第206話 黄金色にキラキラと

 子供向けの陽気で軽快なリズムが流れ、甘ったるい菓子の匂いが漂う。そんな誰も彼もが楽しそうに笑顔でいる中で、ぐったりする男が一人。

「もうダメだ。刻が見える……」

 亘はコースターを降りたところで、よろめくように壁へともたれかかった。

 乗る前に絶叫度ハイパーMAXという看板を見て顔を引きつらせたのだが、楽しみにする七海の姿に――何より男のプライドのため――覚悟を決め乗ってきたところだ。

 結論から言えば、処刑マシーンだった。

 急勾配から一気に落下し高速走行して天地逆転。螺旋状にグルグル回転した辺りから何がなんだか分からなくなった。悲鳴をあげる余裕すらなく、歯を固く食いしばり目を閉じながら念仏を唱えていた。

 事前にトイレに行っておいたのは間違いなく先見の明があっただろう。

 目の前に来た七海が微笑みながら見上げて来る。

「はい。手をどうぞ」

「いつもすまないねえ、七海さんや」

「それは言わない約束……ふふっ、五条さんが冗談を言うなんて珍しいですね」

「そうかな?」

 足に力が入ってない亘の腕を取り、七海が支えてくれる。どうやら平然としたもので、いざとなると女性の方が度胸が良いのは間違いない。

 そんな七海は、ぐったり気味の亘にちょっと申し訳なさそうな顔をする。

「ごめんなさい。私、はしゃぎすぎでしたね」

「いや、そのなんだな。気にしなくていいさ。それよりも、七海が楽しんでくれるなら何よりだが」

 その問いに対し返事は即座であった。

「はい、とても楽しいです」

「それは良かった。とはいえ、少し休みたいな」

「ちょうど、ベンチが空きましたよ。あそこに座りましょうか」

 近くのベンチから家族連れが立ち上がって移動していくところであった。ただし、飲み食いしたゴミが乱雑に放置されたままだが。子は親を見て育つので、きっと将来は似たような人間に育つに違いない。

 七海は亘を座らせると、テキパキとゴミをまとめ捨てに行った。

「やれやれ……」

 情けないことだが、亘はベンチに背を預けると疲れた様子で息をついた。

 そっとスマホを取り出し、画面を鏡代わりに前髪をチェックする。激しい風圧に晒されたが、どうやら大丈夫そうだ。

「ふう」

 今度は安堵の息だ。

 そのまま背もたれに両腕を掛け、だらしなく足を投げだし座る。行儀は悪いが非常に疲れていた。それはスリル満点なコースターに乗ったことが理由だけでない。この賑やかで楽しげな雰囲気そのものに疲れた気分もある。

 慣れない場所、初めての体験は意外と疲れてしまう年頃なのだ。子供の頃は未知の体験を楽しみに受け止められるが、大人になるとそれが苦痛になりもする。

「なんだかんだ言っても歳だからな」

 三十五歳でいられるのも、あと数日。

 また一つ歳をくってしまう日が近づいている。

 片付けをする七海を眺めるが、そちらは眩しいぐらいの若さがある。もう十八歳になったとかで――細かい計算は兎も角として――亘が十八歳の頃にはバブバブ赤ん坊をしていたのだ。若いのも当然だろう。

 優しげな顔立ちに、赤い細フレームの眼鏡がよく似合っている。青のブラウスに白いスカート姿はスタイル抜群。存在そのものに華があって、それこそ通りすがりの男どもが話しかけてくるぐらいだ。

「むっ……」

 亘は眉をしかめた。しかし首を横に振った七海が亘を指差し何かを説明すると、すごすごと引き下がっていった。

「ふうっ」

 思いっきり安堵した。

 出会った頃は、まさかこうなるとも思いもしなかった。偶然エレベーターで一緒になったのが最初の出会い。それから色々あってチームを組むことになったが、全ては『デーモンルーラー』のアプリをダウンロードしたことで始まった。

 何と奇妙な縁だろうか。

 はあっと、ため息をつくと何気に胸元が突つかれた。下を見やればスマホ画面から小さな姿が上半身を出していた。キラキラした目で見つめ、グッと拳を握ってみせるではないか。

「マスターさ、ファイトなんだよ。朝も言ったけどさ、今日こそ決めるんだよ」

「おい、こら。出てくるな」

「いけるいける。絶対大丈夫だよ。後はさ、マスターの勇気次第で、ぶぎゃ」

 騒ぐ頭を指で押して画面の中へと押し込んだ。亘は緊張からくる息を吐くと、スマホを内ポケットにしっかりと仕舞い込んだ。

――そんなこと分っている。

 しかし、今日やるべき最大の目標を思うと、気が落ち着かない。

「どうされましたか。もしかして、お仕事の連絡でしたか?」

「いや、なんでもないさ」

 戻ってきた七海に微笑みを向けると、はにかむように顔を赤らめ隣にチョコンと座った。その可愛いらしさを見つめ、改めて決意する――七海にキスしようと。


 亘が幼少期に植え付けられた人間不信は根深く、これまで他人との関わりを避けながら生きてきた。友人関係の構築すら難しく、恋愛という生の感情をぶつけ合うことなどもっての外。

 それが幾つもの出会いによって変わった。

 ありのままの自分を肯定してくれる悪魔たち、友人と言える存在。幾つもの戦いを経験し少しずつ自信を付け、人と触れ合うことで人に慣れてきた。

 もちろん心の傷なんてものは、ドラマみたいに簡単に癒やされるものではない。でも今の亘には、生まれて初めて自分が傷ついてでも好きでいたいと思える心が育まれていた。

 それで好きだと伝えた。

 そして好きだと言われた。

 だが、まだそこまで。この胸に宿る気持ちを強く、もっと強く伝えたいと心から思っているのだ。とはいえ、雰囲気に流され好きと言えた時から、ワンクッション置いてしまった。

 そのため、足が竦んでいるのが現在だ。あのまま、キスをしておけば良かったと、何度後悔したことか。

 落ち着かない気分で胃が痛くさえなってくる。

――世のカップル共は、このような心を越え存在していたのか。

 憎むべき存在であるカップルへと、初めて尊敬の念を抱いてしまう亘であった。

 だが、いつまでも躊躇はしていられない。

 亘が拳を握り遠い空を眺めていると、七海が戻ってきた。

「あの、どうしました? やっぱり、何かありましたか?」

「大丈夫だ。コースターで緊張しただけだ。はははっ」

 自分の半分しか生きてない相手に心配されてしまうなど大人失格だ。頑張ろうと気合いを入れ立ち上がる。

「よし、観覧車に乗ろう」

 用意された攻略冊子には雰囲気が最高と書いてあった。


◆◆◆


 ぎしぎしと音をさせ箱が上昇していく。薄い鉄板ともろいプラスチックだけで出来た箱が、僅かな接点だけで地上数十メートルの高さに吊り下げられている。

 これはこれで恐怖系の乗り物だろう。

 とはいえ、いまはそんな事は全く気にしていない。開放感ある密室に七海と相対しているのだ。亘は気合いを入れた。

 何度も何度も唾を飲み込み口を開いた。

「あー。その……楽しいか?」

 やっと声が出たと思ったらこれだ。この聞き方では、言葉の捉えようでは凄く失礼ではないか。慌てて言い直す。

「すまん。変な意味でなくてだな。その我が儘言って、絶叫系のアトラクションとかがあまり乗れなかったし。つまらなかったんじゃないかと……」

「そんなことありません。とっても楽しいですよ」

 七海が立ち上がり力説した。しかし吊り下げられただけの空間が揺れだし、慌てて座り直す。

「そ、そうか。でも観覧車の中で立ったらダメだろ」

「ごめんなさい」

「…………」

「…………」

 お互い何となく沈黙してしまう。

 ふと気づくと向かいに座る七海がプラスチック製の固い座席に手をつき、ジッと見つめてくるではないか。軽く微笑みを浮かべているが、その目は何か言いたげで、そして何か言って欲しそうだ。

 もしかすると、七海の持つ攻略本にも観覧車について何か書いてあったのかもしれない。

 頭の中で今しかないと囁きがある。

 今を逃せばもうチャンスは当分ない。行け、やれ、どんと行け。

「そうじゃなくて。ああ、違う。そうじゃなくってだな」

 亘は頭を掻きむしると、大きく数度深呼吸をして、グッと唾を呑み込む。まるっきり不審者の行動だが、七海はジッと待っていてくれる。

 かつて初めて新藤社長と相対し命の危機を感じた時があった。その時と同じく追い詰められ、追い詰められきった先に覚悟が決まる。

「隣においで」

 思い切って、それだけ口にする。

 この言葉の後に何を考えているかなんて、分かっているのかもしれない。七海は恥ずかしげな顔をしつつ、そっと席を移って来る。

 隣同士で触れあう腕の温かさが、自分の隣で上目遣いで見つめてくる可憐さが、その瞳の輝きが全て亘を捉えて離さない。

 頭の中で鼓動が煩く顔が熱いまでに火照ってくる。

 そっと手を伸ばし柔らかな頬に手を添えると、七海が目を閉じた。震えながら顔を近づけていき、壊れ物を扱うように唇を触れあわせた。

 子供のようなキスをして、さっと離れる。

「「…………」」

 二人して気恥ずかしい雰囲気のまま、並んで外を眺めた。

 海が見えている。夕日を受け黄金色にキラキラと輝く海面はひどく眩しい。その中を過ぎる数隻の船がとても小さく見える。

 きっと、この景色は絶対に忘れないだろう。

「……海が綺麗ですね」

「そうだな」

 ちらと見た七海の横顔は穏やかで、そして美しい。この少女が側にいてくれる。それだけで心が軽い。幸せで満ち足りた気持ちになれる。

 夕日を受けた七海の頬は、それでも分かるぐらい朱に染まっていた。きっと自分も同じ様子に違いないと亘は思った。

 ゆっくりと下降する視界から海が消える。それでも二人は見えない海がまだ見えているかのように、同じ方向を向き続けていた。

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