第203話 さういふものに私はなりたい

 神社の一家にはサキが暗示をかけ忘れさせ、騒ぎが大きくなる前に逃げるように移動。何事もなく帰ることが出来た。

 イツキの話では注連縄が切れたからと、それで神社の封印が破られた事に気づくというものでもないらしい。異界の中身が空になった事も中を確認せねば分からない事で、つまり厄い存在が封印された場所に立ち入る者などいない。しばらくはバレないということだ。

 いずれ藤源次には伝えておかねばならないが、別れて直ぐに連絡するのも間が抜けている。後日連絡しようと後回しだ。

 家に帰るまでが旅行とは言うものの、実際には戻ってから荷物の片付けに服や下着の洗濯などを行わねばならず、日常に戻るには少し時間がかかる。

 なんにせよ、翌日に寝坊しかけ大慌てで出勤することになったのは、やはり疲れていたからだろう。


「課長、この書類の決裁をお願いします」

「五条係長ね。君は印鑑を押して貰うことが仕事と思ってるのか、それとも内容を説明して承認を貰うことが仕事だと思ってるのか。そこんとこ、どうなんだね」

「…………」

 下原課長が言った内容それ自体は真っ当だが、嫌みっぽい口調が全てを台無しとしている。とはいえ、亘が無言で見つめれば落ち着かなげな様子だ。

「いや、なんだね……係長の君がまとめた内容なら間違いないだろうからね」

 やがて額に汗を浮かべると、そそくさと印鑑を取り出した。

 嫌みこそ減らないが、どうにも亘に対する苦手意識――はっきり言えば恐怖――があるようだ。異界の中で酷い目に遭わされた記憶こそないものの、恐怖の感情は心と身体に刻み込まれているのだった。

「ところでだね。今日の夕方から、働き方改革で何をすべきかの検討会議があるんだが……そこんとこ、五条係長が出席できるかな」

 課長の言葉に亘は片眉を上げた。

 働き方改革のために資料をとりそろえ、皆で集まり残業しながら会議を行う。なんという矛盾だろうか。そもそも仕事量を減らさず、働き手の行動だけを改革しようとするなど全く意味がない。

「すいませんが、今日は立て込んだ用件がありますので無理です」

「そうかね、いや無理に出ろとは言わないが……現場をよく知る人の意見が貴重じゃないかと思っただけでね。五条係長が出たりしてくれると、そこんとこが良いかと思ったわけで。仕方ないから私が出ておくとしよう」

 グチグチと言われるが、以前のような高圧的でないため亘は平然としたものだ。

 ふと思う。

 堂々とした態度でハッキリ主張して反抗さえしていれば、厄介な相手だと思って下原課長も強く言って来なかったのではないか――だが、それは今になればこそ思えることであるが。

 パワハラめいた渦中にいる時は、そんなことすら考えられやしなかった。

「よろしくお願いします」

 頭を下げた亘は席に戻り仕事を続けた。定時を知らせるチャイムが鳴る少し前に課長が会議に出かけてしまうと、高田係長が靴の踵を打ち付け足音も高らかにやって来た。

 机の横に立つと、勝手に机の書類を弄って動かしたりなどしだすのは相変わらずだ。

「おおっと、五条先生が残業してらっしゃるじゃないですか。どうしちゃったんですか珍しいじゃないですか」

「別に、このぐらいは普通ですけど」

「あれそうですか。結構、早くお帰りになってるじゃないですか」

 ほどほどで切り上げ帰宅する事への当てこすりらしい。なんだか最近は、嫌みを垂れ流す頻度が高まっている。具体的には合コンめいたものに参加して以降だ。

「いいな、羨ましいな。私も五条先生みたいに。早く帰りたいな」

「では思い切って帰ったらどうですか。仕事にはメリハリが大事ですよ」

「うわっ、なんだか出来る男のお言葉。流石、五条先生ってば格好いい。私、惚れちゃいそうですよ」

「それは困りますね」

 素っ気なく言ってみせ、亘は無表情にパソコンへと向き直る。

 今日は早く帰ってやりたい事がある。その為には、集中して仕事を片付けねばならないのだ。下らない雑談など相手にしてられやしない。

「さてと、ちゃっちゃと片付けて早いとこ帰りますか」

 宣言するように言って仕事を片付けだすと、しばらくして相手にして貰えないと悟った高田係長は別の人の元へと向かう。残業時間の私語を減らせば、早く帰れるのではなかろうか。もちろん口に出して言えやしないが。

 プライベートは大事にしたいが、さりとて任された仕事を放り出すわけにはいかない。働いて得られる収入によって生活しているのだから、やはり一定の責任感や努力も必要だ。

 価値観の違う同僚たちとも上手に付き合わねばならず、ツンケンとするわけにもいかない。そうかと言って、過度に媚びて取り入る必要もない。

 職場でどう働くべきかの、バランス感覚は難しいものがある。

「そう。理想はあれだよな……」

 亘はパソコンを操作しながら上目遣いをした。

【嫌味にも負けず罵声にも負けず、理不尽にも唐突な無茶振りにも負けぬ丈夫な心を持ち気に病まず、決して怒らずいつも静かに仕事している。一日に労働八時間と休憩と少しの残業をこなし、あらゆる事を自分の感情に残さずに、よく働き休み、そしてサビ残せず。職場の隅の窓の際の小さな目立たぬ席にいて、東に病欠の同僚あれば行って肩代わりしてやり、西に疲れた同期あれば行ってその愚痴の話を聞き、南に死にそうな後輩あれば行って無理しなくてもいいと言い、北にパワハラやセクハラがあれば公益通報を行い。繁忙の時は全力で取り組み、閑散の定時はスタスタ帰り、みんなにカゲウスイと呼ばれ、出世もせず転勤もせず】

「さういふものに私はなりたい、ってね」

 言って亘はパソコンの電源を落とし立ち上がった。


◆◆◆


 自分のアパートの部屋。

 仕事帰りに買い物をして夕食の材料を取りそろえ、料理を終わらせたところだ。コタツの前にて真剣な顔で正座をすれば、同じく神楽もサキも、それぞれの位置で神妙な顔にて正座だ。

 机に並ぶのは、お揚げ料理の数々。稲荷寿司にきつねうどんがあるのは当然として、和え物にも茶碗蒸しにも、そして味噌汁にも全てがお揚げ入りである。お揚げに刻み葱と醤油で和えたお揚げを入れ炙った料理まであった。

 亘は約束を守る男なのだ。

「では、これより……お揚げパーティーだ」

「万歳」

「ばんざーい!」

 サキと神楽が小躍りをする。スキップしながら回転してみせ、手と手を打ち合わせるぐらいだ。アパートの部屋が一階で本当に良かった。

「あっちで食べた鍋も美味しかったけどさ、やっぱりマスターの料理が一番だよ」

 俵型の稲荷寿司をガブリとやっつけながら、神楽は嬉しげだ。そしてサキは言葉より態度で示したいらしく、満面の笑みで次々と食べていく。

「まあ我ながら今回は上手に出来たな。自画自賛して悪いが、この稲荷寿司の皮なんてどうだ。まさに絶妙な味付けじゃないか。ただまあ残念なのは、この味が毎回出せないところかな」

「でもさ、それで良いってボク思うよ。美味しいときとか失敗しちゃった時とがあるから、美味しい時が凄く美味しいんじゃないかな」

「ふむ、言い得て妙だな。流石に食べる事に関しては、一家言あるな」

 亘の言葉に神楽は頬を膨らませた。

「なにさソレ。なんか失礼なのさ」

 わざとらしく怒ったフリをしてみせ、すぐに笑い声をあげだす。

 ワイワイと言い合う間もサキは食べているのだが……時折、動きを止め亘と神楽の様子に視線を向けている。その目は、この場所この時間をしみじみと味わうような色合いがあった。

 金の髪に黒房が混じった以外に見た目に変化はないサキであるが、どうやら心の方は微妙に変化しているらしい。

 とはいえど、亘は気にしないのか気付きもしないか。箸で挟んだお揚げを掲げてみせ、パクリと食べてしまう。

「やはりお揚げは正義だな。これだけあっても、特に殆ど材料費はかからないところが素晴らしい。明日からお揚げをメインにするか」

「賛成!」

 さっと手を挙げたのは、もちろんサキであった。だが、神楽は首を横に振る。

「あのさボクさ、それはどーかと思うよ。やっぱし、お肉とかお魚とか食べたいもん。それにさ、いろんなものの間に食べるからこそ美味しいんだよ。そればっか食べてたら、美味しいものが美味しくなくなっちゃうよ」

「確かにそれはあるな」

「お揚げ……」

 サキは獣の耳と尾を出し懇願するような目をしてみせた。

「まあ、少なくとも週に一回はお揚げ料理をメインにしよう。もちろん他の日だって、出来るだけ使ってやるさ」

「さすが式主」

 嬉しげに目を細めたサキは幸せの極地となる。見ている亘も同じ気分になり、ほっこりとしてしまう程だ。

「マスターときたらサキには甘いんだからさ。いいもん、いいもん」

 神楽は八つ当たりするように、稲荷寿司を食べだした。


「ちょっと多かったな」

「そかな、ボクには足りないぐらいだけどさ」

「……熊一頭でも食べられる奴が何を言うか」

「ほんとマスターってば失礼なのさ。それよかさ、あの件はどうすんのさ」

 その亘の前へと神楽が飛んできた。腰を屈め前のめりになると、人差し指を立ててみせる。お説教モードの雰囲気だ。

「あのさ、ナナちゃんとのデートの件だけど。どーするつもりなのさ」

 だが亘は余裕の態度であって鼻で笑う程だ。

「大丈夫だ。散々考えたが……やはり誘っても問題ないという結論に達した」

「いやそれ考えるまでもないと、ボク思うよ」

「んだんだ」

 サキは炙った揚げを口に咥えながら頷いている。驚くべき事に、神楽が気を遣って食べる量を遠慮したのだ。そのせいで、亘への説教が始まったのだが。

「もっとこう大胆に押して押して押さなきゃ、ダメなのさ!」

「神楽ってば……世話焼きおばさんみたいだな」

「んなっ! なにさソレ、失礼なのさ。ボクはさマスターのこと、とっても心配して言ってるのに失礼だよ」

「そりゃどうも。でもな、言われなくたって分かってるさ」

「ふーん、それならいいけどさ。本当に大丈夫?」

「ああ、大丈夫だ」

 亘はコタツの上に降り立った神楽を見やる。白い小袖を振りたくり、活き活きとした元気そのものだ。なんとなく、チョッカイを出したくなってしまう。

 指先で頭を押さえれば、じたばたと怒って暴れている。なんだか可愛い。

 解放された神楽は外ハネしたショートの髪を手櫛で直しつつ目を怒らせた。

「マスターってば酷いや。ボク心配してるのにさ」

「悪い悪い。なんだか、神楽がとっても可愛くて。それで、つい」

 その言葉に神楽の表情はたちまち緩んでしまう。

「んもーっ、マスターってば正直者なんだから。しょうがないなー、許したげるから。えへへっ」

 あまりにもチョロすぎる。可愛さを感じた亘がチョッカイを出し指先で突けば、神楽も悲鳴をあげつつ逃げもせずに相手をする。

「むうっ」

 そんなじゃれ合いにサキが軽く唸る。とことことコタツを回り込むと勝手に亘の膝の上へと押しかけた。あげくに、そのまま背を預けて座り込んでしまう。

「おいこら、動けないだろ。早く戻ったらどうだ」

「やだ」

「なんだ、もう食べないのか?」

「食べる。取って」

「なんだか我が儘なヤツだなぁ」

 ぶつぶつ文句を言う亘であったが、それ以上は何も言わず料理を手元へと取り寄せる。神楽はくすくすと小さく笑い、遠くの皿を押して寄せるなど協力しだす。

 そして賑やかに食事を続けるのだが、アパートの部屋には穏やかで楽しげな雰囲気が漂い続けるのであった。

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