駆け抜けた。

「ちょりゃぁっす! スーパーデラックスキーック!」

 少し間の抜けたような調子の良い声。

 驚く冬広の前で、突如現れた人が見事な蹴りを放ち悪魔に一撃を加えた。あれだけ恐怖を振りまいていた悪魔が、一瞬で吹っ飛ばされ壁に激突し倒れ動かなくなってしまう。

「ふっ、つまらぬものを蹴ってしまったっす」

 なんだこいつと冬広は思った。

 茶髪のチャラチャラした格好の高校生ぐらいの人だ。調子の良さそうな顔で不敵に笑ってポーズを取っているが、ちょっと格好いい。

「ふっ、まだまだ来るっすか」

 その視線が廊下の向こうに向けられた。

 つられて冬広が同じ方向を見れば、新たな悪魔が何体も現れている。もう駄目だ。助かりそうにない。

「倒してもきりがないっす。つーか、なんすかね。こんな状況で喜んでるのは、きっと兄貴ぐらいっすね。今頃はどっかで大喜びしながら敵を倒してるんすかね。うん、きっとそっすね」

「あぶ、危ないよ。お兄さん逃げて……」

「少年よ、心配ご無用っす。この程度雑魚なんす、そっちの子も直ぐに助けてあげるっすから。俺っちに任せるっす」

 穏やかな顔で笑う様子は頼もしいものであった。そして素早く駆け出し悪魔と戦い出す。冬広は呆然とそれを見つめるばかりであった。


◆◆◆


 体育館の中には数十人が倒れていた。まだ息がある者もあれば、ない者もいる。手がずたずたになった女性や、腹あたりが血に染まった男性もいた。動ける人はとうに逃げ去っており、残っている者は見捨てられた者たちだった。

 絶望の中で、苦痛と怨嗟の声がこだまする。

「痛い、どうし私が」「助けて……誰か助けて」「置いていかないで」「こないで」「嫌だ嫌だぁ!」

 その中を悪魔が動き回り捕食をする。食い付かれた者が激しい悲鳴をあげ、咀嚼される音を聞く者は次は自分の番だと恐怖と絶望するしかない。

 また一人の命を咀嚼し終えた悪魔が次の獲物を探し視線を彷徨わせる。まだ若い母親は自分の子供を背後に庇い、悪魔に対し手を合わせ必死に頼み込む。

「お願い。この子だけでも食べないで……私だけを食べて。お願い」

 言葉が通じる相手とは思えぬが、それでも母親は必死に心の底から頼み込む。だが鋭いかぎ爪の生えた手は、何も気にしない様子であった。

「ガルムさん、体当たりを!」

 凛とした女性の声と共に、一頭の犬が悪魔に襲いかかり吹き飛ばした。さらに食いつき、軽々と倒してしまう。

「後は舐めるで皆さんの回復をお願いします」

 その声によって、狛犬のような犬が怪我人に近寄った。

 愛嬌のある顔だが、どこか犬とは違う。しかも、たったいま目の前で悪魔を倒した存在だ。誰もが怯えたのは無理なからぬ事だろう。

 悲鳴のあがる中で、ひっつめ髪の凛とした女性が手を叩いてみせた。スーツを見事に着こなし、まるで一流企業の秘書のようだ。

「皆さん、ご心配無用です。こちらのガルムさんは、とても良い方です。とにかく今は傷を治さねばなりませんので、じっとしていて下さい」

「いやいや説得力ないでしょー。綾さんってば、だめだめねー」

「法成寺主任は黙っていて下さい。それと、私を名前で呼んで良いのは一人だけです」

「こりゃまた失礼。それでは、ここの皆さんに聞きますよー。このまま死んじゃいたい人はいますかー?」

 白衣をきたぽっちゃり目の男が手を挙げ叫んだ。へらへらと笑っている。

 誰も応えないのは驚いているだけだが、男は大袈裟な身振りで頷いた。

「いなさそうなのねん。じゃあ、ちゃんと聞いといてね。こちらのガルムは人間の味方で、傷を治す力があるわけ。ちょーっと恐いかもっておもうけど死にたくないなら我慢してちょ」

「まったく何て言い方を……」

「あんま時間がないっしょ。治癒して欲しくないなら仕方ない、こんな場所で時間を取られるなんて無駄でしょ無駄。希望ないなら先に行っちゃいますよー」

 それでも誰もが疑い声をあげないのだが、しかし怪我人の中から老人が立ち上がった。肩に酷い傷を負いフラフラとしている。

「そんなら、まず私に頼めるかね」

 名乗り出たのは自分が助かりたいから、というわけではなさそうだ。自分が実験台となり、本当か嘘か安全かどうか試そうとしているらしい。

 ひっつめ髪の女性は目元を潤ませ力強く頷く。

「ええ、ええ分かりました。こちらへ。ガルムさん、お願いします」

 がうっ、と小さく咆えて狛犬のような犬が小走りでやってくる。自分の主人の最も大事な人で、その命令に従うよう頼まれているのだ。

 ガルム自身の意思もあって、怪我人を分厚い舌でべろべろと舐め回す。そして老人の傷を無事に治してしまった。

 その途端、治療を希望する声が次々上がり先を争うように殺到しだした。

「これだから人間ってのはねー。あー、やだやだ」

 白衣の男は小声で呟き、面倒そうに頭を振った。

「というかですねー、困りましたねー。まさか、こんな事になるとはねー。どうしたものですかねー。本当、やってくれましたよね教授……」

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