第218話 ぽいっしなさい、ぽい

 世界が変わった。

 空は薄雲の如く薄明るく薄暗い様相となり、そよぐ風も森の香りも消えた。遠くから聞こえた街や車両の音もぱたりと止んでしまい、辺りは不気味な静寂に周囲は包まれている。

 そして辺りには濃密なDPが立ち込めていた。

「この感じは異界みたいな? でも、そんな。まさかこれは噂の人工の異界!? えっ、それじゃあまさかの敵襲!? ここに!」

 ヒヨは戸惑いから驚愕へと表情をめまぐるしく変え慌てふためく。

 人工異界の知識はあるのだろうが、このアマテラス本拠地が標的になるとは少しも考えていなかったのだろう。見通しが甘いというよりは、神域に対する盲信なのかもしれない。

「こんな時こそ落ち着くべきだな。そら、深呼吸しとけ」

「え、あ……すみません」

 冷静な諭すような声に自然と従い、ヒヨは言われるまま深く息を吸い吐き出した。そして気を落ち着けと、声をかけてくれた相手へ視線を向けた。

 目を瞬かせる。

 腕組みする五条亘という存在は平然としており、纏う雰囲気も先程までとは違う。妙に力強く頼もしく感じられてしまうが、デーモンルーラーによる影響だと気付くまでに数瞬を要した。

 そのため、問いかけられた言葉への反応が遅れる。

「それで、緊急時の対応マニュアルとか決まってないのか?」

「……え? あ、はい。人工異界発生時の対応策は一応。えっと、まずは一般参拝者の保護。それから最寄りの指定地点への参集ですね」

「だったら戸惑ってないで、すぐに行動したらどうだ」

「そ、そうでした。それじゃあ――」

 しかし神楽が嬉しそうに言った。

「ねえねえ。それよかさ、さっそく敵さんだよ。ほらさ、あっちから来てる」

「おやそうか、もう来たのか早いな」

 上空を何かが横切る。生い茂る枝葉をものともせず降下して来たのは、蜥蜴に蝙蝠の羽を生やしたような姿でゴツゴツと石のような身体。先の割れた赤い舌をチロチロと覗かせ、大きな目をギョロリと動かした。

「ガーゴイルか?」

「そだねガーゴイルだよ」

「ゴイル、ゴイル」

 呑気に亘たちが話す一方で、ヒヨのみならずその部下たちも驚き戸惑ったままであった。観光客が無邪気に悪魔を召喚したとか、そんな下らないことではない。

 神域への悪魔の襲撃。

 ありえない……というより、あってはならない出来事。

 故にヒヨたちは事ここに至っても、間違いや勘違いではないかと呆然としていた。正常性バイアスも影響しているかもしれない。

「とりあえず片付けとけ」

 亘が顎で示すとサキが跳ねるように前へ走っていった。ガーゴイルは尾をくねらせ攻撃を放つのだが、それを無造作に掴んだあげく引き寄せる。そのまま蜥蜴顔の喉元を掴むなり、あっさりねじ切ってしまった。

 緋色をした瞳をキラキラとさせ、金に黒の混じった髪をなびかせ駆け戻ってくる。その天使のような微笑みで差し出すのは、もちろん血まみれの蜥蜴頭だ。

「これやる」

「いらん」

「やる!」

「生首はやめろ、グロいだろ! ぽいっしなさい、ぽい」

 亘は横の林を指し示す。

「マスターってばさ、それ酷いよ。せっかくサキが獲ってきてくれたのに」

「酷い」

「だよねー」

 サキはショックを受けた様子で項垂れ、それを神楽が責めるような口調で同意する。まるで、さも亘が極悪非道なような言いぶりだ。消えゆく生首も少し恨めしげに見えた。

「はいはい。分かった、そりゃどうも悪かった。次から生首だろうが、生き肝だろうが喜んで受け取ればいいんだろ」

「そだよ。あと、食べるフリとかしてあげると良いよ」

「あっそう」

 亘は肩を竦め、話題を変えるべく傍らのヒヨに視線を向けた。

「それで参集場所はこっちなのか?」

「…………」

「おーい、違うのか?」

「えっ、あっはい。そちらです!」

 ようやくヒヨの硬直が解け、力一杯返事をした。

 圧倒されていたのだ。あっさりガーゴイルを倒してしまったこともだが、それを当たり前のように受け止め平然としていることもだ。しかも完全に自分の悪魔を使いこなしている。情報として知っていても、それを目の前にすると驚きしかなかった。

「じゃあ行くか。きっと七海もそこにくるだろうからな」

 亘はヒヨとその部下たちに声をかけ歩きだした。


◆◆◆


 玉砂利をザクザク踏み進んだところで声があがる。

「ヒヨ様、あれを!」

「ええっと……なんなのあの集団は!?」

 巨木に挟まれた玉砂利敷きの道を、しずしず進んで来る行列が見えた。いずれもフード姿をした悪魔――例のアメリア国のコンプトン大使を襲撃した際に登場したリッチだ――の群れで、その数は軽く百を超える。

 しかも、そのいずれもが異界の主に匹敵する実力を秘めていた。ヒヨたちは動揺を隠せない。敵を数え、得られるDPを計算するような男は一人ぐらいのものだ。

「ど、どうしましょう。そうよ、今こそ一文字に選ばれた実力を示すチャンス! ついに私も本格的な戦闘でびう!? 落ち着いて、落ち着かなきゃ、わきゃっ!」

「あのさ、煩いからさ」

 頭頂部に跳び蹴りを貰ったヒヨは涙目で頭を押さえた。光り輝く羽を煌めかせた小さな存在を恨みがましく見やる。

「ううっ、蹴るなんて酷い」

「でもさ落ち着いたでしょ。礼はいらないからね」

 神楽はニコニコとニヤニヤの中間ぐらいの顔で笑う。自分のマスターに対する態度の復讐のつもりだ。

 軽く舌をみせた神楽はスイッと亘の側に飛んでいき、戦いの態勢をとる。意気揚々と戦闘に備えるのだが、その前でリッチたちは左右に広がりだした。

 その中心に現れたのは杖をつく小柄な老人。紋付き羽織袴に草履姿で、銀色にも見える少ない髪を後ろで軽く結んでいる。

 左文教授であった。

「さてアマテラスの諸君、いよいよ復讐の時じゃぞい」

 相変わらず頑固で猜疑心の強そうな顔をしているが、今は口の端を上げ薄い口ひげを嬉しそうに撫でていた。

 そして亘は軽く手を挙げ、気安く声をかける。

「確か左文教授でしたね。これまた珍しい場所で会いましたね」

「なんじゃお主は……むう、何度か儂の邪魔をした男だな」

 老人は嫌そうに顔をしかめる。

「ぬぬ、またしても儂の邪魔をする気か。此度はアマテラスに鉄槌を食らわさねばならん、前のように途中で引き上げたりはせぬぞ!」

 しかし亘は両の掌を上に向け、頭を振ってみせた。

「どうぞ、ご自由に。自分関係ないんで、両者で存分に戦いあってください」

「なんじゃと? お主それでも男か」

「そうですよ、何を言うんですか。敵ですよ敵。諸悪の根源。さあ、この地を守るため戦いましょう!」

「だって、アマテラスの人間じゃないし」

 その言葉にあちこちから非難の眼差しが向けられる。ヒヨしかりアマテラス関係者しかり、そして左文教授さえも。

 神楽とサキはちょっと恥ずかしげに身を縮めている。

「この日本が誇る神域を護ろうという心意気は?」

「一般人が手を出すのはマズいでしょ」

「私、知ってます。あなた公務員ですよね、だったら国民の生命と財産を護らずどうするんですか!」

「ああそれね……ここ管轄外なんで」

「むきゃあああ!」

 その言葉にヒヨは地団駄を踏んだ。さすがの神楽とサキも気の毒そうな顔をしてしまう様子である。

 実のところ亘は根に持っていたのだ。もちろん最終的には――たっぷり恩を売って――協力するつもりだが、いろいろ言われた復讐の機は逃さない。

 荒い息を繰り返すヒヨは指を突きつけた。

「あなたに正義の心はないんですか!」

「正義? そんなもの都合の良く利用されるものか、詐欺のどっちかだろ。そもそもだな……忘れてやしないか?」

 亘の声が低く抑えられる。異界の中にあって高レベル存在となっているせいか、ヒヨがたじろぐ迫力だ。

「え?」

「こっちはアマテラスの人間に襲われ殺されかけ、車なんて全損状態だぞ。全損状態。少し一緒に行動したからって、もう仲間扱いか? 冗談じゃないだろ」

「でも……やったのは寺社系列ですし……ほら、金銭的補償をする予定ですから」

「系列が違えど同じ組織だろ。あと、金銭補償をした時点でイーブン。されてない現状ではマイナスのままだろ」

「ううっ、そんなの酷いですよ。裏切り者ですよ」

 ヒヨは半泣き状態で頭をかきむしっている。


 亘は腕組みして、さも物事の道理をわきまえた大人のような顔して頷いてみせる。そうして賢しげに助言までしてみせるのだ。

「なに問題あるまい。ここは神域だろ、どうせなら奥にいる盟主様にお出まし願えばいいじゃないか。神様なら、ちょちょいのちょいだろ」

「それダメです!」

「神様だからって遠慮してたらダメだぞ。なーに、頼めば直ぐに動いてくれるさ」

「とにかくダメなんですってば」

 横から左門教授が口を挟む。ニヤニヤしながら口髭を触っている。

「そやつの言う通り、それはムリだのう。アマテラスの小娘からは言い辛かろうで、儂が教えてやろうかのう。ほれ、お主は天岩戸の神話は知っておるか。あの神隠れの話じゃ」

「一般常識の範疇でなら」

「そうかね、あれは間違いじゃぞい」

「はあ?」

 亘は眉間に皺を寄せる。天岩戸の神隠れといえば、誰もが知る有名な神話だ。それのどこが間違いだと言うのか。間違える要素自体が思いつかない。

 左文教授は過去に教壇に立っていたわけだが、きっと最近は人に説明したり教える機会がなく寂しかったのかもしれない。やや嬉しげに話を続ける。

「則ち――乱暴狼藉に怒った大神が神威を振るい、世界が暗闇に包まれる。天岩戸に逃げ込んだ者たちは、何日かしてようやく外に出ると生き延びたことを喜び歌い踊った。これが真実じゃぞい」

「それはまるで……」

 世界が闇に包まれるほどの攻撃、逃げ込んだ天岩戸。まるで戦略兵器による攻撃と、防空壕的シェルターみたいではないか。

「神という存在は強すぎるのじゃ。あまりに強すぎ、下手に動けば人の世は壊滅しかねん。特にこの地の神が力を振るわば、異界を突き破り周辺に壊滅的ダメージを与えるじゃろうな。強すぎるが故に、動けぬとは皮肉なことよ」

 左文教授はクツクツとした笑い声をあげる。

「なぜ神域に観光客として大勢の人間を入れると思う? この地を人が踏みつけ抑えつけ、神の力を削ぐためじゃぞ。無論、DPを浄化する目的もあろうが」

 ちらと見れば、ヒヨは反論の様子すら見せず沈黙をしていた。

 アマテラスの真の役目とは……恐ろしい力を持つ存在を封じ隔離することではないだろうか。ふと、そんなことを考えてしまう亘であった。

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