第190話 自然の中に溶け込む気分
――相変わらずボロいとこだな。
忍者の里にある事務室はスチール棚が詰め込まれた手狭であり、たわんだ床は軋みをあげる。天井を見上げれば、その水漏れ痕は増え気がした。
腰掛けるソファセットもスポンジがはみ出した状態だ。
「あー、最高やったんな。鬼妖斎様と共演できたし、もう思い残すことはないんな。老衰でポックリ逝くまで、のんびり生きたいわ」
エルムは言葉通りに満足しきった顔で、ほんわか笑う。胸に抱きしめるのは鬼妖斎から貰ったサイン色紙だ。よほど好きらしい。
「俺っちも最高っす。自分が解き放たれたっつうか、晴れ晴れした気分っすよ」
「そりゃ結構なことで」
「兄貴もどうっすか。なんなら、次の公演とかどっすか?」
「だったら、その前に練習でもしようか。異界の中で思いっきり、どうだ?」
舞台をハラハラしながら見た亘は素っ気ない。
「遠慮するっす!」
NATSの訓練を聞き及んでいるチャラ夫は大慌てで首を横に振った。
「小父さんは照れ屋だなあ。出れば最高だったのに」
横で聞いていたイツキがテーブルの上の煎餅に手を伸ばす。個包装のビニールを開けると、端から少しずつ攻めるようにチマチマと囓っている。
「イツキは出てたか?」
「もちろんだぜ黒忍者集団の中だぜ」
「なるほど、気付かなかったな」
そんな雑談をしていると、入り口ドアが軋みながら開いた。現れたのはスミレだが、ドアの建て付けの悪く苦労しながら閉めている。本当にそろそろ建替え時じゃないかと勝手に心配するぐらいだ。
「二人とも有り難う、お客さんの反応もすっごく良かったわ」
スミレは笑顔で歩いてくるのだが、ふと気付けば床の軋みを全くさせていない。さすが忍者と亘は心の中で感心した。
「今から出れば里に到着しても、少し休める時間で丁度良いかと思うわ。歓迎会の準備で張り切っているはずだから、期待して下さいね」
「えっ、歓迎!?」
亘はぎょっとした。なにせイツキの里帰りついでに訪れるだけのつもりだ。それが歓迎会が開かれるまでの大事だなんて、反応に困ってしまう。
「単に遊びに来ただけなので、そんな歓迎とか大袈裟な事まではですね……」
「歓迎会っすか! これは盛り上がってきたっす!」
「なあ、スミレお姉さん。ご馳走とかあるんやろか!」
「ちょっとエルちゃんってば、そんな失礼ですよ」
困る一人に遠慮の知らない二人。それを窘める一人。それを前にスミレはにっこり笑った。
「ご安心を。他の里やアマテラス本部には伝えておりませんので。これはあくまでも、テガイの里の歓待の宴ですから。ご馳走を食べるだけですよ」
「「いえーい、ご馳走っ!」」
大喜びの二人がはしゃいで動けば、プレハブ小屋がギシギシ不吉な音をさせて揺れるのであった。
◆◆◆
「やあやあ山歩きなんて、なんや探検隊みたいな感じやんな」
藪を分け入り先頭を行くイツキの後でエルムが暢気な声をあげる。
天気は快晴だが、森の中ということで辺りは薄暗い。
頭上は木々の枝葉で覆われ日が遮られ、足下は何の植生もなく落ち葉が積もるばかり。雨水によって土が剥き出しになり、木の根すら露わになった場所すらある。
「そんやけど、なんか気味の悪い森やんな」
「この辺ってば、昔のリンギョーってので、木が植えられたらしいぜ」
「はーん? 木を植えてどうするつもりだったんすか?」
チャラ夫の言葉に亘は呆れてしまう。
「そりゃ売るために決まってるだろ。昔は国の方針もあって木が、特に杉が大量に植えられたんだよ。でもまあ、結局は値崩れして売れなくなったんで放置されて花粉を撒き散らすだけなのさ」
「花粉っすか! 昔の人のせいで大迷惑っす」
憤るチャラ夫に亘は肩を竦める。
その時代でやった事の結果が分かるのは、後の時代だ。もちろん現代でやった事も同様だろう。
チャラ夫がタオルで顔の汗を拭く。
「おいタオルは首に巻かないとダメだ。気を付けろよ」
「蛭が出るんすよね。大丈夫っす、刺されたらペチンと叩いてやるっす」
「あのな刺すんじゃなくって吸う感じだから。それに叩くと、傷が広がるから止めとけ。無理に剥がすのも難しいからな。吸われないようにするのが一番だ」
「あの、もしかしてですけど。蛭対策でタオルを頭や首に巻くとか、ズボンの裾にガムテープしたのは……」
「そりゃそれぐら防御しないと服の中に入り込むからだ。主に鼠径部……ええとつまり、何と言うか足とか股とかまで移動してくるからな」
その説明に七海とエルムは震え上がった。恐ろしげに周囲に目をやるが、その視線は普通に辺りを見ているだけで蛭が潜む地面や頭上には意識がいってない。
「大袈裟っねえ。そんなん出る筈がないっすよ――ん?」
へらへら笑うチャラ夫の肩にボタッと音が響いた。何気に視線を向けた先に、黒茶色したナメクジ風の存在が元気に半身をもたげている。それが尺取り虫のように突進しだす。もちろん首筋めがけて。
「ぎゃばーっ!! なんか居るっすっ!」
「チャラ夫、動いたらダメなんだぞ。ほら取ってやっから」
「早く早くお願いっすよ! なんか突進してくる、ぎゃああああっ!」
「うるさいヤツなんだぜ。ほらっ」
背伸びしたイツキがチャラ夫の肩に手を伸ばし、指先で蛭をピンッと弾いた。それで黒い塊は勢いよく飛んでいき、どこかに消えてしまう。けれどチャラ夫の目は見開かれたままで息も荒い。恐怖が過ぎ去った後も身体が硬直していきっていた。
「ちょっ、早く進むっす! ここはデンジャラスゾーンっす! マジヤバイっす」
「そうですよ。早く通り抜けましょう」
「賛成や。珠のお肌を吸われたくないんな」
実物の襲撃を見た三人はすっかり恐れおののいてしまった。我先に駆けださないのは道が分からないからだけだろう。
だが、肝心の道案内役のイツキはのんびりしたものだ。
「少し先まで行けば出なくなるかんな。安心するといいんだぞ」
「だああっ、のんびり喋ってないで急ぐっす!」
「分かったぜ。じゃあ飛ばすかんな、遅れんなよ!」
言うなりイツキは走りだした。
さすが山育ちだけあって速いもので、山中にあっても舗装道路を走るぐらいだ。密集した木々の間を縫うように進まれると、あっという間に視界から消えてしまう。
一行は蛭の存在と別の意味で慌てた。
こんな山の中で置き去りなんて洒落にならない。そこらのハイキングで行くような山ではないのだ。何層にも起伏が連なった山で人工的な音が届かぬ山である。
下手をすれば遭難しかねない。
「おい待てっ」
必死に追いかけた。
イツキは斜面をジグザクに駆け上がり、落ち葉を踏みしめ大きな石を飛び越え、柔らかな土を崩しながら斜面を下ると、千鳥に跳ねながら細い渓流を飛び越える。
背後を追う都会育ちは追いかけるだけで精一杯だ。
「よっと、ここでひと休みだぜ」
斜面を登ったところで、ようやく立ち止まってくれた。
明るい日射しが差し込み風が吹き抜ける乾燥した場所だ。堆積岩ぽい層状になった石が露出し多少の草がある。付近に広がるのは雑木が程良く混じって下草が存在した自然な感じの森だ。
「ここら辺りになると蛭が出ないんだぞ」
イツキは平然として言った。だが、残りの者は慣れない山中を荷物を持って走破した直後のため、膝に手を突き呼吸を乱して動けない。
「マジっすか……それマジなんすよね……」
「そうだぞ。でも、蛭がいないか見てやるかんな」
言ってイツキは一人ずつをグルグル回り確認してくれる。幸いなことに、チャラ夫の足で一匹発見されただけだった。はたき落とした後に苦無で刺してトドメを入れるのは、生息範囲を広げたくないからだろう。
呼吸を整えるため、思い思いに座り込む。
「疲れました……」
「うちも疲れたんな。ああもうっ、体育の授業よりハードやったわ」
七海とエルムは互いにもたれ合うように背中を預け、ぐったりしてしまう。きっと体育の授業でもそうしているに違いない。
そしてイツキは、手をひさしにして景色を眺めだす。
「おー、懐かしいぜ」
つられて亘も風景に目を向けた。
澄んだ空から注ぐ日射しに白い雲。色づき映えた山の稜線。呼吸が落ち着くに従い様々な音に気付く事が出来る。鳥の声に風の音。揺れる枝葉の葉ずれの音。自分が自然の中に溶け込む気分だ。
「あと、どんぐらいっすか? 早くご馳走が食べたいっす!」
しかし、チャラ夫の声で折角に気分を台無しだ。
「もう半分は来たんだぞ」
「まだ半分っすか……」
がっくり項垂れるチャラ夫。
それを笑う亘であったが、ふと気付き口を開く。
「あー、そうだ。事前にメールで連絡したように、テガイの里は昔ながらの生活をしているんだ。だから発言には注意するようにな。余計な口出しはするなよ」
「おっと、それを聞こうと思って忘れてたっす。意味が分かんなかったっす」
「説明不足だったか……簡単に言えばだな。現代知識チートは禁止ってことだ」
「知識チート! うおうっ、俺っちの憧れっす!」
「うんそうか、憧れか」
自分の膝に肘をつき、顎を手の平に載せながら亘は何気なく呟く。
「それやったら死ぬからな。その時は擁護しないんで、自己責任で頼む」
「ちょっ! なんすか、それ」
途端にチャラ夫がギョッとする。もちろん七海もエルムも同様だ。半分は脅しだが、これが案外と脅しでもなかったりする。
なにせテガイの里とは、そういった場所なので。
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