第192話 心が落ちつく穏やかさ
夕暮れ時と呼ぶには少し早い時間帯。
だが、急峻な山に囲まれる谷間は日暮れも早く、太陽が山の向こうに姿を消せば井戸の底から空を見上げるように空ばかりが青かった。
土の道に石組みの段差、木の家。しかも見かける村人の服装は粗末な野良着でしかない。それらを眺め歩いていると、なんだか時代劇の中に迷い込んだ気分になってしまう。
「藤源次とイブキ君の姿はなかったな。どうしたのかね?」
「トト様と兄ぃはお役目だって聞いたぜ。でもよ、今日の夜には戻るって話だかんな。小父さんが来るのは知ってっから、急いで帰ってくると思うんだぞ」
「どこぞで悪魔退治か……」
「そうだぜ、ついに兄ぃもトト様と一緒に外の世界でお役目か。うん、立派なもんだぜ。よっと懐かしの我が家に到着」
イツキは両手を広げ茅葺き屋根の古民家の前で万歳めいた仕草をしてみせ、そのまま手を差し出す。
「その花だけどよ、良かったら俺が生けとくぜ」
「ああ、頼むよ」
安堵して亘は花束を渡す。実はこの花をどうすべきか、秘かに悩んでいたのだ。
ちょいちょいと七海が合図した。花屋の娘として扱いが気になるらしい。
「イツキちゃん。花の生け方は覚えてます?」
「もちろん完璧だぜ。水に漬けて水の中で切り口は斜めだろ」
「はい、そうです」
「よっしゃ!」
イツキは手を握り嬉しそうだ。
「そんじゃあさ、家の中に入ってておくれよ。俺はこれを水に浸けてくっからさ」
小走りで裏手へ駆けて行ってしまう。
残された亘は多少は勝手知ったる家のため、先頭に立って引き戸を開けた。中はひんやりとした空気だ。昔の窓が少なく天井の高い構造をした古民家は薄暗い。
亘の横から顔を出したエルムは物珍しげな顔をした。さらに上を向き、ふんふんと鼻をならす。
「なんやろな、爺ちゃん家みたいな匂いがするわ。木と畳と、これは味噌やな」
「こんな感じの家に住んでるのか?」
「いんや、もっと新しいんやけどな。似たような雰囲気っちゅうか匂いがするんな。爺ちゃん家って感じはあれや。心が落ちつく穏やかさやわ」
「……さよか」
亘にとって祖父母の家とは、真逆の感情を引き起こすものでしかない。だが、それは言う必要の無いことであって、ほっこりした顔をする相手に否定を投げかけるほど愚かではない。
「もう兄貴ってば、戸のところで立ち止まんないで下さいっす。入れないっすよ」
「エルちゃんも引っ付きすぎです」
「おっと。そら悪かったんな」
エルムがびょんっと跳ね横に退き、亘も土間を数歩進む。
それでようやく入って来た七海とチャラ夫だが、どちらも珍しそうな様子で室内を見回す。本物の古民家の、それも実際に生活する状態なんて、滅多にお目にかかれないだろう。
「あれはまさか……本で見たことのある竈です。本物ですよ」
「あれで炊いたご飯が美味いんだ」
「凄えっす!」
チャラ夫は周囲を見回し、一段高くなった床に手をつきながら身を乗り出す。その状態で腰だけ何度も跳ねさせ興奮しきっている。
「この古さ加減に、木の質感。これぞ本物っす! あの囲炉裏を見て欲しいっす、凄い使い込まれた感が最高っしょ! 梁なんか自然な曲がり具合に良い感じに褪せた色合い。それに足下の土間なんて本物の三和土仕上げっす! ふぁーっ! 興奮するっす! テンション上げ上げっす!」
「何やよう分からんわ……」
エルムに困った目で同意を求められ、亘と七海は揃って肩をすくめてみせる。どうしてチャラ夫がここまで興奮できるのか、誰にも分かりやしないことであった。
奥からトストスと軽快な足音が聞こえた。ガラリと板戸が開きイツキが顔を出す。裏から回り込んできたのだ。
「なんだよ、まだ上がってなかったのかよ。ほらほら、みんな山道で疲れてるだろ。上がって座って休んでくれ。飲み物用意すっから」
顔を引っ込め、また奥に行ってしまう。
その言葉を合図に靴を脱ぎ上がり込むと、勧められたまま床に腰を下ろす。思い思いにくつろぐが、チャラ夫は興奮した様子で建具や床を触り囲炉裏の灰に触れながら感動している。
エルムが前屈しながら自分の足を揉んだ。
「くあーっ、もう流石に疲れたわ。体力には自身あったんやけど、もう足が痛いっちゅうかパンパンや。ナーナはなんともないんか?」
問われた七海は女の子座りしながら、そっと自分の足を擦っている。
「ちょっと重怠い感じですね」
「ふっふっふ、そんなら揉んだるんな。ほら、ウチの部活伝統のマッサージやで」
「それ前にやって貰って、次の日まで痛かったですよね」
「ほうやったか? いやあウチ覚えとらんなー、忘れたなー」
「まったくもう」
ふざけて怒ってみせるような口調で七海が呟く。友達同士のやりとりといった感じで微笑ましいものだ。
そこにトストスとまた足音が響く。
「水だぞー」
イツキがお盆を手に姿を現わした。行儀は悪いが器用に足で戸を開け閉めしている。手伝おうとする七海を制すると、皆に湯飲みを配っていく。それを終えると、さりげに亘の横に並び同じように胡座をかいた。
「井戸水なんで、冷えて美味いんだぞ」
湯呑みに湛えられた水は薄暗い室内で黒めいており、表面に僅かな光を反射させ煌めいていた。そっと口を付ければ、無味無臭のはずが水の香りを感じる。
「いただきます」
ゆっくりと口に含んだそれは程よい冷たさで、口の中が滑らかに感じるまろやかさ。飲めばコクや甘みすら感じ、歩き疲れ汗をかいた身体に染み込む甘露だ。
「ぷはーっ、美味い! もう一杯っす!」
「おっ、チャラ夫は良い飲みっぷりなんだぞ。お代わりもあるぞ」
「あざっす。それよか、お盆にある草っぽいのなんすか? お茶請け、いんやこの場合だと水請けになるんすかね」
「そうなんだぞ、これって薬なんだぜ」
イツキは注ぎ終えた水差しを置くと、その草を摘み上げた。
「外から来た人が水を飲むと、お腹が痛くなることがあるらしいかんな。でも、こいつを食べとけば大丈夫なんだぞ」
「なるほど」
生水には細菌や雑菌が多数含まれ、水道水に慣れた人間が生水を飲むと腹を下してしまう。それだけ聞くと生水が恐いように感じるが、逆に考えれば本来は普通に飲めるべき生水が飲めない状態の方が恐いかもしれない。
亘も一つ囓ってみる。
乾燥させた草は舌の奥辺りで感じる青苦い味だ。前回来た時には食事の時にあって、漬け物みたいなものかと思って食べていた。
エルムは咥えてみせる。
「これは忍者の伝統薬っちゅうやつなんか、凄いんな。それやったら、足の疲れに効く薬とかないんか? ほらカッパの軟膏みたいなやつ昔話にあるやん」
「カッパのが効くのは、打ち身に切り傷なんだぞ」
「あるんだ……」
さらっと返ってきた言葉に亘は眉を上げた。
悪魔退治を生業にする忍者の里には、昔話の伝承がリアルに存在しているのだ。何と凄い話――だが、思い出せば修練場の奥には伝説の鬼がいた。驚くのは今更だろう。
「足の疲れなら温泉が一番なんだぞ。今日の宴が終わったら皆で温泉に行こうぜ」
「よっしゃあ、混浴っす!」
拳を突き上げ大はしゃぎするチャラ夫だが、対して七海とエルムは冷ややかな目だ。亘は即座に無関係を装い、湯飲みの水をすする。
「却下です」
「却下やんな」
「ちょっとした冗談じゃないっすか。そんな睨まなくても……」
「混浴なんて論外なんやけど、最近のチャラ夫君ってば。前と違ってなーんか目付きがエッチいんな。いやらしい感じがするんやで」
チャラ夫は目に見えて動揺した。
「そ、そんなことないっすよ。嫌だなあ」
「あのな、視線なんてまる分かりやで。チャラ夫くんはエロ親父の目ぇしとるんな。五条さんを見習いなれ、見るにしても遠慮して紳士っぽく見るもんやで」
「そうですよ。まったくです」
思わぬ流れ弾に亘はギクリとした。ここで動揺せず平然としてみせるが、空でもない湯飲みに水を注ぎだす様子からすれば、まだ修行が足りない。
「チャラ夫くんのこと志緒はんに言って相談せな」
「ちょっ! 志緒姉ちゃんには余計なこと言わないで欲しいっす!」
たちまちチャラ夫は流れるような動きで土下座した。
必死で謝るのは姉には逆らえぬ弟の宿命だろうか。
幼い頃から心理的な上下関係が刻まれているだけでなく、何よりブラックヒストリーの数々を把握されているのだ。きっと永遠に逆らうことは出来まい。
亘は微苦笑する。自分への飛び火もなさそうで、ゆっくり水を味わう――。
「えーっ、俺。小父さんとまた一緒に入りたかったのにな」
「「「また?」」」
イツキの余計なひと言でむせ返りそうになってしまった。
非常にマズい状況下にあって、亘の思考は素早く対処法を検討しだし対応を導きだす。あくまでも平静さを保ち、否認せず何でも無い事のように述べるのだ。
「おお、そういやそうだったな。あの時はイブキ君も一緒だったなあ」
「……イツキちゃんのお兄さんでしたっけ?」
「そうなんだよ。あの時はイツキのことを男だと思ってたからな、温泉で一緒になってビックリしたもんだ。はははっ」
「ほほう、ビックリしたんか。男の子やと思ってたのが、なんでビックリすることになったんや?」
「…………」
エルムの鋭い突っ込みに亘は押し黙る。とてもではないが、理由は言えやしない。皆の視線を浴びつつ、殊更ゆっくりと水を飲む。
「さて、そろそろ宴の時間じゃないかな」
導かれた対応は話題を逸らすことで精一杯だった。
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